飛沫節

はじめまして。略してNMということでひとつ。

【今日の読途中】

コンプレックス (岩波新書)


まあ古い本なのであるからして、学問的見地からはいささか陳腐化しちゃってる部分も多いのかもだけども、かなり名著だと思った。僕は、あまり本というものを読まずにここまできたうつ獣であるので、当然フロイトにもユングにもアードラーにも触れてこなかったから、こういう人間心理研究的な知識や視点というのが非常に新鮮に感ぜられる。遅咲きの新人である。


これまで、自分の内だけの狭い見識と貧弱なボキャで、そういうことなのかなあとボンヤリ考えていたものが、一まとめにされてゆく感じ。なるほどこれが読書の効能の一つなんですね斉藤先生。そう、人間については何事も裏返しで見ると丁度良いと思っていたが、それがまさにコンプレックス(心的複合体、”複合”がポイント)に注目する視点だったということなのか。

葛藤を引き起こし、自我の主体性を脅かしているもの


本書に従って、コンプレックスというものを対象化して言うとこうなるけども、ソレを対象化しているのもまた”私”というところが面白いところ。ここで、自我、自己、意識、無意識、コンプレックスなど種々の語が用いられるが、当然これらはそれぞれ別個に注目し定義していく必要がある。そして本書にはそれぞれの解説と構造が示されている。そして、もちろんメインは”コンプレックス”についてのあれやコレ。


例えば、友人同士で集まってサッカーをしようというとき、「僕はサッカーが下手だから」といって応援に回ったり、自らすすんでキーパーをやる(コレはキャッチング等に自信があるのかもしれないが)者があるとする。彼は、サッカーに対して『劣等』意識を持っているけども、自身でその劣等を認識している時点で、それはコンプレックスでなく、むしろコンプレックスを意識の上で半ば克服した状態であるという。練習して上手くなるか、あるいはサッカーに見切るを付けるかすれば、そこにコンプレックスはほぼ無い。


逆に明らかにサッカーにおいて優れた能力を持っていないのに、無理にボールを持ちたがったり、そうして失敗したことにやけに言い訳したりいつまでもブツブツとこだわっている人間の方がサッカーに対して強いコンプレックスを持っている。それが”感情”を伴った劣等意識こそが、コンプレックス(劣等コンプレックス)であり、サッカーが下手であることに対してどうしてもムキになってしまう、怒ってしまう(その人物の”主体性”が脅かされる≒自身の行動が上手く統御出来ない)というのがまさにソレ。


ただ、それがコンプレックスのせいであるにせよ、その本人がサッカーに『積極的』であることには違いない。それを契機にサッカーが上達したら、それはまさにコンプレックスにより自身の向上がもたらされた結果である。コンプレックスとはこのように、現状の自身に無い新しい何か(サッカーが上手い自分)を獲得する兆しとも言えると。


上記は『アタリマエ』のことなかもしれないが、コンプレックスというものの基本として整理して聞かされると、ああなるほどなと改めて思った。僕のコンプレックスの数々もなあ…。



また、そのコンプレックスの種類(現象の仕方)に『二重人格』や『ドッペルケンガー』が、挙げられているのが面白かった。僕はこれらの語を単なるオカルトかミステリーのネタか、くらいに捉えていたから。というか、19世紀ころに主だった研究がなされるまでは、誰にとっても実際その程度の認識だったのだろう。


コンプレックスの”極端な”現れ方が上記の二種である。要するに、自分の行動に何らかの規制をかけたり、あるいは自分が意識的・無意識的に抑圧している自己が、ついに暴走(自身のうちで完全に統御出来ない状態となって)して”もう一人の私”や”別の私”として表出する。恐らくここまでくると、精神科医の登場だろう。こわいねえ。



しかしある意味、”ツンデレ”ってアあれコンプレックスの表出か。
決めた、”ツンデレ”は”人造人間18号コンプレックス”と名づけることにしよう。



バカって言うほうがバカなんだからね!
って、両方バカなんだなあ、人間だもの。