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2016-07-14

電車の中で

仕事の帰り、夕方のラッシュで混み始めたJRの四人掛けシートに運良く座れた。

前の席は若い女性と、週刊誌を読んでるサラリーマン風の男性。

そして隣は、まだ3、4ヶ月くらいの赤ちゃんを抱っこ紐で前に抱え、さらに大きめの手荷物を持ったお母さん。


スマホを見ていたら、赤ちゃんの足が動いて、私の肘をちょっと押した。即座に母親が小さい声で「すみません!」と言った。「いいえ」。

そんな気にしなくてもいいのに。


そのうち、赤ちゃんが「えぇえええ〜」と声を挙げ始めた。前の男性が週刊誌から顔を上げて、チラッと母子を見た。

母親は赤ちゃんと荷物を抱えたまま立ち上がり、「はいはいはい」と呟きながら赤ちゃんを軽く揺すり始めた。ずーっとその状態で立ち続けている。


なんだか気の毒になってきたので、「どうぞおかけになって」と言ってみた。「誰も気にしてませんよ。子どもは泣くものだから」。

「こうしてれば寝ますから」と、お母さんは言った。「おねむなのね」と私も言った。

赤ちゃんが静かになって、彼女は座った。


しばらくして、また赤ちゃんが泣き出した。お母さんは反射的に立ち上がって、また揺すり出した。「長期戦」を覚悟したらしく、今度は座席に荷物を置いた。

「ぇえ〜、えええ〜〜〜」「はいはいはいはい」。


赤ちゃんの泣き声が周囲の人に迷惑をかけると気にして、そうするのか。ぐずり出した赤ちゃんを寝かしつけるいつもの行動として、そうしているのか。

私にはわからない。再び「おかけになって」とも言えなかった。大変ですね‥‥‥ほんとに大変ですね‥‥‥と、下を向いたまま胸の内で繰返すだけ。


ようやく赤ちゃんが眠りについて、お母さんは座った。降車駅に着いて、私は下車した。

「おせっかいなおばさんがいたわ」と思われてないかという気持ちに囚われながら、ホームの階段を降りた。

2016-07-08

ウンチに罪はない

多くの愛犬家がそうしているように、私も散歩の途中で犬のウンチを片付ける。

片付け方は人によって様々だろう。サッと犬のお尻の下にシートを敷いて、そのまま包んでウンチ用のビニール袋に入れる人。スコップか何かでウンチを掬い、袋へ入れる人。ビニール袋を手に嵌めてウンコを掴み、ひっくり返して口を縛る人。私は三番目だ。一番簡単。

薄いビニール袋を通して伝わる、ホカホカの愛犬のウンチのぬくもりが、何ともいとおしい。今日も元気でいいウンチをしたな、ああ生きているのだな、と思う。匂いは頂けないが、素手で掴めと命じられたらするかもしれない。


そういうことを実家の母に話したら、「子どもも同じよ」と言った。

「あなたがハイハイしてる頃ね、動き回るもんだからおむつがずれて、したばっかのウンチがコロンと出てきちゃったのを、素手で掴んで「あい!」って私に差し出したりしたのよ」。

ひええ。しかしそれは、母親へのプレゼントなのだよ、子どもにとっては。


ところで、今週初めに放映されたNHKの『介護殺人〜当事者たちの告白』で知ったエピソードが、いつまでも頭から離れない。

介護で一番大変な、一番厭な仕事は排泄の介助である。ヘルパーの講習のシミュレーションでやっただけだが、どれだけハードかはよくわかる。

そのエピソードによれば、独身で認知症の母を介護していた中高年の男性が、仕事との両立が難しくなり、無職の弟を呼び寄せて介護の分担を頼んだ。その弟が母を殺してしまう。


刑務所で服役する弟さんは、「協力してくれ」ではなく「助けてくれ」と言われてとても断れなかったと話す。

25年ぶりに実家に戻った弟。すっかり変わり果てている母。もうこれだけで、介護のハードルが三段階くらい上がる。

ある日、トイレから出てきた母が、信じられないほど大量の便が付着した手拭を自分に向かって差し出した時、殺意が彼を襲った。それは止めることができなかった。「母が、母の皮を被った化け物に見えました」。


犬のウンチをいとおしいなどと言っている自分が、少し能天気に思えた。

ウンチに罪はない。ウンチをする人にも(生きものにも)何ら罪はない。普通ではありえない異常事態の常態化、それを「家族だから」という理由で受け入れ、疲労とストレスが蓄積されても誰にも助けを求められないという状況が、悲劇を生む。そして行政サービスの窓口があるとは言っても、今のところ、こうしたことを解決するのは、究極的にはお金だけなのだ。

私がその弟さんの立場だったら、いや、長年母親と暮らしてきた兄さんの立場でも、瞬間的に殺意が湧かないという保障はないと思った。

2016-07-02

連載エッセイ「絵を描く人々」第3回のお知らせ

WEBスナイパー(18禁サイト)に好評連載中の「絵を描く人々」、今回は「絵が苦手になる子ども」。


絵が苦手になる子ども - 絵を描く人々第3回


子どもの頃は好きで楽しんでいたお絵描きが、なんとなく苦手になる。だんだん描かなくなる。それは当たり前。という話をしています。

第一の理由は、子どもの成長過程における必然。第二の理由は、学校の図工、美術教育の問題。そこには、「学校で描き方を教えるべきかどうか」というテーマも潜んでいます。


画家や漫画家になるわけでもない子どもに、絵の描き方(透視図法や写実表現)なんか教えてどうするの? ‥‥‥これが案外役に立つ。

少なくとも、小学校高学年から高校にかけての美術教育は、あれこれ中途半端にいろんなことをしなくても、絵の描き方と絵の見方をじっくり学べばいいんじゃないかと思ったりします。


今回の挿絵デッサンフランスパン。このモチーフ、デザイン専門学校で散々描かせたものです。難しかったー。



専門学校で基礎デッサンを教えていた頃の話。

透視図法に従った幾何形態の描き方を教える授業があった。

↓こういうのをホワイトボートに描いて説明する。因に正六面体(と言ってもピンとこない場合はサイコロ型と言う)を描けと言うと、半数が一番上のような図を描く。

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これをだいたいマスターして、見なくても描けるよねとなった後で、「シルエットが↓こういう形になる形態を想像し、立体的に描く」というのをやったことがあった。

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思いつく限りのパターンを描かせる(出てきたのを思い出して描いた↓)。

左のはあんまり考えてない。だいたいここから始まる。右のは少し考え出した例。右のような発想に行った学生は、次々工夫したのを描き出す。

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一番笑ったのはこういうの。逆転の発想。

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そんなに技術のない学生に、「描くのは面白い」と思わせるには、「考えることが面白い」と思わせる必要がある。

2016-06-30

映画レビュー更新。ジュリア・ロバーツとキャメロン・ディアスのあれです。

サイゾーウーマンに連載中の映画レビュー『親子でもなく姉妹でもなく』第五回、アップされています。


年上女が小娘に負けるのは「若さ」ではない――『ベスト・フレンズ・ウェディング』に見る解


『ベスト・フレンズ・ウェディング』(P.J.ホーガン監督、1997)は、ジュリア・ロバーツとキャメロン・ディアスが共演したロマンチック・コメディの傑作。ご覧になっている方も多いと思います。

キャメロン・ディアスが、愛称キムで呼ばれる富豪の娘をチャーミングに演じて、コメディエンヌの持ち味を見せていたのが印象的です。この年はその後『普通じゃない』、翌年は『メリーに首ったけ』に主演して一挙にスターの仲間入りをしました。

しかし何といっても、ジュリア・ロバーツが素晴らしいですね。こういう、一見自信と余裕たっぷりのキャリアウーマン(死語)でいながら、肝心なところでダメな役が、とても巧いと思います。

エリン・ブロコビッチ』の評価が高い彼女ですが、私が好きなのはこの作品と、前に取り上げた『モナリザ・スマイル』です。


いろいろな歌が使われていて、一番盛り上がるのは親族のランチで全員が歌い出す場面ですが、物語の中で重要なのは「The Way You Look Tonight」。この大切な想い出の曲を、ジュリア・ロバーツが結婚する二人に贈るシーンで、私はいつも涙が出ます。


シナトラの歌でどうぞ。

D


2016-06-21

過ぎていく

連載の告知以外で記事を書かずに、一ヶ月ほど過ぎてしまった。

前は一週間以上間が空くと「何か書きたい」という気分になっていたが、最近はそれがなくなってきた。そろそろ終わりだろうか。


以前より熱心にネットを見なくなり、お気に入りに上がってくる記事も、ほとんどタイトルを見るだけで過ぎていく。たまに読んで、「なんか書こうかな」と思った傍から、「このテーマでは前に書いたわ」と思い直し、それで過ぎていく。

日常は、外仕事(講義)、内仕事(原稿書き)、犬、親(双方の独り住まいの親の家事手伝い及び様子窺い)、内仕事、着物(お出かけ)、外仕事、犬、親、内仕事‥‥という感じで過ぎていく。

その中で「うわぁ」とか「やれやれ」とか思うことがたまにあり、思ったことを書いてみようかと思うが、その気持ちも大抵はすぐに消え失せて過ぎていく。

この何もかもが「過ぎていく」感じは、列車の車窓から外を眺めている時の感じに近い。


毎週、仕事で名古屋-京都間を往復する。新幹線の席は必ず窓際を予約。外を見るのが好きだから(子どもか)。

周囲を見ると、大抵はスマホタブレットやパソコンの画面を見ているか、本や週刊誌や書類と思しきものを読んでいるか、寝ているか、隣の人と喋っているかで、外を見ている人はほとんどない。たぶん退屈だから。

車窓に広がる田園風景、遠くの山々、工場、川、森と林、点在していた集落が大きくなって小さな街を通り過ぎると、また田園風景が広がっている。

そういう景色を眺めている時間が私は好きだ。正確には、退屈な風景が退屈なまま移り変わっていく様を、ぼんやり見ている時間が。


頭にさまざまな思念が浮び、まとまったかたちにならないうちに消えていく。風景が後へ後へ飛び去っていくのに似ている。

見るものも思念も自分でコントロールできない状態に、身を委ねる。この受動性の中にある諦めの混じった心地よさと一抹の無力感。

このように人生は過ぎていくのかと思ったりする。いや、こんなふうに無難には過ぎまいと思ったりもする。

降りるつもりのなかった駅で降り立ち、眺めるだけだった風景の中に足を踏み入れることは、この先まだあるだろうか。