学校職員のうち、直接教育に従事する職員の総称。教育活動を職業にしている教師のこと。
大学・高等専門学校以外の学校では教員免許を要し,また国・公立学校の場合は教育公務員として扱われる。明治初期には教員と教師は厳密に区別され,日本の学校に雇用されている日本人の教師を〈教員〉,外国人教師を〈教師〉と呼んだ。
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №840" (テキスト版)「子どもの心を診る」 朝のNHKニュースで、不登校児童・生徒の相談窓口の一つとして大きな拠り所となっている児童精神科の予約が2,3ヶ月待ちで、受診を待機している間にもその症状が悪化した事例が報告されていた。確かに、今は学校外での受け入れ施設やフリースクールの必要性も叫ばれていたり、今回の報道のような病院等の受け入れ態勢が充実することも大切なことだとは思うが、私がいつも言うように根本的な解決無くして、こうした問題を減らしていくことは不可能だ。そして、その根本的な原因の大半は学校側にあるというのが私見だ。私が現場で40…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №839" (テキスト版) 「弱者への事件」 ”障害者を狙うぼったくり、「理解ある女性と出会いたい」につけ込む アプリを悪用……障害に応じ手口も変化か”。先日のネット上の東京新聞の見出し。このニュースは昨日もテレビ等で報道されていた。こうした弱者につけ込んだ類いのニュースは、もういい加減にして欲しいという気持ちだが、どうしても取り上げずにはいられないという気持ちが勝る。いつもながらに、こうした事件に関わった人達の「子ども」時代というのはどういう教育を受けてきたのだろうか。それが良かったか悪かったかと言うよりも、大人になってこうした弱者に対す…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №838" (テキスト版) 「エビデンス」 先日、慶応大学総合政策学部教授の中室牧子さんの著書「科学的根拠で子育て」を読み終えて様々な学びを得たが、その中の小タイトルの1つに「エビデンスは絶対に覆らない決定版ではない」というのがあった。私はその内容を読み終えて「ナルホド」と思った。というのは、ここ最近この「エビデンス」という言葉がそこらかしこに出回っていて、その言葉を見る度にその絶対感に引き込まれていく自分に多少の違和感を覚えていたからだ。しかし、私のような無知な者にとっては「これがそのエビデンスです」と言われると、ついついそれがすべての結…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №837" (テキスト版) 「日本文化の再構築」 日本の文化の1つとして「譲り合いの精神」というのがあり、欧米などの「奪い合いの精神」とよく比較される。その精神は、日本が「控えめ」とか「奥ゆかしさ」というものを美徳とし、欧米にはない文化だとされている。その文化のルーツには諸説あるようだが、その1つに日本は島国で周りからの侵略や略奪的な風土がなかったのに比べて、欧米やヨーロッパでは陸続きで、何度も大きな戦争を繰り返しながら領土を奪い合ってきた経緯が影響しているのではないかと言われている。今、私の周りの身近な「子ども」を見ていると、この日本の文…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №836" (テキスト版) 「猛暑と対話」 今年は5月中旬あたりから、「熱中症」や「真夏日」といった言葉が聞かれるようになってきた。確か、春先に「今年は昨年ほどの気温上昇はないだろう」と、どこかの気象予報士が解説していたように思っていたのだが、ここへ来て「やっぱりか」と諦めモードだ。私は昨夏にもつぶやいたと思うが、人は生活する中である程度その状況に順化していくので、暑さに対しても過敏になりすぎて、特に「子ども」を絶えず安全地帯に置こうとすると、ますます「暑さに対応できない人」を育ててしまうことにもなりかねないと危惧はしている。しかし、「子ど…
昨日と今日は、妻の実家の田植えの手伝いに行った。 私は去年まで小学校教員をしていて、土、日も仕事を持ち帰り忙しかったので、ほとんど手伝ったことはなかった。 初体験の田植え。苗を運んだり、手で植える用の苗の準備をしたり、今日は機械で植えられなかった部分に手で植えていった。 息子といとこ2人は(小4と小2)、田植え作業の近くにいるが遊んでいて、時々言われたことを少し手伝った。 私は腰が疲れたり、しゃがんで立った時立ち眩みをしたりして苦労したが、心地よい疲れだ。 時間が少し余ったので、畑にトマトやきゅうりを植えるのも手伝った。息子はまずまず手伝ってくれたが後半は少し疲れた。 妻の実家で少し過ごしてか…
#ヒガパパ_ の「子どもの教育」に関する「ポエム」 (休日限定) №.222 (テキスト版) 「きっかけ」 「子ども」を目の前にして出来ないと言うよりどうしたら出来るかを考える どうしたら出来るかを考えても答えが出ない時は もう一度目の前の「子ども」を診る それでも答えが出ない時は自分(大人)の心を見直す 解決するきっかけはどこかに必ずある ヒガパパ
こんにちは、まろさきです。 今回は私が「定時退勤」を決めた理由についてまとめてみました。 今まで教員として当たり前のように残業していた日々でしたが、あるきっかけから「定時退勤」を意識するようになりました。 応援よろしくお願いします。 ランキング参加中【公式】2025年開設ブログ ランキング参加中【公式】はてなブログ初心者のグループ ランキング参加中育児・子育て 🕒 「気づいたら、家族との時間が1日3時間もなかった」 ある日、1日のタイムスケジュールをノートに書き出してみました。朝は5時半に起きて弁当と朝ごはんを作り、出勤して仕事。 残業して帰宅は21時前後。 子ども達は既にお風呂に入り、ごはん…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №835" (テキスト版) 「心の教育」 日本の「子ども」の教育の世界では、まだまだ「心の教育」というものを重視しようとしている。金八先生時代なら大人から「子ども」に対して、心に染み入る話をして「子ども」の心を教育しようとする手段は有りだったかも知れない。しかし今、その時代は終わった。何故かと言えば今の「子ども」達の将来の社会が大きく変わっていくからだ。そんな変化した社会を生きていく今の「子ども」達に”大人が「子ども」を育てる”という感覚で関わっていてはその社会で自らが幸せに生きていく力は身につかない。私は10年以上前からそう感じてはいたが…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №834" (テキスト版) 「百見は一体験にしかず」 「百見は一体験にしかず」。”百聞は一見にしかず”という諺は良く耳にするが、この百見は一体験にしかずという言葉は造語になる。これは、あるYouTubeチャンネルを観ていて出てきた言葉だが、確かに説得力がある。特に「子ども」の場合、知識で教えるよりも見て覚える。見て覚えるよりも体験して身につけることの方がよっぽど本人にとっては価値あることだ。「ああなりたい」「こうしたい」と思っている間は自尊心にはつながらず、「それができた」「これができた」と思うからこそ、自尊心に繋がり自己肯定感へと繋がって…