鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <100>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<100>
2012年5月21日 「生涯を数えつつ」 


聖書の言葉
人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
詩編90編10-12節)


 
 金管日食が2012年5月21日の朝に見られると言うので、皆さんは心待ちにしてこの日を迎えている。数日前も、知人から電話があり、日食を見る眼鏡を用意したかと連絡をよこされた。関心はあるが、実際に見なくてもテレビで報道されるのであるから、それ用の眼鏡を用意していない。だから、今日はいつものように起きて、いつものように朝の務めをしている。連れ合いのスミさんが「始まったわよ」と言っている。そうか、日食であったと思いなおしテレビの画面を見る。横浜の上空は曇り空で、はっきりと見えなかったと思う。テレビは長野方面で撮影した金管日食を放映していた。東京方面は午前7時31分59秒から7時37分00秒が金管日食と言うことであった。日本中が大騒ぎしているのは、日本においては1987年9月30日に沖縄本島で観測されて以来のことであり、次回は2030年6月1日であるので、本当に珍しいことであり、人々を興奮させないわけには行かないようである。
 それにしても科学の世界の進歩には驚く他はない。宇宙の進行を的確にとらえ、すべてを予測するのである。地震にしても、かなり正確に予測されており、その備えが急がれている。しかし、予想を上回るとか想定外との言い方もあり、自然の動きに対しては、まだまだ未知の世界である。人間にしても、示された健康食品を食べていれば100歳を超えて生きることができるのである。しかし、人間は健康食品を食べていても、必ずしも100歳を超えるまで生きるとは限らない。人は皆、それぞれの体の仕組みがあり、いつその体が壊れて行くか分からないのである。とにかく、現在まで人生が導かれてきたことは、まことに感謝である。
 1939年5月10日が私の誕生日であり、73年間人生が導かれてきたことは、神様のお恵みとして感謝している。私の父は98歳、母は91歳まで生きることができた。両親が比較的長命であったことから、皆さんは私もその類であると言われる。しかし、人間の命ばかりは計り知れないのである。誕生日に関してこのブログ98、99で記してきた。しかし、誕生日に関して、誕生日カードとか母の思い出に止め、私自身のことについては記していない。それで、ちょうどブログ100にもなるので、73歳の感想を記しておくことにしょう。
 私は生涯の大半をキリスト教の世界で生きたことを、心から神様に感謝している。私がキリスト教世界に導かれるのは、母の導きであることについては、折に触れ記している。小学校3年生、9歳の時である。二人の姉も横浜の清水ヶ丘教会に導かれていたことも、私のキリスト者になる要因にもなっている。神学校に入学したのは23歳である。29歳で卒業し、青山教会伝道師に就任するが、それに先立ち連れ合いのスミさんと結婚する。青山教会在任中に正教師となり、副牧師になる。青山教会には4年間在職し、その後は宮城県の陸前古川教会に赴任するのである。6年半の在任であったが、最後の一年間は登米教会の牧師、幼稚園園長を務めたのである。このころには三人の子供達が与えられていた。羊子と星子は青山教会在任中、芝白銀で生まれている。百合子は陸前古川教会在任中に与えられている。そして1979年に大塚平安教会に就任するのである。それまではのんびりと教会の職務に向かっていたが、大塚平安教会に就任するや、とたんに忙しくなったようである。そのように言うより、神様が私の賜物をフルに用いるようになったということである。陸前古川教会を離任するとき、一人の婦人が、「先生はこのような地方の教会ではなく、都会の教会で、賜物をいっぱい働かせるべきです」と言われつつ送り出してくださった言葉が忘れられないし、職務が増えて行くごとに、その言葉を思い出していたのである。
 大塚平安教会の牧師はドレーパー記念幼稚園の園長であり、大塚平安学園理事長にも就任することになっている。その姿勢で30年と6ヶ月間担ってきた、同時に関連施設である綾瀬ホームとさがみ野ホームの嘱託牧師にも就任する。両ホームの礼拝、葬儀等、多くの牧会が導かれるのである。在任中、まず横浜保護観察所の保護司を5年ほど務める。神奈川教区の職務も次第に重くなってくる。教区書記、副議長、議長を務めることになる。退任するや日本基督教団の教師委員会委員に選任される。一期2年務めた後は教団総会書記に選任され、4期8年務めることになったのである。これだけでも、自分ながら「大変であったなあ」と振り返るのであるが、加えて八王子医療刑務所教誨師、神奈川医療少年院篤志面接委員を16年間務めている。教会以外でもこれだけの職務を担っているが、私は大塚平安教会の牧会をおろそかにしたとは決して思っていない。
 そして、今は隠退牧師の身分になっているが、御言葉に向かい説教に取り組む姿勢は導かれている。六浦谷間の集会と称して連れ合いのスミさんと共に礼拝をささげていること、私にとって隠退と言う言葉はない。身分的には隠退であっても、実際は現役なのである。毎月、第二日曜日には横須賀上町教会の礼拝説教、聖餐式を執行している。1969年から伝道者に導かれているが、まだ43年間であるが、現役的隠退牧師の務めは、もう少し続けられるようである。そんなことを示されながら、この度の73歳の誕生日を感謝したのであった。
 昨年は4月5月にスペイン・バルセロナに滞在中であり、羊子と知人の皆さんからお祝いされたことが思い出に残っている。今年は連れ合いのスミさんや子供たちからのお祝いを感謝している。



5月13日、73歳の誕生日後、横須賀上町教会の講壇に立つ。