ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

羽田か、成田か

 羽田の拡張がどんどん進んできて、今工事中の滑走路が完成したら24時間運営ができるようになるんだそうで、そうなったら仁川に取られている東アジアのハブ空港という位置を羽田に取り返そうというのが前原の考えだったとしたら、それは如何なものかという気がする。その時のハブはどの範囲でのハブという立場を想定するのだろうか。羽田から国際線と国内線を飛ばすというのであったとしたら全く成田は必要なくなる。だとしたらなんのためにあんなところに空港を建てる必要があったというのか。成田を貨物便専用空港とするのだろうか。それならそれで良いのかも知れないけれど、そのためには運輸省国土交通省が羽田と成田の将来像というものを持っていなかったのだろうか。いくらなんでもそんなわけはないだろう。どうしてそれを変える必要があるのかを教えてくれないとみんなわからないだろうなぁ。
 そうであったとしても、昔はやった飼い犬のスピッツみたいに、ここぞとばかりにテレビの前でキャンキャン吠えたてる森田健作の演技はいらないけれど。うるさいね、あいつは。

あっという間の出来事だ

 実は今日は自分の62回目の誕生日だ。この1年、あるいは2年間であっと驚くほどに老けた。髪の毛はとんでもないほどに失われ、肩の筋肉はそげ落ち、ケツは垂れ、自分の姿をガラスに映してみると信じられないほどの老けようである。アンチ・エイジングなんて言葉とは全く縁もゆかりもない状況を呈していて、これまで冗談交じりに「俺はもう後3-7年の寿命なんだから」といっていた言葉がまんざら冗談でもなさそうな具合に見えてきそうだ。
 ずいぶん前に死んだ明治の最後の世代だったうちの親父が今の私と同じ歳ぐらいの時に、やたらと鉛筆をとがらせてはそれで頭を血が出るほど掻いていたのを思い出すのだけれど、私も最近、そんな具合に頭が痒くなる時がある。加齢によって何か同じようなことが起きるのかも知れない。
 こんなことなら、オヤジがまだ生きていた頃、もっとよく観察しておけば良かったのかも知れない。そうすれば少しはましな考えも持ったかも知れない。
 彼と同じ失敗を犯したかも知れないなぁというのはやっぱり癇癪持ちがその癇癪を緩やかに拡げることができなくて、その辺で簡単に癇癪を落としてしまうところだろうか。彼は実に短気な男で、激情しやすいところを持っていたものだけれど、それが三人の子どもに結構共通して伝わっているかも知れない。今から考えるとあの5人家族は盛大に皆激しやすかったようだ。だから感動の嵐も呼ぶけれど、喧嘩にも成る。その喧嘩は他人から見るととんでもない「非人間的」な有様を呈しているらしい。それがつい様々なところで噴出する。だから余計に老けてきたように見えているのかも知れない。
 62年前に私がその癇癪持ちのオヤジと元小学校教師だったお袋の間に生まれた時はなにしろ戦争が終わってまだ2年だからものがなかったらしい。娘二人の後に生まれた男だったから、「それは大騒ぎだったの」と良くおふくろが、だからしっかりしろというような場面で必ずいった。
 会社の同僚が何人も集まって寄せ集めのアルコール(つまりどんなアルコールかわからん)で宴会をして、どこそこの誰々が私を抱いて落としそうになったとか、それは多分あの6畳間だったんだろうなぁと想像をしながら聴いていたものだ。
 絵に描いたようにセピア色になってしまった翌年の節句の鯉のぼりの写真があるが、それとて、ただの丸太を立て、その先端に貧弱な感じの鯉のぼりが一本だけ風に身をよじっている写真が今でも残っている。もちろん風車が乗っているはずもなく、吹き流しが泳いでいるのでもなく、ただただ、一本の鯉がよじれているだけである。それでも多分オヤジとお袋がどこかから探してきたんだろう。しかし、これは写真でしか見たことがなくて、物心ついてからは鍾馗様の人形と小さな兜を飾るだけだった。あの鯉のぼりはどこに行ってしまったのでしょうか、と聴いておけば良かった。
 この鍾馗様ももうどこに行ったのか皆目思い当たらないのだけれど、ずいぶんと古色蒼然としたものだったからひょっとすると戦後のバタバタでどこかの旧家から出たものかも知れない。ちゃんとした髭があるなかなか完成度の高い人形だったなぁと今になってようやくそう思う。

そうだろうと思った

 宮里藍がSANKYOレディースでリードしていた韓国の全美貞が自ら崩れて逆転優勝した。テレビのニュースで見ていたら全美貞は寄せで手前ぎりぎりを狙って打ち、それが少しだけ距離が足りなくて、転がって池に落としてしまった。あ、こんな時、きっとギャラリーの中で拍手しちゃったりするやつがいるだろうなぁ、といっていたら、今朝のニュースで日刊スポーツが案の定それを報じていた(2009年10月13日8時47分)。
 宮里藍が自分のブログにこう書いていたのだそうだ。

私としてはとてもとても心が痛かったです。応援してくれている方にもフェアプレー精神を持ってほしい。私の心からの願いです

 お古いところで恐縮だけれど、1964年のオリンピックの柔道無差別級で猪熊に勝ったヘーシンクが畳の試合場に土足で上がろうとするオランダ人に「待て、待て、降りろ」と指示していた、あの姿をふと思い出した。土俵上でガッツポーズが出ちゃう横綱はあのシーンを見ても何も思わないだろう。
 何が何でも勝ったやつの勝ち、負けたやつはどんなことをいおうと誰にあたろうと負けは負け。全美貞が池に落とした時に拍手したやつの職業はひょっとすると某東京都の知事だという洒落じゃないだろうね。

MLB

 昨日のデンバーのColorado RockiesとPhilladelphia Philliesの試合は見るからに寒そうだった。なにしろ観客はまったくの話、極寒のNFLのゲームを見に来ている見たいにもっこもこのダウンジャケットなんて着ている。選手たちもベンチでは見事に着込んでいる。かわいそうなのは守備についている選手たちだろうなぁ。ケツのポケットにホッカイロでも入れているんだろうか。それともUNIQLOヒートテックでも着ているのだろうか。
 グランド上で選手の吐く息が真っ白で、これじゃ野球じゃないよ。そんな中接戦を繰り広げたものの、とうとうRockiesはPhilliesに5-6で負けてしまって1勝2敗と追い込まれてしまった。それにしてもこんな条件下で野球はないなぁ・・・。怪我するぞ・・。
 今日の試合はちょっとは寒さがゆるんできたようで、選手の口から吐かれる息が白くは見えない。それにしても観客の着ているものを見るとやっぱり真冬の格好だ。終盤まで両方とも投手好投でPhillies 2-1 Rockiesできていた。8回の裏にRockiesが3点を入れてこれでタイに持ち込んだなと確信したら9回の表に今度はPhilliesが3点を入れてまたまた逆転。その裏のRockiesは二死一二塁まで来たのに、Troy Tulowitzkiが三振して万事休す。とうとうRockiesは1勝3敗となってここで敗退。
 これでPhilliesはDodgersとNational Leagueのチャンピオンを賭けて15日(日本時間16日)からLos Angelesで戦うことになった。

NFL

 QBの34歳、Matthew Hasselbeckが戻ってきたSeattleは三連敗なんてどこのチームの話だよといわんばかりにJacksonville Jaguars相手になんと41-0のシャット・アウトである。
 元気がないのがSt.Louis Ramsである。ここまで5戦全敗で得点がわずかに34点なのに対して、失点は146点という悲惨な状況。Los Angelesにいた頃のあの華やかなりし頃からとても想像がつかない状況に陥っているらしい。こういう時はきっとフロントと現場がうまくいっていない。
 どうも近頃のNFLはみんなしてシューズから手袋からリストバンドからやたらと目立つショッキング・ピンクをつけていてなんだろうなぁと思っていたら、MLBのどこかのチームがキャップにピンクのリボンをつけていて、乳がん撲滅キャンペーンのピンクリボンに協賛しているんだということがわかった。どうやら10月はそういう月、ということにしているらしい。あの荒々しいNFLのぶつかり合いとピンク・リボン・キャンペーンが俄には繋がらなかったという次第。
 そういえば東京タワーをピンク色にライトアップしたとか何とかニュースでいっていた。ピンクかぁ・・・。

AFC50周年

 そうそう、NE PatriotsとDenver Broncosの試合で両方とも昔のユニフォームでの試合だった。NEのあのヘルメットがとても懐かしい。そうそう、これがNew Englandのトレードマークだった。サイドラインのスタッフが着ているパーカーにはBoston Patriotsと書いてあって、このチームが50年前にAmerican Football Leagueに参加した時はBostonのチームだったんだとわかる。もっとびっくりしたのはBroncosのユニフォームで上半身は黄色く、下は茶色である。こっちのユニフォームは私の記憶にない。Patriotsのヘルメットは若い人たちにとってはとても違和感があるらしくて、そうした方のブログには「ダサイ!」と斬って捨てられている。「そうじゃないんだよ、当時はこんなこみ入ったロゴをヘルメットに書くなんてすげぇ!といわれたんだよ・・」といってあげたくなる。
 毎週どこかの試合がLegacy Gamesのひとつとして、こういうユニフォームで試合をするんだそうだ。TitansなんかはHouston Oilersの出で立ちで戦うんだそうだ。
 私が生まれて初めてフットボールを見に行ったのは一体いつのことだろう。国立競技場で「Rice Bowl」の試合を見たのが多分高校生の時だったのではないだろうか。それは多分44-5年前のことでその頃は多分NFLはこんなユニフォームだったんだろうがまだ知らなかったのではないだろうか。当時映画館に行くと必ずその週のニュース映画が上映されたのだけれど、その中に時としてアメリカン・フットボールの試合が報じられた。それはNavyとArmyの試合だったりしたのだけれど、実際の話当時の観客のうち、それがどんな場面なのか、何が重要だったのかなんてわかっていた奴は殆どいなかっただろう。それなのになんであんな競技がニュース映画に取り上げられていたのだろうか。多分やってくるかも知れない米軍兵士のためのものだったのだろうか。