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ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

オーケストラ・ニッポニカ第33回演奏会:アカデミズムの系譜
2018年7月1日(日)14:30 紀尾井ホール 指揮:野平一郎、Vc:ルドヴィート・カンタ
池内友次郎:交響的二楽章(1951)、貴島清彦:祭礼囃子による嬉遊曲(1963)、島岡譲:前奏曲とフーガ ト短調 林達也による管弦楽新版(1948/2018)、矢代秋雄:チェロ協奏曲(1960)、野田暉行:一楽章の交響曲(1963)

2018年05月21日(月)

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島岡譲年譜(その1)終戦まで

【島岡譲先生は今回の演奏会に際しての私どもの取材にお元気にご対応下さいました。以下のブログ音楽史上の記述につき敬称を略させていただきますことご了解ください。】

 第33回演奏会で取り上げる『前奏曲フーガ ト短調』の作曲者、島岡譲(しまおか・ゆずる、1926-)の年譜を、3回に分けてご紹介します。島岡は音楽教育者として多くの師弟を育てる一方、篤いキリスト教信仰の道を歩み、還暦の年に信仰文集『山を仰いで』を刊行しました。この本の巻末に、「還暦までの歩み」と題した年譜が付けられています。その中から、音楽に関連した事項をピックアップしてみました。「その1」は生まれてから終戦の年まで。

 島岡は1926(大正15)年1月、群馬県前橋市に生れました。小学校の頃、音楽好きの長兄の買って来た三枚組SPのシューベルト「未完成」を聴き、衝撃を受けます。長兄が音楽を志しオルガンと和声学を習い始めると、これに刺戟されて自己流の作曲を始めたりオルガンを弾いたりしました。
 1935(昭和10)年に上京し、長兄と共に平井康三郎に師事、ピアノと作曲の手ほどきを受けました。1942(昭和17)年、平井に勧められて東京音楽学校を受験し合格。入学後、橋本國彦、下総皖一に師事し、同級生には大中恩團伊玖磨がいました。翌1943(昭和18)年は学徒出陣の年で、同窓生の多くは陸軍戸山学校軍楽隊に入隊しました。東京音楽学校は閉鎖状態で島岡は軍事教練と勤労動員に明け暮れましたが、しばしばサボって音楽喫茶や映画館に通ったりもしました。

1944(昭和19)年:この年の秋、学校ぐるみ関西の暁部隊陸軍の船舶部隊)に配属され、水中音波兵器の特訓を受ける。将来、兵隊の音感指導にあたるため。

 この間、営外居住のためストライキを指導、全員民宿を実現する。「我々は軍隊要求する義務は忠実に果たすが、それ以外の時間は勉強に専念したい。やがて平和が訪れた暁に我々が御国に尽くす途は音楽なのだから」というのが要求の趣旨。

 神戸大阪の楽器店に売れ残っていた楽譜類を有り金はたいて買い込み、訓練の合間にピアノで弾き散らす。その冬、淡路島岩屋の中隊に分遣される。兵営内でもピアノを弾いて絶えずトラブルを起こした挙句、中隊長に談判して、またも民宿を実現。

1945(昭和20)年:兵役が一年くりさげられたため召集を受け、5月25日(東京大空襲の日)、八王子の高射砲部隊に入隊。しかし高射砲も砲弾もなく、防空壕堀りに明け暮れる。やがて宇都宮近郊に移動、そこで8月15日の終戦を迎える。すし詰めの貨物列車で復員してみると前橋は見渡すかぎりの焼野が原。徒歩で渋川を経て赤城山腹の疎開先(義姉の実家)まで辿り着く。長い戦争の重圧から解放された喜びを実感した日。

 疎開先で冬を過ごす間に読書の楽しみを覚える。ロック『人間悟性論』を皮切りに兄の哲学書、思想書を片端から読破。音楽熱も再興、ピアノも楽譜も焼失したため、かえって向学の思いがつのる。

出典:島岡譲『山を仰いで』(主婦の友出版サービスセンター制作、1987年

NDL http://id.ndl.go.jp/bib/000001936324

■参考

(以下日本人作曲家の出典は、『日本の作曲家:近現代音楽人名事典日外アソシエーツ、2008)

  • 平井康三郎(ひらい・こうざぶろう、1910-2002):作曲家、詩と音楽の会会長、大阪音楽大学教授。師はクラウス・プリングスハイム、ロバート・ポーラック。東京音楽学校本科器楽部ヴァイオリン専攻卒、同研究科修了。
  • 橋本國彦(はしもと・くにひこ、1904-1949):作曲家、指揮者ヴァイオリニスト、東京音楽学校教授。師は辻吉之助、安藤幸、ヨゼフ・ケーニッヒ、チャールス・ラウトルップ、エゴン・ヴェレス。東京音楽学校本科器楽部卒、同研究科修了。
  • 下総皖一(しもふさ・かんいち、1898-1962):作曲家、音楽教育家、東京芸術大学教授。師は信時潔パウルヒンデミット。東京音楽学校甲種師範科卒、ベルリン高等音楽院に学ぶ。
  • 大中恩(おおなか・めぐみ、1924-):作曲家、大中恩混声合唱団「メグめぐコール」主宰。師は信時潔、橋本國彦。東京音楽学校作曲科卒。
  • 團伊玖磨(だん・いくま、1924-2001):作曲家、指揮者、随筆家、日本中国文化交流協会会長、神奈川芸術文化財団理事長。師は下総皖一、諸井三郎。東京音楽学校作曲科卒。

2018年05月20日(日)

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幸田延と安藤幸

 小説家幸田露伴の妹、幸田延(こうだ・のぶ、1870-1946)と、その妹、安藤幸(あんどう・こう、1878-1963)の評伝。延は音楽取調掛でピアノヴァイオリンの指導を受け、19歳でボストンへ、20歳でウィーンへ留学し、ピアノ、ヴァイオリン、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。25歳で帰国し、東京音楽学校の教授となる。演奏や作曲でも活躍するが、38歳の時予期せぬバッシングにあい休職、在野でピアノの個人教授を始める。私邸に音楽堂を建て演奏会も開催し、内外の音楽家と交流。67歳の時女性で初めて帝国芸術院会員に推される。76歳で没。
 一方で8歳年下の幸も東京音楽学校に学び、21歳でベルリンへ留学、25歳で帰国し同じく東京音楽学校の教授となる。幸は英文学者の安藤勝一郎と結婚し、四男一女に恵まれると共に、多くのヴァイオリニストを育てる。64歳の時音楽学校の職を思いがけず失うが、弟子の指導を続け、80歳の時女性で初めて文化功労者に選ばれる。84歳で没。

幸田姉妹:洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸 / 萩谷由喜子

 ショパン、2003

 290p ; 19?

目次:

プロローグ …25

第1章 黎明 …33

第2章 洋楽事始め …55

第3章 延の留学 …83

第4章 幸の留学 …111

第5章 遠距離結婚のはしり …143

第6章 バッシング …161

第7章 在野の音楽家として …183

第8章 非礼 …227

第9章 生涯ヴァイオリンとともに …253

あとがき …287

主な登場人物 …18

幸田家・安藤家 系図 …21

幸田延・安藤幸 関係年譜 …268

幸田延作品リスト …282

主要参考文献 …284

2018年05月18日(金)

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作曲家グループ「深新会」の概要

 1955年に作曲家池内友次郎が創設した「深新会」の、1958年までの概要です。発表会の作品名は省略してあります。

■グループ名:深新会

  • メンバー:池内友次郎、貴島清彦、小泉治雄、宍戸睦郎、篠原眞、田中友子、土屋陽子、寺島尚彦、外崎幹二、内藤孝、端山貢明、原和子、原博、藤本秀夫、別宮貞雄松村禎三、眞鍋理一郎、三善晃矢代秋雄湯山昭、和田則彦
  • 目的:パリ音楽院の伝統にもとづく和声法、対位法、フューグなどの技法を修得した人により組織。会員の作曲発表会および出版を行う。
  • 結成年月日:1955年春、会員12名により組織。
  • 発表会(年月日 会場:発表者)
  • 第1回 1955年7月4日第一生命ホール:藤本、寺島、三善、別宮、池内、湯山
  • 第2回 1956年6月4日第一生命ホール:清水陽子、田中、藤本、湯山、池内、黛敏郎
  • 第3回 1956年6月5日第一生命ホール:端山、別宮、池内、和田、寺島、内藤
  • 第4回 1957年4月11日第一生命ホール:石井和子、和田、藤本、池内、矢代、眞鍋
  • 第5回 1957年7月6日第一生命ホール:小泉、田中、貴島、池内、別宮
  • 第6回 1957年10月28日第一生命ホール:松村、眞鍋、藤本、内藤、端山
  • 第7回 1958年2月5日山葉ホール:清水陽子、加藤徹、原博、宍戸、原和子、湯山、池内
  • 第8回 1958年4月24日第一生命ホール:別宮、矢代、三善、池内、篠原

出典:「日本の作曲1959」(音楽之友社、1959)p64-62
http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20150225/1424814126

■参考

2018年05月17日(木)

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池内友次郎『父・高濱虚子』(その5)晩年

 作曲家・池内友次郎の自伝『父・高濱虚子:わが半生記』その5は、戦後の日仏交流、父の死、そして半生記出版まで。1953年には戦後二度目の渡仏をし、再びコンセルヴァトワールの試験審査員を務めました。その後友次郎は芸大図書館長、音楽学部長等を歴任し、1974年定年退職、名誉教授となりました。そして半生記出版の2年後に亡くなりました。

西暦(和暦):事項

  • 1953(昭和28):箕作秋吉の依頼で、国際音楽会議出席のためパリへ。安川、別宮、矢代、甲斐、西沢、田中と再会。ブリュッセルでも会議で講演、日本の音楽教育について語る。レヴィ先生訪問、田中希代子。コンセルヴァトワールで和声と追走曲の審査担当、和声で矢代秋雄、追走曲で別宮貞雄と西沢晴子が受験。安川加壽子、豊田耕児、山根弥生子の演奏を聴く。安川夫妻と帰国。 秋にマジャン・マルティノン来日。レヴィ先生来日、サンデー毎日事件で演奏家と評論家が交戦状態。ダンディの作曲法講義のほか、ビュッセルの管弦楽法など7冊を逐次刊行。音楽コンクールの委員NHKの尾高賞選考委員。テレビ出演、雑誌の対談。12月、同年代の平尾貴四男死去。
  • 1955(昭和30):深新会創設、三善晃「三重奏曲」演奏。音楽教育研究協会設立、会長となる。
  • 1957(昭和32):ブリヂストン美術館第9回作曲家の個展で池内友次郎作品が演奏される。
  • 1958(昭和33):大阪の相愛女子音楽大学作曲科主任を引受ける。大橋博を常勤教師に。
  • 1959(昭和34):父亡くなる。葬儀に小宮豊隆安部能成野上弥生子
  • 1960(昭和35):日仏音楽協議会設立、会長となる(昭和57年まで)。フランス政府よりレジョン・ド・ヌール・シュヴァリエ勲章を授与される。
  • 1966(昭和41):芸大図書館長(昭和45年まで)。10月還暦記念音楽会を東商ホールで行う。
  • 1968(昭和43):音楽教育研究会会長。
  • 1970(昭和45):芸大音楽学部長(昭和49年3月まで)。
  • 1974(昭和49):芸大定年退職、名誉教授となる。
  • 1977(昭和52):勲三等旭日中綬章を受章。
  • 1986(昭和61):文化功労者章を受ける。
  • 1989(平成元):『父・高濱虚子:わが半生記』永田書房より出版。

 箕作秋吉氏が見えて、六月ごろパリとブリュッセルで国際音楽会議があり、それに日本代表として出席してくれないか、と言ってくれたのであった。…前回と同様に、芸大の諒解を得て、フランス航空でパリまで直行した。…六月になってからコンセルヴァトワールはコンクール時期になり、私は和声と追走曲の審査に呼ばれた。和声では矢代秋雄君が受けていた。(p151、157)

 若い有能な作曲家の作品の紹介を主としながらの作品発表機関を創めることも意義があるのではないかと思い、この深新会という団体を実現せしめたのであった。深新会、という呼称は私の父が俳句の世界で唱えた、深は新なり、と言って、深く掘り下げてゆくとき新が生れるという標語から借りたものなのである。…出発のときの会員は、私のほか、年齢順にすれば、外崎幹二、貴島清彦、別宮貞雄、眞鍋理一郎、藤本秀夫、寺島尚彦、小泉治雄、内藤孝、湯山昭、和田則彦、三善晃、以上十二名であった。宍戸睦郎とか矢代秋雄の名が無いのは彼らがフランスからまだ戻っていなかったからである。(p167、170)

■参考

2018年05月16日(水)

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池内友次郎『父・高濱虚子』(その4)日大から芸大へ

 作曲家・池内友次郎の自伝『父・高濱虚子:わが半生記』その4は、戦後に父と親しい小宮豊隆校長の招きで東京音楽学校教師となり、矢代秋雄、島岡譲らを指導する一方、日大を貴島清彦らに託して辞任した時期です。1951年には渡仏してコンセルヴァトワールの試験審査員を務めました。

西暦(和暦):事項

  • 1946(昭和21):日大芸術科音楽科復活、主任教授として通う。吉祥寺に転居。東京音楽学校の校長小宮豊隆の依頼で、上野の教師となる。 東京音楽学校には、信時潔下総皖一に、宅孝二、野邊地瓜丸、巌本真理安川加壽子など加わる。音楽理論を担当。矢代秋雄と黛敏郎にレッスン。島岡譲にコンセルヴァトワールの和声を教える。現代音楽協会を再結成し、音楽会開催、弦楽四重奏曲初演。教育出版社の小中高校の音楽教科書を編集。
  • 1949(昭和24):東京音楽学校が芸大音楽学部へ移行。教科制度整備、アメリカ流単位制度導入。邦楽科存続問題。校長選挙。日大芸術科を貴島清彦と外崎幹二に託して辞任。
  • 1950(昭和25):ラザール・レヴィ先生来日。自分は芸大の間宮芳生、諸井誠、松村禎三、池野成、眞鍋理一郎、林光、永冨正之、三木稔といった学生たちを教える。更に篠原眞山本直純広瀬量平らも続く。東大仏文科の三善晃が毎日コンクールに登場、諸井三郎と若い作曲家について語る。
  • 1951(昭和26):コンセルヴァトワールの審査員として渡仏、初めての空路。ギャロワ・モンブランと面会、デュラン社とレデュック社と翻訳の交渉。コンセルヴァトワールのヴァイオリン部門試験審査。矢代秋雄、黛敏郎、別宮貞雄を教師に紹介。ルヴェル、シャラン、ビュッセル、シモンヌ・プレ、ダリユス・ミロー、サミェル・ルーソー。ビュッセル先生とオペラ鑑賞。演奏会。フォーシュ先生の墓参。
  • 1952(昭和27):ギャロワ・モンブラン(Vn)、ジュヌヴィエーヴ・ジョワ(Pf)を伴って帰国。二人は日本で演奏会。その後の企画につながる。芸大の教授生活、作曲科について。「作曲は教えられるものではない」

 小宮豊隆先生から葉書を受け取った。…小宮先生は、校長として赴任して以来、目ぼしい教授がほとんど皆辞任して去ってしまったあとなので再建に努力されている最中であり、私のことを父から言われ、私へ呼びかけてきたらしいのである。校長室で面会した。…君の学歴から見て、そして、もし君が父親の血を引いていたら良い教師になるであろう、君のお父さんの俳句に関しての指導力は抜群である、というようなことを言われた。(p114-115)

 本科を卒業して研究科にいた島岡譲君も私の教室へ出入りするようになり、コンセルヴァトワールの和声の低音課題と旋律課題を勉強して貰った。彼は、こんなすばらしい音の世界があったのかと感じたらしく、目を輝かせてそれに専心してくれた。日本における音楽書式の第一人者になる島岡君の素地はここから生まれるのである。(p117)

 パリのコンセルヴァトワールから試験官の依嘱が来たからちょっと行かしていただきます、ということを言っただけで、(芸大は)誰も文句をつけず、担当学生を自習させることで学校を休むことができた。…やがてコンセルヴァトワールから入学試験の審査員を依嘱するという書面が郵送されてきた。驚いたことに、それはヴィオロン部門のためのものであった。ビュッセル先生から、和声とか追走曲とかの書式部門は一月になるから、とりあえずこのヴィオロン部門に出席するようにとのことづけがあった。(p134、140)

■参考

2018年05月15日(火)

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池内友次郎『父・高濱虚子』(その3)帰国から終戦まで

 作曲家・池内友次郎の自伝『父・高濱虚子:わが半生記』その3は、パリから帰国し日大で教鞭をとり、音楽コンクールの審査員をつとめ、作曲とダンディの作曲法講義の翻訳にいそしんだ戦中生活。貴島清彦の名前が登場します。

西暦(和暦):事項

  • 1937(昭和12):小松耕輔の招きで日大芸術科の音楽科非常勤講師となる。貴島清彦、外崎幹二を知る。コロムビア専属作曲家として作曲する。NHKから国民詩曲を依頼される。
  • 1938(昭和13):このころ毎日新聞の音楽コンクール審査員となる(昭和37年まで)。貴島を押し2位になる。日仏音楽同好会設立常務理事。デュクソン(Vc)と藤田晴子(Pf)が「日本古謡による幻想曲」を録音。
  • 1939(昭和14):文部省から国民歌の依頼、山田耕筰信時潔堀内敬三、箕作秋吉、大木正夫と共に作曲。佐藤春夫詩『農民の歌』をコロムビアで録音、日比谷公会堂披露会。
  • 1940(昭和15):コロムビア契約解除。NHKの劇音楽担当。ダンディの作曲法講義を翻訳開始、開成中学同窓の佐藤朔に相談。
  • 1942(昭和17):ソプラノ三上孝子依頼の歌曲熊野」作曲。独唱会の後に山田一雄指揮新響、ソプラノ長門美保でも演奏。
  • 1943(昭和18):小松耕輔の後任として日大芸術科音楽科主任となる。宅孝二、山田一雄、外崎幹二の協力。戦局悪化、調布へ転居。三鷹別宮貞雄と交流。大映映画音楽の仕事で大牟田へ旅行。
  • 1944(昭和19):NHKから時勢協力の作曲割り当てにはずれる。日大芸術科音楽科閉鎖。調布の家で弦楽四重奏作曲と翻訳を進める。
  • 1945(昭和20):空襲を受けるが幸い無事。兵隊の訓練合宿に行くが担当教官が俳句の弟子だったので合宿せず家に帰れた。終戦。

 なにかのきっかけから、ヴァンサン・ダンディのクール・ド・コンポジションを翻訳することになった。作曲法講義と題してこの大仕事に取り組んだのである。最初の一行を書きはじめたとき、小舟に独り乗って大海の沖の彼方へ漕ぎ出るような気がした。開成中で同級であった佐藤朔君を訪ね教示を受けたが、このフランス文学の大家は約一時間ぐらいの間にこの本の大要を把握した。私はその能力に驚嘆した。佐藤君は、三巻にわたるこの大著の内容を見抜いて、この翻訳の仕事は君のライフワークの一つになるものだ、と激励してくれた。この日からこの翻訳の仕事はすこしずつ進行し戦後にまで及ぶのである。(p100)

 私は、仲間の一人としてこれらの人たち[清瀬保二、大木正夫、平尾貴四男など]と往来していたが、先に書いたようになんの信念もなく時勢に乗り遅れまいとうろうろしているだけであったので、次第に皆から取り残されてしまった。ある日、NHKで戦争に協力するために作曲の割り当てがあったとき、十数名の作曲家が集まったのだが、私にだけ注文が無かった。落伍していくようで淋しかった。私の好きな音楽がもう通用しない世の中になっていたのである。(p108)

■参考

2018年05月14日(月)

nipponica-vla32018-05-14

池内友次郎『父・高濱虚子』(その2)パリ留学時代

 作曲家・池内友次郎の自伝『父・高濱虚子:わが半生記』その2は、パリ音楽院に留学し、二度の帰国をはさんで過ごした20代の10年間です。友次郎はパリでダンディからメシアンまで多彩な音楽家の芸術を吸収すると共に、日本から留学した荻野綾子、平尾貴四男ら数多くの音楽家たちとも交流していました。日本の作曲界では深井史郎を別として清瀬保二らが「日本人の音楽を追及する」風潮でしたが、友次郎はそれに反対で、「西洋音楽技法を追求しながらその技法によって音楽を書く」という立場で修業を続けたのでした。

西暦(和暦):事項

 ポール・フォーシュ先生に手紙を書き、小松清氏のお兄さんの小松耕輔氏からの紹介状を同封した。…私の勉強はすぐに軌道に乗った。フォーシュ先生は、和声のクラスの位置を占められてからまだ二年目くらいであって、年齢も五十歳前後で活気旺盛であった。コンセルヴァトワールには当時まだ一人も日本人の学生がいなかった。先生は、おまえが最初の日本人になるのだ、と言っておられ、私に対して異常な関心を示されることになるのである。週に一回か二回のレッスンを受けた。今までのことを全て忘れろ、自分はすべて全部知ってる、と言われ、レーベルの教科書とその補遺のデュボアの教科書を併用しつつ和声の第一歩から勉強させられた。(p58-60)

 その後対位法と追走曲を習いはじめ、同時に学校の作曲の教授アンリ・ビュッセル先生に紹介され作曲の勉強もすることにした。毎日曜日に先生の自宅へ通った。先生は、皆が私を日本人だと言う、だから君に好意を覚える、と優しく話してくれた。…先生のクラスに出入りするようになってもその人柄に惹かれ自宅でしばしばレッスンを受けた。フォーシュ先生と全く異なる型の音楽家で、長い年月の間コンセルヴァトワールの作曲家教授として実に数多くの作曲家を送り出しながら、私に、作曲というものは教えられるものではない、ということをよく言われたが、それは私が作曲の教師としてその後数多くの若い学生と接触しているときよく実感として回想される言葉になったのである。(p69-71)

■参考