『D・H・ロレンス幻視譚集』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:管弦楽組曲第一番 BWV1066 (シギスヴァルト・クイケンラ・プティット・バンド)。美しい。

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78 (ロランソー、ファルジョ、参照)。こってり系かあっさり系かと云えば、あっさり系だろう。この曲を偏愛する身としては、甚だ微温的、優等生的ということになるのだが、客観的に聴けば、バランスの取れたよい演奏ということになるのだろう。奏者はこの曲の聴かせどころがまったくわかっていないのだが、ふつうならさらりと通り過ぎるところがおもしろく聴こえたりして、まったく悪いというわけではない。知らないヴァイオリニストだけれど、フォーレとかフランクなんかはどうだろうか。ブラームスにはちょっとミスマッチかなと勝手に思う。■メンデルスゾーンピアノ三重奏曲第一番 op.49 (チョン・キョンファ、ポール・トルトゥリエ、アンドレ・プレヴィン参照)。メンバーを見て名演に決っていると思って聴いてみたら、全然よくなかったので驚いた。しかし、これはこちらが悪いのではないかという疑いが捨てきれない。何だか自分には音楽が 0.1ミリ横にズレている気がして、演奏に没入できなかったのであるが。チューニングしきれていないと云うか。音も自分の環境では、どうもうるさく聴こえる。しかし、第二楽章は名演だとはっきり言っておかねばならない。どうも、むずかしいものである。■ラヴェル:「ダフニスとクロエ」全曲(ブーレーズベルリン・フィル参照)。西欧の最高級品。至高の美しさとでも云うしかない。ブーレーズベルリン・フィルも凄すぎる。ああしんどかった。たぶん、全曲を聴いたのは初めてではないか。第二組曲がよく演奏されるよね。

国家は国民の幸福や安全を考えないわけではない。もちろんそれは考える。しかし、それは第一のことではなく、国家はまず国家のことを考える。国民については、その次である。国家の存在は自己目的化し、国家の存在理由は顛倒しているが、それはどのような国家であってもそうなのである。国家の存在と国民の幸福・安全が対立する場合(それは意外に頻繁にある)、前者が優先されることが殆どである。国民が国家に対して批判的であった方がよい所以である。「批判的」は critical ということ。

旅行の参考書として、白州正子の『近江山河抄』を読む。最近白州さんをとんと読んでいないけれど、もっと読んだ方がいいな。確か図書館に結構あった筈。
『D・H・ロレンス幻視譚集』読了。『チャタレー夫人の恋人』があまりにも有名なD・H・ロレンスは、たぶん初めて読む。こんな作風の短編を書いているのか。底の知れない深さをもった幻想文学である。訳者解説によれば、ロレンスの自然に対する感受性は並外れて深かったという。本書からもそれは充分に窺える。文明の中で生きた「野蛮人」(悪い意味ではない)というか、これほどの感受性があって複雑な文明人と交わるのは、至極苦痛だったのではないかとも想像される。神秘というのは、本当は日常生活の中にあるものなのだ。作家は、それを生きた人なのではないか。
D.H.ロレンス幻視譚集 (平凡社ライブラリー)

D.H.ロレンス幻視譚集 (平凡社ライブラリー)

明日から小旅行に行ってきます。

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