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2017-01-13

名古屋市芸術奨励賞を頂きました

このたび、平成28年度名古屋市芸術奨励賞を「美術(美術・映画評論)」で受賞しました。

http://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000066433.html


先月半ば頃に市の担当者の方から電話でお知らせを頂きましたが、正直全然ピンとこず、なんで私が?と思い、「えっと、それは私のどういう活動についてですか?」とマヌケな質問をし、「美術や映画の評論です」と教えて頂きました。

2008年の『アーティスト症候群』はこの手の本にしてはそこそこ売れて文庫にもなっていますが、それ以降の本は特別話題になってはいません。特に名古屋では、ごく身近な人を除いて評価らしいこともほとんど耳にしていませんでした。新聞などでは紹介されましたが、地元の美術批評誌には取り上げられていなかったと思います。この際だから書いちゃいますが、久しぶりに行ったギャラリーなどで、いまだに「大野さんなんで美術作家やめたの?もったいない」などと言う旧知のアート関係者(もちろん本は読んでいない)がいるくらいで、つまりそういう感じなのです。でも見てくれている人はいるのだなと思いました。

特に、映画の本は一昨年出した『あなたたちはあちら、わたしはこちら』一冊のみですので、引き上げて頂けて嬉しく思っています。

ものを書き始めたのは40代半ばと遅いですが、その前の20年の美術作家活動で得たものが、自分の「書くこと」の重要な部分を形づくってきました。それも含めての「美術(美術・映画評論)」での受賞と受け止めています。

これからもどうぞよろしくお願い致します。


大野左紀子の美術本と映画本・紹介記事

本が出ました(『アーティスト症候群』)

『アーティスト症候群』文庫版出ました(5名にプレゼント)

新刊のご案内 - 『アート・ヒステリー なんでもかんでもアートな国・ニッポン』

『あなたたちはあちら、わたしはこちら』刊行のお知らせ

他、最近の仕事についてはプロフィールページに記載しています。

2017-01-11

アヒルと非常事態・・・“I will fly” 竹内孝和展を観て

間口の狭いガラス越しに、奥の白い壁にカラフルな色彩が糸を引いているのが目を捉える。中に入ると、8畳ほどの小さな縦長の空間の床には緑の人工芝が敷き詰められ、人の通れるくらいの通路を残して三分の二ほどが低い柵で囲われている。画廊の人の座っているブースもその中にあり、人工芝と同じ色に塗られている。

その柵の中に、真白の一羽のアヒルがいた。*1


側面の壁には、小さな鉛筆画が一枚かかっている。三人の奴隷が鎖で繋がれている古代ローマレリーフデッサンしたものだが、その鎖の部分だけ白く消されている。

奴隷たちの下の部分には作家の創作であろう、浮き彫りになった「LIBERATED SLAVES」という文字が描かれている。


そして正面奥の壁と一部は天井に、10数本あっただろうか、1メートルほどの矢が突き刺さっている(作家によれば、矢の羽根は、屠殺されたアヒルの羽根を使用している)。

それぞれの矢の先端は小さな缶を突き破っており、中身の絵の具が壁を伝って滴り落ちている。外から見た時に、それがカラフルな線に見えたのだった。


家畜であるアヒル。家畜同然の扱いであった奴隷(の解放)。アヒルの羽根で作られた矢。密封されていた中身の流出。

支配と隷属、攻撃と防御のイメージがめまぐるしく反転する。矢が貫く絵の具の缶をどう捉えるかで、この作品の解釈は違ってくるかもしれない。


それぞれ異なる色の絵の具が入っている缶には、色の名前がラベリングされている。それは、渾沌とした世界を色分けし、命名し、区別する言語システムのメタファーだ。このシステムの元に、あなたは「支配者」(「奴隷」)に、わたしは「奴隷」(「支配者」)になったのだ。

アヒルの羽根の矢はその方向から言って、アヒルのいる柵の内側から放たれているように見える。もちろんアヒルが自らの羽根で矢を作り、的を射ることはできない。

アヒルが無力なのは、この世界でアヒルと名のつく者に生まれたからである。それと同じように、わたしたちが自らを縛る命名 - 言葉の鎖を解くことは、根本的にはできない。


だからその矢は、不可能な矢である。

この展示が幻視しているのは、奇跡が起きて、不可能なはずの矢が放たれ、色分けされ命名され区別されていたものがドロドロと流出する非常事態だ。その時、世界は支配も隷属もなく、攻撃も防御も必要ないものになるだろうと。

だが、その底なしの自由と渾沌に、人間は耐えられるだろうか。わたしにはわからない。少なくともその時、人間という概念は変わり、アヒルは空を飛ぶだろう。


f:id:ohnosakiko:20170111135518j:image

名古屋・LAD GALLERYで2月5日まで。

LAD GALLERY(画廊入り口は那古野ビル北館の裏側。名古屋高速に面した表通りの方で探しても見つからないので注意)

竹内孝和

*1:会期中、アヒルはここで飼育されている。動物愛護の観点から専門家の監修も入っているとのこと。

2017-01-07

「絵が描けるといい仕事」って何だろう(連載エッセイ更新)

WEBスナイパー(18禁)に連載中の「絵を描く人々」、今回は「絵が描けるといい仕事」です。


絵を描く人々 第9回 絵が描けるといい仕事


美術を志した14歳の頃、将来好きな絵を描いて暮らしていけたらいいなぁ‥‥とのんびり考えていました。5年後、芸術大学に進学して先輩たちを見ているうちに、「美術で自活するのは生易しいことじゃない」とわかりました。

卒業後の生活はずっと美術系予備校講師で賄い、その後は大学の非常勤で実技系科目も幾つか担当。他にも、子ども向け造形教室、デザイン専門学校の講師、ヘア・デッサンの講師などいろいろやりました。イベントで似顔絵描きをしたことも。アーティストとしては最後まで経済的に自立できませんでした。


絵(美術)そのものを仕事にするのは大変です。でも、絵を描くことと何かが結びついてできる仕事は、たくさんあります。直接絵を描かなくても、絵画的なセンスが要求される仕事、絵の能力が利点になる仕事、絵が描けるといい仕事も、案外あります。

いろんなかたちで絵と関係する仕事を見ていくと、今ほどビジュアル的なものが生活に関わっている時代はないんじゃないかと思えてきます。


今回のイラストはちょっと趣向を変えてみました。描いてみて、それが上手く描けないことがちょっとショックでした。なぜショックだったか‥‥見れば納得頂けると思います。

2016-12-31

世代も価値観も社会的立場も違うけれど‥‥(『グッドナイト・ムーン』)

サイゾーウーマンの連載映画レビュー「親子でもなく姉妹でもなく」最終回は、『グッドナイト・ムーン』(クリス・コロンバス監督、1998)を取り上げました。


既婚/独身、専業主婦/仕事女の分断と希望を描く『グッドナイトムーン』


グッドナイト・ムーン [DVD]

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クリス・コロンバス監督はファミリーコメディやファンタジーものを得意とする監督で、この作品も基本ハートウォーミングなユーモアを交えたタッチですが、設定はわりとシリアスです。

立場の異なる二人の女性の悩みや葛藤や対立、そして歩み寄りを丁寧に描いて好感がもてます。原題は”Stepmom”(継母)。


ジュリア・ロバーツが独身売れっ子カメラマンを、スーザン・サランドンがバツイチの母を演じています。もうそれだけで火花が散りそうですが、後者の別れた夫が前者の恋人となっているので、男を間に挟んだダブル・ヒロインものでもあります。

普通そういうケースだと、男がどうにも煮え切らなかったりだらしなかったりすることが多いですが、この作品は男を「悪者」にはしていません。そもそも、厭な人物は一人も登場しないのです。私は二人のヒロインのどちらにも半分ずつ感情移入しながら観ました。

世代や社会的立場や価値観の違いをいかに超えていけるかという、普遍的なテーマを扱っている作品だと思います。


イラストはスーザン・サランドンとジュリア・ロバーツの顔を正面から。似顔絵としてはまあまあの出来でしょうか。この連載でジュリア・ロバーツの登場は最多(3回)でした。本文とともにお楽しみ下さい。


今回で、連載「親子でもなく姉妹でもなく」は終了します。

ダブルヒロイン」「女性の関係性」は引き続き考えていきたいテーマなので、またどこかで稿を改めて書いてみたいと思っています。

どうもありがとうございました。

2016-12-21

「教えて下さってありがとうございました!」と「悪いということを知らなかったんだから」

大学の授業内で時々ミニレポートを書かせ、その提出をもって出席票に替えている。その日、家に帰って80人あまりの学生のミニレポートを読んでいたら、ほぼ同じ内容のミニレポートが続けて四枚出てきた。内容もそっくりなら書体もまるでそっくり。すぐに、これは全部一人の学生が書いたなと感じた。

おそらく、四人の中で一番文章量の多いAさんが「主犯」。あらかじめ頼まれていたAさんが、欠席している残りの三人の分も書いたのだ。そして次回は、その三人の中の誰かが「主犯」を引き受けるのだろう。他の学生の出席票も書いて出すとか、代返をするとかと同じ、昔からある大学生の不正互助行為である。


にしても、それを堂々とやっているのにちょっと驚いた。普通はバレないよう、内容や言葉遣いや書体を多少は変えるものだ。これでは「見つけて下さい」と言っているも同然。自分のも含めて四人分を時間内に書かねばならないということで、小細工している余裕がなかったのだろうか。

うっかり騙されるのは仕方がないが、見つけてしまったものには、それなりの対応をしないと‥‥ということで、次の授業後、四人を呼び出した。一人は欠席していて、三人が来た。ミニレポートを机に並べ、Aさんが誰かを確かめた上で、「これを全部書いたのはあなたですね?」と聞くと、そうだと答えた。

この後は「やっちゃいけないことだよね」「スイマセーン」「じゃ、この日は全員出席取り消しね」で終わると思ったのに、事態は意外な方向に。「やっちゃいけないことだよね」に、Aさんが「どうしてですか?」と尋ねたのだ。

以下、私とAさんの会話。


私「それぞれが書くことになっているものを、一人が代筆してはいけないでしょう。こういう方法で出席したことにするのも、ずるい行いでしょ」

Aさん「でも他の授業でもやってるし、今まで他の先生には何も言われたことないですけど」

私「それは、その先生が気づかなかっただけじゃないですか? 認めてはいないと思いますよ。じゃあ、やってもいいことだと思っていたの? いつからそう思ってた?」

Aさん「えっと、大学入って少ししてから」

私「そうなんだ。でもこういうのはダメです。カンニングと同じ、不正行為になります」

Aさん「そうなんですか」

私「人に書いてもらうとか人のを書くということは、学問の世界ではアウトですよ。この授業でも、自分で考えて書いたものを評価するって言ってありますよね。それをあなたたちは破っているわけ。しかも私を欺いて出欠を誤摩化しているから更に悪いです」

Aさん「知りませんでした。知らなかったことを教えて下さってありがとうございました!」

私「‥‥はい。じゃあ、この日の出席は全員取り消しね」

Aさん「どうしてですか?」

私「だって不正行為をしたでしょ? 取り消しになるのは当然でしょ」

Aさん「でも悪いということを知らなかったんだから、それはちょっと行き過ぎじゃないですか?」

私「‥‥いや、あのね‥‥‥」


この後、「不正行為に対しては罰を受けるのが当然。それは知らなかったとか関係ない」ということを諄々と説いた。後の二人はきまり悪そうな顔をしていたが、Aさんは最後までちょっと不服そうだった。



私もこの稼業が長いので、これまでさまざまな学生を見てきたが、今回は一番考えさせられた。

単位認定のレポートをネットからの剽窃で埋めた上で、コピペはしてないと言い張った学生のほうが、まだ理解できる。「自分のやっていることは人から盗み人を欺いて利益を得ることであり、それは悪いことだから単位はもらえない」という認識があるから、彼は「やってない」と主張したのだ。*1

しかしそれと同じようなことをしているにも関わらず、「これは悪いことだ」という認識のない学生が登場し、誰でも持っていそうな常識的な善悪の観念に訴えることができなくなった。


レポート代筆や出席票の代筆、それは大学生の”処世術”として、おそらく広く行われている。それを、黙認されていると捉える学生もいるだろう。バレたらまずいという意識がないから、堂々と同じ内容、同じ書体で書いて提出できたのだ。

そして、「それは悪いことだ」と初めて教えられたので、Aさんは「知らなかったことを教えて下さってありがとうございました!」と礼を述べた。何の衒いもなくハキハキと。

私が一瞬言葉を失ったのは、基本的な善悪の判断力がすっぽり欠けている(ように見える)にも関わらず、こういう妙な礼儀正しさだけはある点が、一種異様な感じに映ったからである。もしかして、「これはどうやら叱られているっぽい」と感じ、「教えてもらった」ということで礼を言えば、それで話が終わると思ったのだろうか。


「出席取り消し」に対する「悪いと知らなかったんだから罰を受ける謂れはない」という主張にも、虚を突かれた。

「今回だけは見逃して下さいよ」という感じではない。自分の主張はあくまで正しい、理に適っていると確信しての発言だった。「やったことが不正でも自分に悪意はなかった。その自分の内心のほうを尊重せよ。尊重するべき立場にあなたはいる」と、Aさんは私に訴えていたのだ。


この間、「高大接続システム改革」の影響をめぐってのトークセッションに登壇した時、改革の方向性を評価する一方、大学受験の「就活」化が懸念されるという話が出た。

表現力や主体性が重視されることによって、若者は、大学(社会)が求めるコミュ力の発揮や自己主張の仕方を学習し、型として演じるようになる。それが思考力や判断力の育成に繋がらないままに、肥大化する危険性もあると。

「教えて下さってありがとうございました!」や、「悪いということを知らなかったんだから(罰は行き過ぎ)」を、コミュ力や正当な自己主張と捉えていそうな学生が出てきたところを見ると、実際、もうそうなっている部分はあると思った。


「うまくやってる奴は一杯いる。自分だけ損することはない。いや、みすみす損をするのは悪だ」という価値観は、この社会に行き渡っている。その一方で、「積極的にコミュニケーションし、気持ちを人に伝えなさい。そして堂々と自己主張しなさい」という啓蒙も行き渡っている。

何かあると思わず「最近の若いもんは‥‥」という定型句を呟きたくなるが、若者は社会からのメッセージに忠実に従っているのだ。つまり大人である私たちのしてきたことが、巡り巡ってもたらした結果だと言うしかない。


●追記

たくさんのコメントありがとうございます。すべてにはレスをしていません。どうぞあしからず。

コメントを書かれる方は、できれば他のコメントをお読みになった上でお願い致します(同じような内容や事実でないことを前提としたコメントは承認していません)。


●追記2

四人分のミニレポートを書いたAさんと、書いてもらった(あるいは書かせた)後の三人との力関係について推測するブコメがあるので追記します。

その場で見る限り、Aさんが他の学生に無理矢理その役を押し付けられているといった上下関係は、一切感じられませんでした。その中ではAさんが一番積極的な、リーダータイプの学生に見えました。Aさんの「知りませんでした」が嘘か本心かは見分けがつきませんでしたが、後の学生の様子からはどことなく罪の意識がうかがわれました。その後、Aさん以外の三人は出てこなくなりましたが、Aさんは欠席もなく、授業についての質問もしてきたりしました。

*1http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20120306/1331051919 こちらで書いた。その記事のブックマークには、不正をしたほうが「合理的」とか「得」だというコメントがある。