神話の時代

親は、いつまでも親です。その軛を離れて一人の人間として接することなどできません。

そして、その親が自分と同じように子供時代を思春期を青春時代を過ごしてきたことなど、想像できるはずもありません。

それは神話の時代。

ジャイアント馬場も、わたしたちにとって、そういう存在だったのではないでしょうか。

「プロレスラーは強いんです」とは桜庭和志の言葉ですが、それをジャイアント馬場に求めて、その闘いを見つめたことがあったかと自問するなら、「なかった」としか答えられません。

それは、その巨体も含めて自分たちとは違う特別な人という距離感の故かもしれません。そこを出発点にしては、闘う者に自分の中の何がしかを重ねるという共感は生まれようもありません。

そこに血肉を与えて一人の人間として再生させる、言葉。

柳澤健の『1964年のジャイアント馬場』を読んで、増田俊也の『 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』と同様、本というものの持つ力を体感しました。

「知る」ということは大切です。それがなく、イメージだけで吐き出される言葉に力は宿りません。

人に歴史あり。本書とジャイアント馬場に、万感の想いを込めて拍手を送ります。

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場

決まったからには

アメリカの最大のイベント。それは大統領選挙です。

まずは共和党民主党のなかで、それぞれに代表候補を決めるための選挙戦が戦われます。各陣営に分かれ、同じ党に所属しても、相手は敵。自分の価値を高めるため、互いに非難もすれば中傷もします。しかし、結果が出れば、「決まったからには、一致団結して自分たちの代表を応援しよう」となります。

それは、二つの党の代表候補のどちらを選ぶかという決戦においても同様です。否、むしろエスカレートします。あらゆるメディアを使っての非難合戦、中傷合戦。

そうして新しい大統領が選ばれると、必ずこう言われます。「長い選挙戦の結果、アメリカは二つに分断されてしまった。しかし、新しい大統領のもと、その溝を埋めて、全員が一つになって頑張っていこう」と。

今回の安保法制のメチャクチャ。同調圧力の強い日本社会で、上記のような「決まったからには……」という態度が求められるであろうことは想像に難くありません。

“公”とは、“個”が互いを尊重することです。決して大勢に迎合することではありません。

「勇気は技術だ。自己のテクニックに対する自信だ」とは、大藪春彦の『汚れた英雄』のなかの言葉です。

その勇気を持つ。