ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

今度は「面白半分」

 「話の特集」のバックナンバーが少し残してあるのと一緒に、似た様な後発雑誌だった「面白半分」やら「びっくりハウス」なんてものまで当時は買い続けていたものだから、そんな雑誌も何冊か残っている。棚から一冊ひょいと引き出して見たら、「面白半分」の1979年10月号。この雑誌は著名な作家が交代で(名目)編集長をやっていたはずで、この年は田村隆一が務めているが、残念ながら私は全く小説を読まないものだから田村隆一がどんな作品を世に問うているのか全く知らない。この歳になって田村隆一が何を書いたのかを知らないと、これはもう「無知蒙昧」の類にはいるのかもしれないれけれど、興味がないのだから、これはしょうがない。
 で、この号のもくじをちらっとみたら、「西田佐知子」という名前があって、オッとそのページをめくる。西田佐知子といえば関口宏のかみさんで、NHKの旅番組をかなり長いことやっていた関口某の母親である。しかも、私の理解では結婚以来人前には一切登場していないはずで、そこは三浦友和の女房になった山口百恵と双璧だと理解している。その西田佐知子がインタビューに答えてるというのは一体どんな時点なんだと不思議だったのだけれど、この記事を読んでみると、「アカシアの雨が止む時」という歌は1960年に発売になったのに全然売れなくて、翌年出した「コーヒー・ルンバ」が先に売れて、ポリドールという会社が一息付き、そこからじわじわ売れて来たのだといっている。
 彼女のその辺のヒットからこのインタビューはすでに20年近く経っているわけで、おや、それではもうすでに結婚しているのではないの?と思ったのだけれど、この時にも彼女はレコーディングは毎年やっていると答えている。しかも「🎵やぁ〜ぱりぃ〜おぉれはぁ〜ぁ、菊正宗ぇ〜」というコマーシャルソングも彼女の歌だという(永六輔作詞、中村八大作曲)。で、最後に「子どもが小学校に入りました」といっているんだからとっくに結婚しているわけだ。だから、西田佐知子の場合は結婚してすぐさま芸能界を引退したわけではなかったということがわかった、というわけだ。

また「話の特集」

 友だちの別荘に、私がかつて毎号購入に及んでいた「話の特集」の古いものをどっと置かしてもらってあって、遊びにくる度にそれを取り出してポツポツと読むのが結構楽しい。
 そのうちの一冊を取り出して見ていたら、ページの下が切れていないでまるで袋とじのようになっているところがあった。つまり、当時、今から30年ほど昔のことだけれど、私はその部分を読まなかったということである。で、それは一体どんな部分かと思ったら、太田竜が書いているところだった。そういえば太田竜は難しくて、すっ飛ばしていた記憶がある。当時の「話の特集」はだらだらとなんだか思いついたままに流して書いている人が、井上ひさしを始め(そんなことをいったらあの凝り性に申し訳がないけれど)、何人もいたようだけれど、太田竜のそれは、それはそれは難しいのである。
 これでは私が継続的に購入に及ぶことだけに精力を傾けていただけで、ろくすっぽ中身を読んでいない、つまり単なる収集家にすぎないかのように思えるのである。
 それで思い出したのは、親父の職場の仲間で鎌倉に住んでいたOさんのことだ。彼の家は鎌倉の材木座海岸からそれ程遠くないところで、広い庭には個人のうちとは思えないほどの大きな池が掘ってあって、そこには子供達のためにアヒルが数羽飼われていた。どう考えても普通のサラリーマンが住んでいる様な家ではなかった。古くからの大家というやつだったのだろうか。
 そういう境遇にいたからだろうか、彼は名にし負う蔵書家だった。蔵書家という言葉は知っていたけれど、本当にそういう人に出会ったのは彼が初めてだった。尤も、そうと知ったのは私が地方都市へ転勤になった時のことだ。その頃丁度同じ街にOさんも転勤になっていた。その街にはまともな本屋というのは一軒しかなくて、そこの片手の不自由な配達の男性が毎月彼のもとに新刊本を届けているのをみていた。しかも、それが生半可な量ではなかったのだ。
 私が結婚した時に、彼が送ってくれたお祝いはなんと「Webstar」の大判の分厚い辞書だった。当時は、なるほどあの人らしい選択だなぁといたく感心したものだ。
 今になってみると、彼の気持ちがわからないではない。もちろん私は彼の様にどんどん購入に及んでも生活に差し障りがない様な境遇ではないから、その域にまで達することはないけれど、本というやつは魔物で、一度チャンスを逃すと滅多に遭遇することができない。それを知ってしまうと「チャンスを逸する」という恐怖に打ち勝つ修行をしなくてはならないのだ。私の場合はその修行はあっという間に終わった。ただたんんなる金銭的事情によって。

大橋節夫

彼はもう生きちゃいないよね?FM軽井沢では大橋節夫の歌を放送するといっていた。一体、今時FM軽井沢の聴取者で大橋節夫を聞きたい人が一体どれほどいるというのかね?
話の特集」の1981年7月号に田原総一朗が日本原電敦賀発電所放射能汚染水が一般放水路から排出された事故について書いている。隠蔽されていた事件だ。この頃の話の特集はやっぱり戦後を何処かに引きずっている様に感じるのはどうしてなのかと考えるとやっぱり執筆者のほとんどが戦前生まれ、もしくは戦中生まれだからだろう。

原発は経済を支える

 本気になってそう主張している人たちがこの期に及んでまだ堂々といるんだということを知って多少驚いた。
 今ここで原発を廃止すると一気に何百万人という失業者が出るのだというのだ。だから、原発を動かさなきゃいけないと主張しているのである。この論理が如何に破綻しているのかは誰が聞いたって簡単にわかる。しかし、これを書いているのが三大全国紙の頂点に立つというほどの販売部数(これとて今やかなり怪しいけれど)を誇る読売新聞だという。ま、尤もこの新聞社の元社主が初代原子力委員会委員長だったというのは知っているけれど、だからといってこんな稚拙な論理を今の今、書いているだなんて、驚き桃の木なんである。
 パブリック・コメントを開いてみたら圧倒的に原発ゼロを主張する人たちだったという報道もあったらしい。ま、そういうところに自ら進んで意見を発信するという行為に手を染めるのは前進的な意見の持ち主が多いということは大前提としてあるから、一概にそれが国民の総意を繁栄していると見るのが正しいとはいえないかも知れないけれど、マスコミが発表する世論調査に比べたら遙かに恣意的でないというべきなのではないだろうか。
 いつまで経っても放射能汚染物質、あるいは使用済み核燃料の処分方法が開発できないまま、ここまで来てしまったことへの責任は計り知れなく大きいというしかない。それを思いっきり棚に上げておいて、いいたいことだけ書き散らかす読売新聞のスタンスは戦争が始まった頃にころっと寝返った朝日新聞よりも遙かに罪深さは広くて深い。
 そういえばあの新聞社が経営しているプロ野球団の、反社会的存在である人間に一億円を提供した監督の話はその後どうなったのだろう。勝ち続けていればそれはと問われないのだろうか。IOC委員選挙で選挙違反を犯して当選が無効になったハンマー投げ選手の罪深さにも目をつぶっているマスコミはこういうものには一斉に打ち合わせがあって黙ることになっているのだろうか。

墓参りツアー

 毎年8月の最終週末は「墓参りツアー」だと公言している。実際には墓参りは初日で終了するのだけれど、その最終目的地が山梨の鰍沢というところで、そこまで行くんだからと、毎年長野県の軽井沢に住んでいる友達のところに足を伸ばし、数日逗留してくる。
 本当はお盆にお墓に参って「はい、はい、皆さんのご恩は忘れちゃいませんぜ」と言い訳をしてくるべきなんだろうけれど、そこはそれ、その時期の移動は一番道路や鉄道が混むわけだから、10日間ほど遅らせるのである。大体、仏教徒じゃないからよくわからないのだけれど、施餓鬼で住職に描いて貰った卒塔婆もこのときにぶら下げていって墓に立ててくる。そうそう、うちの墓は寺の墓地にあるんじゃなくて、霊園にあるのでお寺に行って貰ってきただけじゃ終わらない。
 そういえば、今日のニュースで東京都が小平霊園に樹木霊園なるものを造り、そこに入りたい人を募集したんだという。そっちに移した方が良かったかもなぁ。
 連れ合いの実家はそもそも両親は山梨・鰍沢の出身で、戦争が終わってみたら跡取りになってしまっていて、墓はそのままにしてある。行ってみると、古い昔の、あたかもただ手頃な石を建てただけじゃないかと思えるような江戸期の墓石から、岳父の姉が死んだときに建てた真新しい墓石までずらずらっと並んでいる。この寺の墓地は富士川(正確にいうとこのあたりは笛吹川)を遙か下に見る急な崖に上に上にと増やしていったようで、寺の正面から入って裏山をえっちらおっちら上がって行かなくてはならないのが辛い。しかし、実を言うとそこを歩いて上がったのはほんの数回しかない。あとはあらぬ方向から裏山を上がる道があって、上まで車で上がり、くだってくる。そうなると今度は行きは良い良い、帰りは怖い。そんな道がどうしてあるのかというと、その裏山はどうやら櫻の名所のようで、その季節になると、多くの人たちが上がってきて櫻を愛でるらしい。
 その裏山にはかなり古い公営住宅のような平屋建ての、昔だったらそんなことはないけれど、今となっては小さな小さな木造の家が建っていた。10数戸は建っていたかも知れない。真夏の蝉がうるさくなく日中、ひっそりとしているのだけれど、実はガラスの引き戸が開いていて、中を窺うと、お年寄りがひとりで団扇をだるそうに動かしている様子が見えたりしていた。それが数年前に行くと、すっかり数を減らしていて、ほんの数戸を残すのみとなっていた。あんな山の上にぽつんと暮らしていたお年寄りは買い物をどうしていたのだろうか、そして皆さん、どこへ行かれてしまったのか。山の下の旧道沿いにできた老人ホームが彼らの終の棲家となったのだろうか。ひとりひとりの人生は一体全体、どんなものだったのだろうかと毎年思う。
 

2012年08月23日のツイート