odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

開高健「声の狩人」(光文社文庫) 冷戦時代の外国ルポ。アイヒマン裁判を傍聴しサルトルにインタビュー。

 1959-1961年にかけて、著者は外国旅行を精力的に行っていた。ヨーロッパと東欧、ソ連、中国に限られるが。そのときの体験を雑誌「世界」に連載。その後手を加えて1962年に岩波新書に入れた。これは光文社文庫の復刻版。 

一族再会 ・・・ 建国10数年目のイスラエルを訪問。戦後の人工的につくられた国家の寸描。一族再会というのは、世界各国に離散していたユダヤ人が国家建設のために集結したところから。ヨーロッパ、新大陸のみならず、アジアからも集まったという。この国家の作り方をみると、ユダヤ人的なものを一掃し、新しいパーソナリティを確立するかのよう。その表れが共産主義的な運営によるキブーツ。まだイスラエルも貧しく、周辺のパレスチナも貧しく、国境紛争は拡大しない。
(この時期は大規模衝突の合間の静かな戦争期のようだ。5年前と5年後には大規模戦争になる。)

裁きは終りぬ ・・・ 1961年のアイヒマン裁判傍聴記。ナチ親衛隊出身で、「ユダヤ人問題の最終解決」の実行者。敗戦後、偽名でアルゼンチンに逃れていたのを発見されて、イスラエルに移送され裁判を受けた。裁判で本人は「知らぬ、存ぜぬ、忘れた、命令だった、逆らえなかった」を繰り返す。
(作家はアイヒマンの弁明を聞いて「熱くなり、むなしくなる」と感じる。また法廷には「力は正義である」というゲーリングの嘲笑が満ちているように思う。「無関心と偽善と冷笑癖の今日(こんにち)を引き裂き」、かれ自身の運命をかれ自身に決めさせるために「生かしておくべき」だったと考える。作家は資料を読み、裁判を傍聴し、一生懸命考えて、混沌やあいまいに入り、言葉を書くことをやめる。個人的な意見ではそこで終わるのはありとしても、これでアイヒマン裁判を知る人にはこの両論併記の先の沈黙は不親切ではないかな。)

誇りと偏見 ・・・ ソ連の核実験再開の報がでたあと、ソ連を旅する。数年前の「雪どけ」で表現の自由が復活していることも気になる。そこでソ連のさまざまな場所で、さまざまな人に「核実験をどう思うか」と尋ねる。意見のスペクトルができるのではなく、フレシチョフの声明を繰り返すか、沈黙するか。国家の傲慢さに「誇りと偏見」をみて、憂鬱になる。
スターリン批判1956年から5年ほどしかたっていないときであり、ベルリンで東西が牽制しあう緊張が生まれていたころのこと。)

ソヴェトその日その日 ・・・ 前作の続き。ソヴェトで見聞きしたこと。ライキンというパントマイム師の笑劇。深夜のホテル闖入者。エフトシェンコの詩。エレンブルグとの語らい。
(エフトシェンコ、エレンブルグはソ連作家同盟(という名で良かったか)の代表かスポークスマン的な立場であったようで、当時の作家のソ連訪問記によくでてくる。堀田善衛大江健三郎のものなど。)

ベルリン、東から西へ ・・・ 壁ができたころに、作家と大江健三郎が東側のベルリンを通る(ヴィザが必要)。東独作家同盟の用意したガイドは、国境の手前で自分はこの先に行けませんという。印象的なシーン。
(大江のレポートもありそうだが、載っていそうな「持続する志」はすでに手元にない。)

声の狩人 ・・・ パリの反ファシスト集会のルポ。アルジェリア解放戦争が進行中。ド・ゴールOASFLNが対立中。フランス領アルジェリアを守れというOASは排外主義の集団で、テロリズムを実行中。サルトルもテロの標的にされた(フォーサイスジャッカルの日」角川文庫を参考)。バカンス期のパリには一万人以上が「平和集会」に参加したが、国警に暴力的に鎮圧される。作家・大江健三郎、田中良も参加。

核兵器 人間 文学(田中良) ・・・ 開高と大江が上記集会で演説したサルトルにいくつかの質問を投げ、インタビューで答えをもらう。そのまとめ。

サルトルとの四〇分 ・・・ 同じインタビューの開高によるまとめ。大江も別に文章にしているらしい(たぶん「厳粛な綱渡り」に入っているかと思う)。
サルトルの回答は、少し後の サルトル/ボーヴォワール「サルトルとの対話」(人文書院)とほぼ同じなので、紹介しない。このころ、サルトルカミュレヴィ=ストロースは相互に批判しあっている。)


 すでに50年以上を経過していて、資本主義国と共産主義国の対立、核兵器所有国が米ソ英仏くらい(しかし核実験が盛んに行われていて)、冷戦に結果ベルリンに分断の壁が設置、アルジェリアベトナムやエジプトなどで民族解放戦争が進行、などは、21世紀の読者は本を読むか映像を見るかしないと知ることができない歴史になってしまった。サルトルが西側知識人の代表で、彼のステートメントはフランスのみならず資本主義国家の知識人が注目していた。彼はこの時期、ソ連擁護の立場で、ソ連の核実験を限定付きで承認していた。
 というような剥き出しの政治(しかし多くの市民は無関心か冷笑か沈黙するか)を前にすると、著者の精神の運動は鈍い。この時期の大論争であった資本主義か共産主義かという問いが著者にしっくりこなかったからかも(「資本論」を読もうとして挫折したとかいろいろ)。マルクス主義の煩瑣な議論には付き合いきれないし、実際の生活を見ても直ちに良いとは言えない。でも資本主義でOKかとうと、政治屋のいいかげんさにはうんざりし、格差の拡大には腹が立つ。そのうえ、中産階級は見かけの繁栄と所有欲の満足で政治に向き合わない。それもまた腹が立つ。切り込みたいのに、そうするほどねっとりとした触手がからみついて、思考がぐだぐだになっていく。そういう点では、著者は若かった(出版年のとき32歳)。
(これから読む読者には「歴史的証言」とも思えるだろうが、自分はこの東西冷戦時代の気分をしっているし、すでに30年前にこの本を読んでいたから、懐かしい、それにしては踏み込みが浅いという感想になった。)
 著者のルポが鮮やかになるのは、ベトナム戦争の従軍記者となってから。ここでホテルと地べた、都市と農村、後方支援基地と最前線を行き来することで、体験の質が変わり、思考の密度が増した。そこに至る萌芽はこのルポにはあるが、まだまだ未熟だったのだな。

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