お笑い評論について3

えーと、ちょっと横入りしてもいいですかね?


御返事、御返事。(NOT FOUND−演芸雑想ノート−

それって、逆の考え方も出来る気がします。「自分たちは評論家なんだから、評論と言えば何を言っても良い」というのをすぐに言うクセに、自分たちが評論対象に何か言われたら極端に嫌悪感を示すのって、矛盾してませんか?


これはねえ、私自身が自分に引き付けて書きますが、すごく負い目があるんですよ。クリエーターに。
私の場合はそうですね。
(くわしくはこの辺を参照してください。)


だから、私自身の立場(他の人はまた別の考えでしょうけど)としては、
「まあ、ムカッとすることもあるかもしれないけど、これくらいのことを書いても許してよ」ということであり、
「これくらいのこと」が許されるために、ある程度分析力や文章力のレベルを自分で引き揚げていかなければならないと思っている、ということです。
(私が岡田さんの「評論」についての日記(2003年3月10日)にハッとされられたのは、岡田さんの立ち位置として、明確にこの「これくらいのことを書いても許してよ、いいでしょ?」というところを越えた自律性を持とうという意志が感じられたからです。しかし、自分の現状の立ち位置からすると、私が何かについて文章を書く場合、そこまで思いきっていないというのが正直なところです。)


どうも、あちこちのリンク先を見ていると、この件に関しては、
演者/評論家という対立軸とは別に、
プロ/アマチュアというのがあって、
「評論家」にプロとアマチュアが出てくるから、さらにややこしくなっている気がします。


で、「評論は広義の創作作品をサポートするものではない」と書いた私としては、
「評論がサポートするものではないのなら、最終的には批評する側が、ガン無視される場合もある」
というニュアンスを含めました(そのつもりでした)。


具体的にお笑いとは別のことを例に出すと(こんなこと書いてるわりには、商業出版物のお笑い評論ってあまり読んだことないんですが)、中野晴行の「マンガ産業論」とかをプロのマンガ家が読んでも、そりゃあ他の書籍も含めてまったく勉強にならないとは言いませんが、マンガ家がぜったいに読まなければならない本ではないのではないかと思います。


だから、私見としては、「評論」というのは、その対象となっている人に関係がある場合とない場合がある、としかいいようがない。
また別の例を出すと、たとえば実際にそういう本はないけど、「北斗の拳」に出てくる拳法が実在のどんな拳法がもとになっているかを解説して、「北斗の拳」を「ブルース・リー」と極真空手のブームの結実から、その後の総合格闘技ブームへの流れの中でどう位置づけるか、という本が出たとしましょう。
でも、たぶんそれを読んでも原哲夫は「ふ〜ん」くらいにしか思わないと思います。


んだから「芸人へのナビ的な意見」と「お客さんへのナビ的な意見」、「そういうレビュー的要素が希薄な評論」といろいろあって、そこら辺は分けて考えましょうということ、
まああとはぶっちゃけると見識の問題、ということになるんじゃないでしょうか。批評する側も、される側も。