初期近代ドイツにおける形而上学 Lohr, "Metaphysics" #4

The Cambridge History of Renaissance Philosophy

The Cambridge History of Renaissance Philosophy

  • Charles Lohr, "Metaphysics," in The Cambridge History of Renaissance Philosophy, ed. Charles B. Schmitt and Quentin Skinner (Cambridge: Cambridge University Press, 1988), 537–638.

 最後はドイツ語圏での形而上学の展開についてです(624–38)。16世紀の後半から、プロテスタント圏での形而上学の重要性が上昇しはじめます。形而上学は、新教内部での対立やカトリックとの対立に際して、各派が自ら教義を基礎づけるために必要だと判断されたのです。

 また形而上学は自然哲学研究の正当性を主張するためにも利用されました。ルター以来のアリストテレスへの不信感から、プロテスタント圏ではアリストテレス自然哲学の研究を正当化するのは容易ではありませんでした。しかし医学研究を行うためにアリストテレス哲学の援用が必要であるのは明白でした。問題をさらにややこしくしたのが、当時の最先端の自然哲学の知見を提供してくれるイタリアの自然哲学者チェザルピーノがアリストテレスの哲学と信仰の教えとの両立を気にかけない自然主義的哲学を提唱していたことです。そこでプロテスタント圏では、アリストテレス哲学とキリスト教徒の調和を可能にするような形而上学原理をまず確立してから、アリストテレス自然哲学を主として医学分野に移入するということが行われました。

 このような形での形而上学の発展は主として南ドイツで見られたものです。対して北ドイツでは大学教育は和協信条を結んだ領主たちとの関係をより強く取り結んでおり、そこで生み出される哲学も領主たちの意向を強く反映したものでした。領主たちは信仰と理性の根本的な不一致をとなえる急進的一派に対抗して、啓示と理性との一致を証明する必要がありました。そのため存在についての一般原理を定める形而上学を土台にして、この一致を基礎づけることが行われます。同時にアリストテレスの固定的で静的な体系は、社会秩序を維持を志向する領主・教会、そして牧師を教育する大学の目的に仕えるものでした。このラインでの形而上学の整備は主としてスアレスの『形而上学討論集』に基づいて行われました。存在の学としての形而上学の整備の一方で、自然神学としての形而上学の発展もみられました。啓示神学がザバレラの哲学に基づく実践的学問として鍛え上げられる過程で、神や非物質的な存在を理論的に扱う領域が自然哲学として独立・発展することになったのです。

 和協信条を拒否したカルヴァン派の領域では異なるタイプの発展が見られます。そこでは人間にアクセスできるかぎりでの神の認識を扱う自然神学と、存在の原理を探求する形而上学存在論 ontologiaと呼ばれるようになる)がきれいに分けられます(ペレイラの区分が援用されました)。この後者の学問は、あらゆる学問分野の学説を整理して体系を整備しようというカルヴァン主義圏に特徴的な目標達成のために援用されました(哲学体系systemaという言葉が使われるように貼るのは1500年代終わりごろからです)。形而上学、ないしは存在論は各学問分野がどのような領域を扱うかを定める役割を担ったのです。この結果、形而上学アリストテレスが言うところの論証的学問と言うよりも、むしろ諸学の整備に不可欠なテクノロジー(technologia)と言われるようになりました。

 これらすべての形而上学はその原理が現実世界に対応したものであるという保証を神からの啓示に依存していました。存在についての十全な理解は神の観念を通してしか得ることが出来ず、それには啓示の助けが必要だからです。啓示に依存しない形而上学をいかに確立するかという課題が残されたとしてLohrは長きにわたる論考を結んでいます。