ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

雨は上がったけれど、温度は上がらない

 雨が上がったかと思うと、あっという間に良い天気になった。
しかし、温度は上がらない。
まだ寒気がとどまっているんだなという感じだけれど、それでも気持ち良い。
出かけた時は15℃程度だったと思う。
街はGWとは明らかに違っていて、落ち着いてきた。
バスにも外国人は乗っていなかった。

 池をグルっと回ってデパートの地下のパン屋で「カンパーニュのカットしていないものはありますか?」と尋ねたら見慣れない店員さんが「もうこれだけです」とスライスした半分のカンパーニュを指差す。まだ午後1時になっていないこの時間にそんなことはこれまでに聞いたことがない。彼女はなにか勘違いしているんじゃないのか。
 面倒だから「あぁ、ありがとう」といって帰る。

 ドンクに行ってバタールを買った。
一本しか残っていなかった。
何かがいつもと違う。

 ジャンボミニを買う。
どうせ当たらないとはわかっているんだけれど、買わなきゃ当たらない。
なんで、そんなものを買うのか。
損することがわかっているギャンブルじゃないのか。
ちょっと水原一平が入っているのか。

 そういえば今朝の大谷翔平はまるでダメだった。
それでもDodgersは勝った。
そういえば昔よく顔を出した飲み屋の親方は「ブルックリン・ドジャースしか知らねぇなぁ」といっていた。

 大通りの植え込みのバラが大きく咲いている。
和食屋の女将さんが丹精を込めているらしい。

 図書館の書庫から伊東四朗が書いた本を借り出した。
1983年の本で、カバーが付いていない。
 伊東四朗がこの世界に入った顛末から、すっと読めちゃう。本名は伊藤輝男。最初の芸名は伊藤証(「一等賞」のもじり)。初舞台は公衆便所からでてくる男。その話は伊東四朗があちこちで喋っている。
客席で見ているときと舞台に上がった時はえらい違いだった、声だって出ない、と書いている。
そういえばライブハウスのちょっとした段に初めて登った時はのどが渇いて、ブルブルしたことがある。




 画伯から「重要税務書類」と書かれたパックが送られてきた。中を開けたら日枝神社のお祭りの下町連合の冊子である。新しく描いたものなんだろうか。確か前回の時は高島屋SCの一階のギャラリーで入手したような気がする。いつのことだったか覚えていないけれど。私が生まれて初めてちゃんと神輿を担がせてもらったのが京橋二丁目西町会だった。

読売



 築地の市場の跡地開発を東京都が公募していたことは知らなかった。

「東京都が募集していた「築地地区まちづくり事業」の事業予定者として、三井不動産を代表企業とし、11社が構成企業として参画するグループの提案が選定された。事業予定者のグループ名は「ONE PARK×ONE TOWN」で、構成員は三井不動産トヨタ不動産、読売新聞グループ本社鹿島建設清水建設大成建設竹中工務店日建設計パシフィックコンサルタンツ朝日新聞社トヨタ自動車。面積約19万m2、総延床面積約117万m2の、スタジアム、商業、ホテル、オフィス、住宅等を用途とした9つの施設および棟の開発プロジェクトが、2030年代竣工の計画で進められる。」


「土壌の汚染状況を2023年度に141地点で調査し、うち86地点で基準値を超える六価クロム化合物など特定有害物質を検出したと発表した。地下水の利用など人体に取り込まれる経路がなく、健康被害の恐れや直ちに除去の必要はないとしている。 都によると、六価クロム化合物は最大で基準値の5・4倍、鉛とその化合物は14倍、ヒ素とその化合物は11倍だった。都は86地点を、土壌掘削などをする場合に知事への届け出を義務付ける「形質変更時要届出区域」に指定した。(東京新聞2024年5月8日 07時17分)」

 築地の市場機能が移転した豊洲なんぞはもっともっと汚染された場所だったけれど、石原慎太郎が「現代の科学を持ってすれば無毒化されないわけがない」と啖呵を切って決行された。あいつは死んじまったから責任のとりようがない。

 さて、読売新聞が絡んでいることで、東京ジャイアンツが本拠地を36年経っている東京ドームから築地に本拠地を動かす、ということなのかという推測ができるけれど、東京ジャイアンツの球団オーナーでもある読売新聞社の山口寿一社長(67)は「「プロスポーツを持つ読売としては、魅力あるスタジアムを使ってみたい気持ちはあります。ただし、移転を前提として計画してきたものではないし、その予定で進んでいるわけではない。プロ野球球団の移転はなかなか大仕事で、相当の調整が必要となる。読売だけで決められるものではない」と発言したと、読売のスポーツ新聞、報知が報じている。大胆な推測をすると、東京ジャイアンツはここへ本拠地を移して、東京ドーム跡地を森ビルに負けない開発を目指すだろう。なにしろ東京ドーム株式会社は三井不動産の完全子会社で、株式の二割を三井不動産読売新聞グループ本社に譲渡した、そんな関係だ。

 三井不動産といえば、神宮外苑再開発計画の主要関係社のひとつであるばかりではなくて、日比谷公園の大規模再開発のきっかけとなる日比谷からのアクセスデッキ建設にも主役として絡んでいる。つまり、築地も、神宮外苑も、日比谷公園もみんな三井不動産と、学歴詐称で、選挙時の公約を何一つ実現せず、のうのうと「知事でござい」と居座っている小池百合子とのコンビネーションで成り立っている。その点では、ドロドロなんだろうなと感じさせる。(そういえば葛西臨海公園の改築計画にも日本テレビの小会社が加わっている)。

 ところで、築地の開発計画には、どうして朝日新聞社が一枚加わっているんだろう。トヨタの存在もなんだか不思議である。なんのために加わっているのか、これだけではわからない。読売新聞は東京ジャイアンツの関係もあるし、なにしろ社主だといっていた正力松太郎の時代から、原子力発電も、民間テレビ放送も、あれもこれも米国の国家権力の手先であるCIAのエージェントとして役割を果たしてきたわけだからその裏側のドロドロっぷりにはなんの疑問も持たないけれど、なんで朝日新聞社が、いくら社屋が築地の現場に面しているとはいえ、利権を手中にしようとしているのか、どんな役割を果たそうとしているのか、かつての立場を投げ捨ててまで加わる意味はどこにあるのかという疑問が残る。ただし、安倍晋三政権以降の朝日新聞社のていたらくを見てきたら、可能性は無きにしもあらずだけれど、いくらなんでもそこまで堕落するものかという気持ちが多少残っていたが、改めてここまで落ちぶれたことに驚かずにはいられない。両手を上げて降参したようだ。

 ここまできて、ふと、戦後のプロ野球の復活にあたってCIAのエージェントとなった連中が、GHQの計画推進のために一役も二役も買ったのではないか、それゆえの読売巨人軍なのではないのかという疑問が浮かんできた。

赴任

就職した年の4月は2つの工場での実習という名目の様子見だった。
5月連休直前にそれぞれの赴任配置先が発表になって、最後にみんなで横浜駅傍の居酒屋で宴会をした。
ん?あれは一体誰が設定をしたんだろう。
新工場配置になったものは嬉しそうで、希望が叶わなかったやつに奢っていた。
私は九州からやってきた男と二人、地方の工場に配属になった。
東大卒の連中は例の騒ぎの関係で7月になって配属されてきた。

連休最終日に、なぜか東京駅から東海道線に乗って初赴任地へ赴く。
なんだか寂しい出発だった。
 いわれたとおりに駅からバスに乗って独身寮に着くと、先に送ってあった布団袋が入口に放り出されてあった。部屋を聞いて運び込んだ。同室の同僚は群馬から来た高専卒業生で、彼はやる気満々だった。
 なんだかうら寂しかったことだけは覚えている。

風邪なのか

 昨日の夜に、ふと気がつくと、喉の左奥が痛い。扁桃腺にしても片方だけで、右側はなんともない。そう思っているうちにどんどん左側の奥歯の歯茎が痛くなってきて、ご飯を食べたあとに、歯を磨くのが辛い。なんだろうなと思っているうちに顔の左半分がチリチリしてきて、頭も左半分がおかしい。ひょっとして軽い脳梗塞にでもなっているのかと不安がよぎるが、それにしては右手にはなんの影響もない。

 貼る喉薬を上顎に貼って、風邪薬を飲んで寝た。朝浅いうちにお腹が減って目が覚めた。こんな状態なのに、食欲は全然なくならない。これが不思議だ。パンを焼いて食べる。また風邪薬を飲んで寝る。昼前に目が覚めて、饂飩を茹でて食べる。また薬を飲んで寝る。夕方に目が覚めてみると、多少頭の芯に違和感は残るが、喉の痛みは和らぐ。

 せっかく友人が宝にしているビンテージカーで銀座を走るというので写真を撮るつもりだったの、オジャンになった。

日記

 原彬久(はらよしひさ)編、中公文庫版で、なにかの参考になるかも知れないと持っている。底本は2003年刊行。妖怪のあの声がそのまま出てくる気がする。あの嫌な声だ。中で「弟は日記をつけているらしいが、まだ刊行するべきじゃない、あまりにも生々しすぎる」といっているのを見た。ホォ、あいつの日記があるのか、きっとそれを読んだら、あいつの声で読めるかもしれないと思った。
 編者の原彬久は、予備校の机に「このさいしょうがない」とふりがなを振って掘られていた国際商科大(現:東京国際大)の教授だった人で、政治家といわれる人のインタビューで知られたらしい。名前は見たことがあるけれど、著作に触れたことはあまりなかった。


 隣の区の図書館で調べると、朝日新聞社刊行で全6巻で1998年に刊行されている。一巻を借りてきてみたが、結構プライベートにも触れていて、ニューヨークへいった時に、息子の佐藤信二のためにゴルフクラブを買って船便で送ったなんぞと書いてある。佐藤信二は某鉄鋼メーカーに20年ほど勤めていたが、結局1974年に全国区から参議院議員に当選。工場のある県での得票数が少ないといって話題になったことがある。親父にそっくりで、鼻持ちならないことおびただしい。