学校職員のうち、直接教育に従事する職員の総称。教育活動を職業にしている教師のこと。
大学・高等専門学校以外の学校では教員免許を要し,また国・公立学校の場合は教育公務員として扱われる。明治初期には教員と教師は厳密に区別され,日本の学校に雇用されている日本人の教師を〈教員〉,外国人教師を〈教師〉と呼んだ。
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №812" (テキスト版) 「障害のモデル」 先日、障害のある児童・生徒の関わりを学ぶ機会があり、その中で講師の方が発言された言葉で「障害のモデルを医学モデルと社会モデルに分けた時、日本は医学モデルで捉えていることに問題を感じる」と仰っていた。私は「これは確かだなぁ」とその場で納得した。確かに世間は「障害者」というものを社会の中で考えるよりも、医学的に考えることの方が「確か」だ、と考えがちだ。しかし、私の感覚で言うと、本当に医学的に対応しなければならない児童・生徒というのはごく僅かだ。大半は社会の中で友達・仲間と一緒に生活していくことで、そ…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №811" (テキスト版) 「桜吹雪」 校舎の周りでは、桜吹雪が舞い散り、時にその鮮やかな情景にふと違う世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。この、日本の四季の移り変わりによる情景の変化は「子ども」の情操教育にはとても大切なことだと思っているのだが、最近の「子ども」を見ていると、目の前で桜吹雪が舞っていても、今一つ反応が鈍いように感じるのは私だけだろうか。「子ども」は日頃の生活の中で多かれ少なかれ、感動したり、怒ったり泣いたり笑ったりと感情の起伏があり、それが感受性が育つ一因となる。ところが、その感情の起伏がゲームやYouTube、SNSと…
仕事から帰ってきて、夕ご飯を食べてから、娘と買い物に出かけました。 家に帰ってきて、平和な1日だったと思った矢先、リビングで娘がうずくまり無言になって背を向けました。 「ママ、ごめんね。少しだけフラッシュバックしちゃった」 娘は静かに泣き始めました。 そして、どうして学校で教員Fと二人きりになってしまったのか、その経緯を話し始めました(これも何回も話していることです)。 私は娘の背中をさすって話をききました。 辛いことがあったのに、背中をさすってあげられなかった姉妹の分もこめて・・・ 娘と泣きながら、どうやったら元気になれるかな?と話しあって・・ 「大好きなユーチューブ見ようか?」と目に涙を溜…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №810" (テキスト版) 「期待と虐待」 大人の期待は、直ぐに「子ども」への虐待に変わる。大人が期待すれば、「子ども」はそれに答えようとする。それに答えられている内はいいが、大人が期待し続ける限り、やがて「子ども」にも限界が訪れる。ここで、一旦小休止できれば良いが、大人は更により高い期待を振りまく。確かに時として「子ども」がそれで殻を破り、もう一段階上のレベルに向上することはあるかも知れない。しかし、そこで大事なことは、その時の大人の期待が本当に目の前の「子ども」のためかどうかだ。もしそれが「子ども」の成長よりも大人のエゴで期待し続けたと…
goo blogが終了するとのことだったので、どうしようかと迷っていたのですが、2005年7月以降の600件以上の記事がたまっていて、こんな古い記事を見る人がいるのかどうかわからないけれども、とにかくなくなってしまうのが自分としては惜しいので、引っ越すことにしました。筆者もだいぶ年を取ってきたので、またリスタートするにはエネルギーがいるわけです。noteに移行してそっちは有料などと言いながら、ほとんど、書いていないわけです。 引っ越し先はいちばん使い勝手がよさそうなHatenaさんに決めました。blogタイトルもそのままにして、アーカイブといった感じで公開しておきます。このブログは最初は気楽に…
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №809" (テキスト版) 「EXPO2025」 昨日、2025年大阪・関西万博(EXPO2025)の幕が上がった。今回の万博開催にあたっては、当初から様々な問題が取り上げられ、その度に色々な話題が巻き起こった。そんな曰く付きのものではありながら、何とかここまでこぎつけられたことは関係者各位の努力と苦労の賜物であったと推測する。特にここ最近の盛り上がりは、いつもの日本人の”長いものには巻かれよ”的な雰囲気を感じているが、「子ども」にとっては異文化の交流や世界でここでしか見られないもの、体験出来ないことがきっとあるわけだから、是非見に行って体…
今日、事件のことをフラッシュバックして娘が泣き出しました。 フラッシュバックする前、娘はネットで教員の異動を確認していました。 すでに何回も確認していることですが、娘へ性加害を行った教員Fが特別支援学校を退職していないことを改めて確認していました。 「許せない。なんであいつはまだ学校にいるの・・・」 と言って娘は泣きました。 警察も教育委員会も事実が確認できないという理由で、教員Fは何のお咎めもなく現在も教員を続けています。 娘は知的障害があり、Fのしたことが犯罪だと知ったは、卒業して何年も経ってからのことでした。 娘は他の生徒が被害にあっている現場も目撃しています。 しかし、その生徒は重度知…
#ヒガパパ_ の「子どもの教育」に関する「ポエム」 (休日限定) №.213 (テキスト版) 「有能な学び手」 「子ども」は有能な学び手 大人に比べて好奇心旺盛怖いもの知らず爆発的なエネルギーの持ち主 大人はそれを制限する責任も権利もない 何より決して有能を平凡にしてはならない ヒガパパ
おこんにちは。 現在、教員を休んでおります。 「教員辞める」とか言っておきながら辞めないという、辞める辞める詐欺をしながら、7か月経ちました。 でも、現在は「辞める」の具体性が一番高くなっています。 教員を辞めたら、オンライン家庭教師として生活費を稼ぎながら、別の収入としてオンライン教材の販売というビジネスを育てていく。 このやり方で生きて生きたいと思っていて、昨日奥さんも「応援するよ」と言ってくれました。 でも、教員辞めるのが怖いのは怖い。 ただ、どんな恐怖や不安も結局は「分からないから怖い・不安」だと思うんで、今回は「なぜ僕は教員を辞めるのか」をよりはっきり見えるようにするために、書く。 …
"ヒガパパ の”子どもの教育”に関する ”つぶやき” №808" (テキスト版) 「主体的に育てる」 「子ども」を主体的に育てると言うことは、「子ども」を育てることに関わった時の最後に、「わかったか」ではなく「あななたはすごいですねぇ」という言葉で終われることではないかと思う。どうしても大人は「子ども」をソダテヨウとする。「それの何が悪い」と言われる人もあるかと思うが、「子ども」を本当に、真剣に将来自分で幸せに生きて欲しいと思うなら、「子ども」達が将来生きていく社会を予想して関わらなければならない。となれば、大人主体ではなく「子ども」主体で関わる事が必須だ。つまり、「子ども」を目の前にした瞬間…