フィンランドの教育とPISA型学力

Webを斜め読みしていたらすごく説得力のある書き込みがslashdotにありました。長いですけど引用します。
日本の科学応用力は以前より低下? | スラド Linux

PISA 型の学力は、「応用力」ばかりが求められるのであって、基礎力は基本的にみていません。しかし日本は基礎的な学力を重視した教育を今も昔もしています。ゆ とり教育の流れはある意味でPISA型に近い学力を求めていましたが、結果「学力低下」という批判を国内から浴びて下火になりつつあります。

しかし、従来日本でいわれてきた「学力」(従来型学力)とPISA型学力はまったく性質が違いますから、同じ文脈で論じることはできません。

戦後すぐのころの社会科(昭和30年代以前)ではこうした「考察」能力を鍛える、あるいは意見を言うという教育が推進されました。自分なりに社会の問題を拾ってきて、調べて、意見をつくる、みたいな。『やまびこ学校』あたりがその代表です。しかしそういた教育にたいして「厳密に科学的な知識がみについてい ないただの自己満足」という批判がおきて、いわゆる「詰め込み学習」と揶揄される30年代〜80年代初頭までの教育方式がうまれました。そのあと、詰め込みゆえのキリのなさ(=「ゆとり」のなさ)からくる「落ちこぼれ」や非行が問題となり、ゆとり教育がはじまります。さらに「自ら学ぶ」児童生徒中心の学習として総合的な学習が導入されます。総合的な学習は一部ですぐれた実践をうみ、一部で適当に消費されましたが、結局「学力低下」といわれて後退していこうとしています。

と、いうこれまでの日本の流れをおさえておきますと、いわゆる「ゆとり教育」批判の文脈で語られる従来型学力と PISA型学力は真逆の性質であることがわかると思います。むしろ、本気でPISA型学力をきたいするなら、ゆとり教育なかんずく総合的な学習を進めまくるべきなのです。ただし厳密な科学知識は多少おろそかになるのは当然です。それは二の次なのです。それは、従来型学力を追求する学習において、まず基礎的 な知識を固めてから応用的な課題にうつっていくのとおなじことです。

たとえば具体例を出しましょう。あるグラフを提示されて、このグラフをみてどう考えるか、というような質問に解答できるのがPISA型学力になります。理想としては、まずグラフを正確に読み取って、自分なりに考察して記述 するのがよいのですが、日本の公教育ではグラフの正確な読み取りをみっちり仕込みます。しかし、PISAではそんなの関係ねえのでして、そんなことは点数に反映されません。ただただ最後の結果として考察のみが求められます。

当然ながら、真の学力というならば従来型学力もPISA型学力も両方備わっていなければいけません。でないとただの「知ってるだけ」か「知ったかぶり」になるだけです。ただそれらを育成する方法として、どちらからアプローチしていくか、というだけの違いなのです。どうも最近の議論では、PISA型学力と従来型学力を混同している人が多いように思います。ついさっきまで ゆとり教育(=PISA型学力)を批判していた人が、返す刀でPISAを例に出して「学力(当然PISA型をいっていることになる)低下」を批判する。 いっていることが矛盾しているわけです。これでは解決策が生み出せません。

PISA型学力とは「ゆとり教育」の超徹底したものであること。それを把握した上で、なおPISAの得点を求めるというなら結構です。ただし、私はそのようなアプローチがかならずしも適切であるとは思いません。そ れこそ、最近よく揶揄される「ゆとり」(悪い意味の)が蔓延するだけだと思っています。むろん、先にも書いたとおりPISA型学力や「ゆとり」が必要ないとは思いません。ただ今のようにPISAを絶対視するべきではないと思います。

いやはやもう何とも申しようがございません。
フィンランドの教育の内容は、まさにPISA型の学力を重視するようなので、読み書きそろばん、知識のつめこみ重視の日本の学力と同列に扱ってはいけないんですね・・・。それにしても戦後すぐに一度考察能力を伸ばそうという動きがあって、批判されていたことは知りませんでした。知識偏重が批判され、「ゆとり」が導入されたけど、また批判され揺り戻しがきている。結局歴史は繰り返すというやつでしょうか。

結局両方大事で、孔子の時代からある、学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し、ということなんでしょうね。