ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

噂の

 信州にやってくると確実にそば屋をチェックする。小諸の草笛が上田にも佐久平にもあるけれど、今日は友人に連れられて「ふるさとの草笛」in 東御市。国道18号をTSURUYAのサキを左に曲がってくねくね。あの「草笛」の系統。中は入るとものすごく広い。椅子席、掘りごたつ式席、畳席とあって、その奥にもまだあるらしい。
 そのうちにバスがやってきていっぺんに26-7人のお客がぞろぞろと入ってきても、どんと来い。蕎麦打ち台はやっぱりここもガラス張りの中にあって、若い、力のありそうな人がぐいぐいと捏ねてはトントンと切っている。蕎麦が来てみると、はいはい、草笛の蕎麦そのもの。盛りにかき揚げ250円で大満足。やっぱり「草笛」の蕎麦はうまい。
 浅間を見やるとくっきりと見えている。こんな時はまさに「あぐりの湯」びよりだと一気に「あぐりの湯」へ突進。ほうら、見てご覧と露天風呂から浅間からの連山をながめる。さっぱりして出てくるとロビーではみんながテレビを凝視。連れ合いが出てくるまでの間、ソフトクリームを片手に野球の韓国戦に見入る。帰らなくてはならない時間になって帰路途上、藤川、岩瀬がなんとなんと打たれてしまうのを聴く。なぁんだ!ピッチャーはやっぱり「上野」に限るというのに、やっぱり星野は交代時期を見誤ったかとさんざん。情にほだされるタイプなんだろうなぁ、やっぱり。
 戻ってくるとやっぱりこっちは雲にお日様が遮られていて寒い。
 町の民俗資料館の前に通りかかると、なんとウィリアム・メレル・ヴォーリス(William Merrell Vories Hitotsuyanagi)展をやっている。彼の死後出版された自叙伝を入手。彼の生涯については宮原安春の「軽井沢物語」(講談社文庫)に詳しい。
 ここの入場券を買うとすぐ下にある市村記念館にも入ることができる。まぁ、こうした博物館とか、資料館といえば普通は写真撮影禁止というのが通り相場ではあるけれど、市村記念館はどちらかというとその建物を見せるというもので、こうしたものを撮影禁止にする理由が良く私にはわからない。例えばそうした写真をポストカードとして売っているからなんだということなんだろうか。「江戸東京たてもの園」のようにどんどん好きにさせてくれると良いのだけれどねぇ。
 元近衛文麿の別荘だったものである。昔の家というのは本当に天井が高い。それにしてもヴォーリスが最初に造った山荘は本当に簡素なものだったという展示を見てきた眼には豪華版に映るのである。
 冬の寒さ対策のオーヴァーズボンを探しに行く。North Faceというお店で涙が出るほどのものを発見して感動する。ウェストサイズの割に短いというオーヴァーズボンなのである。店員の若者に「それを探していたんだ」といってしまった。外国サイズのシャツなんかだと、私のような奴をあざ笑うかのごとく、裾は長いし、袖も充分に長くて手に取る気にもならないのである。
 友人宅で自作の野菜の料理を戴く。インカの瞳や紫色のジャガイモ、シャドークィーンの料理でとても珍しく美味しい。モロッコ隠元の天ぷらも甘くてうまい。食べ過ぎて動けない。

オリンピック

 ソフトボールの金メダルは本当に良かったと思ったけれど、なにしろ上野投手の超人的な活躍には本当に頭が下がる。最後のオリンピックでもあるし、ここまで連覇の米国に勝つという気持ちは何物にも代えられないものだったのだろうと思うが、この体力、精神力は一体全体どうやってここまでになったのだろうか。自分には全く縁のない世界だからこれは全く想像がつかない。辛いことは山ほどもあっただろうし、こんなことはもう辞めたいと思ったことも二度や三度ではなかっただろうし、自分を律するということは大変に辛いことだとも思うが、そうしてこういう名誉を得ることができる人たちのことを考えると、本当に良かったねといってあげたい。
 これまで何度もいわれていたことだけれども、最近はほとんどというより全くいわれなくなってしまったことだけれど、オリンピックはやっぱりアマチュアのためのものではないのだろうか。かなりの数の種目がプロフェッショナルのアスリートに対してオープンになっているけれど、それはかつての東欧諸国のステートアマチュアリズムに対抗してのことでもあっただろう。現在、野球、バスケット、テニス、自転車等あるけれど本来的なオリンピックの精神からいったらやっぱりプロフェッショナルは排除されるべきではないのだろうか。今更何をいっているんだという話になるのかも知れないが、オリンピックそのものが商業ベースに乗るか、あるいは今回のように国家の威信をかけての開催という状況の中にあって、このまま野放しのままオリンピックが進められていくのであれば益々表面的な形のものに拍車がかかるということになるのではないだろうか。これは各種目の世界大会で充分役割を果たしているのではないだろうか。
 本当にオリンピックで意味があると思うのは、これまでほとんど国内で脚光を浴びなかった種目にめぼしい選手が出てきて活躍をしたときだろう。これは世界選手権だったらこれほど大々的には取り上げられない可能性が高い。彼らのためには確かにオリンピックは意味がある。

民主党代表選挙

 小沢はもちろん立候補するというが、その他のメンバーが誰も対立候補として立候補しないというのはいかがなものだろうか。専制君主制を施行するとでもいうのか。どんな政策集団でも代表を選出するのに候補がひとりしか出てこないというのはとんでもない話ではないか。野田については「電子メール事件」の戦犯のひとりだという私的があるというが、だったらそのように投票すればよいのであって、立候補にすら反対するというのは甚だ民主的な論理とは言い難いではないか。この政党は一体何を考えているのだろうか。一体いつから創価学会への道を歩もうとしているのだろうか。小沢はいつから池田の路線を目指しているのか。