音楽徒然

 もしこの世に音楽がなかったなら、ヒトはどんなになっていただろうと考えることがあります。“世の中に絶えて音楽無かりせば ヒトの心は乾きからまし”とでも言うような気分でしょうか。いろいろなシーンで音楽がもたらす効果は計りしれません。
 1960年代に生まれたザ・ビートルズはおそらく20世紀最大の音楽的事件で、四大Bと言われように音楽のジャンルを超えた大事件でした。4人が活躍した時代から約50年が経過しようとしていますが、いまだに彼らの音楽は日常の中に溢れています。私は幸福なことにリアルタイムでザ・ビートルズと出会いました。来日した時は、もちろんチケットを買うことなど出来ませんでしたが、TVに釘づけになりました。当時はビデオなどなかったので見逃せばそれで終わりでした。彼らが解散後にポール・マッカトニーがウィングスを率いて来日した時、やっとのことで手に入れたチケットがポールの大麻所持でパーになりがっかりしたことが思い出されます。1962年にデビュウして70年に解散するまでに膨大な数のヒット曲を生み出し、あらゆる音楽的実験的試みをやってしまい、後でやるものは何もないと言った状況を創り出しました。
 ジョン・レノンが殺された12月8日は今でも世界中で追悼集会が開かれます。この日は太平洋戦争が始まった日でもあるのですが、そちらは忘れられがちです。ジョージ・ハリスンも居なくなりポールとリンゴもこの頃では以前ほど活動はしていないようですが、やはりビートルズは4人で活動した時が一番だったようです。
                                    つづく

歌は あまり興味ないわね。

退化論

 進化論があればその反対もあるだろう、と言うので今日は退化論です。しかし退化論と名がつく著名な本を私は知りません。仮にあったとしても進化論ほど有名ではないのでしょう。なんせ後ろ向きな訳ですからあまり売れないでしょうし、注目もされないと思います。しかし私は具体的事実で退化論を経験していると感じています。まあ退化と言うよりは幼児化、もしくは幼稚化と言ったほうが適切かもしれません。特に感じるのは芸能関係でしょうか、あの束になって踊りながら歌うというスタイルです。質より量、下手な鉄砲打ちも数撃ちゃ当たる式の集団お下手軍団です。
 もともと歌や踊りはそれぞれが独立した芸で、歌うときは踊らない、踊る時は歌わないものなのです。両方を一緒にやるのは稚拙な芸を隠すための素人もしくは半端芸人がやる手で、幼稚園や保育園で子供がやる程度のレベルなのです。オペラもバレーも歌と踊りは独立しています。日本でも謡と舞は基本的には別に演じられます。ミュージカルは一緒くたですが、あれはアメリカと言う幼児性の強い国だからこそ発展したもので、最初見たときはかなりの違和感を覚えたものです。だって道を歩いている人が突然歌ったり踊ったりするのですから、どう贔屓目に見ても目を合わせないようにしてしまう類のものと言えるでしょう。あの形式をTVやステージの中に取り入れショウ化したものが、今の“質より量”軍団の原型となっていると思うのですが、みなさん歌も踊りも大変お下手で、一人ひとりが下手であれば数を並べても下手には変わりなく、おまけにやたらと子供っぽくアレンジされていますから、余計に幼稚園の延長のような錯覚に陥ります。この傾向は日本だけでなく韓国辺りにまで飛び火しています。本場のアメリカにも集団歌踊りがありますが、ただあちらのレベルは段違いに高く、日本のそれとは比較にならないようです。
そして何よりもそう言った音楽環境が成立することにその社会の退化性を感じるのです。

退化した野生もしくは進化した知性