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孔子

社会

孔子

こうし

Kung-Tzu/Confucius〔英〕

姓は孔、名は丘、字は仲尼、魯の国の人(紀元前551-479)。

儒家の祖とされ、『春秋』の著者に擬せらる。但し、初めて『春秋孔子著作説を唱えたのは『孟子』であり、『孟子』の成立は孔子の死より200年近く下る。

彼の言行は、最も古いものが『論語』に、それに次ぐと思われるものが『禮記』壇弓篇などに見える。『孔子家語』は恐らくは偽作。『史記』仲尼弟子列傳はまとまったものとしては最古の孔子伝であるが、先行著作の継ぎ接ぎの要素が強い。

 元 呪術師の息子(恐らく私生児)で、家の家業を習って(葬礼と雨乞いをやってたのでそういう関係)結婚して子を作り、三十歳までは下働きで苦労した。そのころの仕事は「有能だった」でいいらしい。その後士官を目指して頑張り、「クーデタ興したおっさんが宰相をお願いする」程度にマジョリティも獲得する。孔夫子は乗り気であったがいろいろあって、魯へまともな士官をする。「絶対的存在としての天を拝んでいる」「官と民には信が必要とかいう」と、結構いっちゃってる関係で、王侯から胡散臭がられ、いろいろを言い訳に追い出され、いつ死んだり殺されても不思議でない程度に弟子と中国の各都市国家を彷徨する。後また魯へ帰って子供 最愛の弟子の死を見て死ぬ。「憤を発しては食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざる」という性格で、周朝の復活を望み、かなりの弟子を取った。うち有名な人は孔門十哲と呼ばれる。

孔夫子自身は「中庸よりベターなのは狂狷」と言っているが、病気になった孔夫子が、病気治療の祈祷をせんとする弟子子路へ「丘は祷ること久し」と言ってやめさせた所などを挙げて、白川静は「孔子自身が狂者」という説を主張している。

古代中国では老子孔子顔子を三聖と呼んだ(後に顔子釈迦と交代する)。←「古代」をいつまでと定義しているのか不明だが、『漢書』などで言う三聖は周の文王・武王・周公旦か堯・舜・禹だと思います(多分ですが)。典拠はどこなんでしょうか??孔夫子が死んだあと何百年か儒者は儒侠としてその辺を彷徨うことになり、焚書坑儒とかもくらった後、後漢でやっとこ辛うじてなんとなく認められ、紀元2、3世紀頃から国家イデオロギーになったというのが定説ですがー。

近代になっては孔子釈迦キリストの三名が世界三聖と呼ばれ、世界四聖と言えば孔子釈迦キリストソクラテスの四名を指す。←これも多分適当な定義です。海外で通用するのか不明。学問的にはこんな定義はない(筈)。一応明代清代の頃、中国へ伝道に来たクリスチャンが、明、清の皇帝から宣教を断られ、その代わりに「うちには孔子教あるんで」とか言われるのでそれを勉強して持って帰って一応広まり(後藤末雄中国思想のフランス西漸」)、その辺から「st confucius(コンフキウス 孔夫子のラテン語風読み)」として一応尊ばれはした。

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孔徳成氏死去(孔子の77代目子孫)(10月28日21時5分配信 時事通信)


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