ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

字を書く

 もはやパソコンあっての生活になってしまっていて、なにを書くにしてもほとんどすべてをパソコン上で書いていて、プリントすることもなく(プリンターはとっくに壊れていて動かない)、たまにハガキを書くくらいのことしかない。さすがにハガキはパソコンでは書かない。
 そうなると、筆記用具を使って字を書くということがほとんどなくなっていたことに気がつく。先日久しぶりにノートテイキングをしたら、驚くことに漢字が全く出てこない。それどころではなくて、簡単な時もひどい悪筆になってしまっている。あとから自分で読んでも勘で読み分けるくらいだ。
 昔、ずっと年賀状を送っていた親戚のおばさんから年賀状の返事が来たのだけれど、それが鉛筆書きであって、なんとも判別しにくい時になっていたことを思い出して、あぁ、歳をとるということはそういうことでもあるんだなと思ったことがある。
 どうやらそんなことになりつつあるのかも知れない。

追記

 「恫喝」を「洞くつ」と書いているし「統帥」を「統師」と書いたりしていますよね。

昔話

 まだ学生の頃、GSが終わらんとしている頃のことでございますねぇ。池袋には「ドラム」という名前の「ジャズ喫茶」、今でいうライブハウスっていうんでしょうか、それがありました。銀座でいうと「ACB」、新宿にはやっぱり「ACB」や「風林会館」なんてのがありましたよね。渋谷にはなんかあったのかなぁ?
 で、その「ドラム」で初めて見たのがThe Golden Cups」だったんですよ。あれ?本牧の「Golden Cup」にもいったことがあったけれど、アレはどっちが先だったんだろうなぁ。「ドラム」へいったときは確かサークルの連中と一緒で、川崎の寿司屋の娘の鈴木さんがその中にいたような気がします。通常カップスはブルースをガンガンやっていて、それが当時のその辺のバンドにない感覚でした。近いといったらフィリッピンからやってきていて、当時のディスコで演奏しているようなバンドだったでしょうか。彼らは米軍キャンプで鍛えられていましたから、実力派でした。The Soonersなんてのがいたなぁ。
 それでもレコードを売る為に、彼らはお仕着せのGS感丸出しの曲をやらなきゃならない。それが「髪の長い少女」だったりするわけです。「じゃ、オリジナルを聞いて下さい」とかいってやるわけですが、その瞬間にその鈴木さんが「なんでそんなのやるのよ!」とお怒りだったのを良く覚えています。あまりの落差でございますから致し方ございませんね。
 その残党が今でも時に再結成するわけですが、今年が50周年になるんだそうです。私たちが初めて見たとき、サイドギターだったケネス伊東が死んでからもう20年経つそうです。デイブ平尾も、あとで参加したことがあるアイ高野(カーナビーツ)や柳ジョージも既にいない。エディ潘の実家、横浜中華街の鴻昌ももはや存在しない。50年は確かになごうございます。

顔の面積

 昔出逢った人の中に、今自分が話している相手の顔の面積がどれほどになるのか、掌で計算していたという人がいました。「失敬な!」と怒る人がいたんじゃないかと思うけれど、もぞもぞやっているだけでわからなかったかも知れません。私はとても気になったので、その人を紹介してくれた人に、あの人はもぞもぞしていましたけれど、どうかしてんですかね?と尋ねて発覚。変わった人だった。
 そういえば電車の中で近所に座っている人の顔をスケッチする人の話をどこかで見ましたけれど、描かれていることを悟られないんですかねぇ。今時だと、気になる人がいて写真に撮りたくなりますよねぇ。

地震の予兆

 地震雲っていうのがどんな雲なのか、見たことがないからわからないけれど、本当に見たという人がいる。犬が散歩に行きたがらなかったということをいう人もいる。
 そんなことは全然感じたことがない。しかし、3.11の福島の地震の9ヶ月前の前年6月に私は福島で、どきっとした地震に遭遇したことを覚えている。小さな規模の某学会に出席したときの昼休みに、弁当を使ってしばらく食堂で休んでいたときに、突然がくがくがくがくと揺れが来て、思わず机の下に入ろうかとした。他の人たちは比較的平然としていたのだけれど、私は腰を抜かしそうだった。午後のプログラムが終わったらそのまま各駅停車の電車に乗って帰京しようと思っていたので、電車が動かなくなったら嫌だなぁと思っていたが、それほどのこともなくて、無事夜遅くに帰京した。
 3.11の時、それを思い出して、あ、アレが予兆だったんだと思った。

石炭

 製鉄所でコークスを作る為に必要とするいわゆる「原料炭」の値段というのがいったい今頃はいくら位するんだね?と現役の友人に聞いたら、20年前のなんと三倍だというのに、思いっきりびっくりして飛び跳ねたのだけれど、彼がいうには「いやいや、これでも下がってきたんですよ、一番高かったときは今の倍はしてましたから!」というに至っては、腰を抜かさんばかりだった。それだけ中国が飛ぶ鳥を落としていたということだ。
 現役を退いてからあまりにもなにも知らなかったんだと、驚いた。そんな中国が未だにあの一党独裁、人権を無視して弾圧を繰り返していて、同じく独裁で人民を苦しめ続ける北朝鮮を庇護していることが大変怖ろしい。

2017年07月15日のツイート