Hatena::ブログ(Diary)

Ohnoblog 2 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-05-23

眠りにつく前に

幼いお子さんについて時々呟かれているid:white_cakeさんのtweet


「こういう場合はこうするんだ」と、その行為を意味内容抜きで覚えた子どもが、早速それを実行する。子どもは決まり事が好きなのだと思う。

私は子どもがいないが、母から聞いた話を思い出した。


二番目のtweetにいくつか反応があり‥‥


皆さん、同じようなことしてたんですねぇ(笑


「あったかいね」も「トントントン」も子どもにとっての決まり事であれば、親が読み聞かせるお話の文言も大事な決まり事。それを自分の中にしっかり刻み付けているから、異変や逸脱に敏感になるのだろう。子どもは妙なところで頑固で融通が効かない。


睡眠は小さな死だという。愛し合った後の昏睡を指して「プチ・モール」とフランス人が言ったのが始まりらしい。セックスでなくても、エネルギーを出し切った後の眠りは死に近い。

終日全力で活動した後の小さな死を前に子どもは、「何もかもがいつも通り。お母さんのお話も寸分違わずいつも通り」という安心の確認をして、眠りにつきたいのだと思う。

そんな子ども時代は短いし、自身が日々成長して変わっていくのに、子どもは「何も変わりませんように」と願っているのである。*1


ちなみに大人になってからは大抵、エッセイなどの比較的軽い本を読みつつ寝る。既読のもの中心。すべてがあまりにも早く変化していく中で、寝る前くらい「寸分違わずいつも通り」を確認し安心したいのかもしれない。

*1:そう言えば、母親もいつか年老いて自分より先に死ぬと知った時、しばらくの間は布団に入ってから「お母さんが絶対におばあちゃんになりませんように」という理不尽なお願いを神様にしていたことをぼんやり思い出した。

2017-05-16

「差別」と「欲望」についての断片

例によって少し前の呟きから抜粋(人のtweetに反応したものだが、単体で成り立つよう若干手を入れた)。



差別(偏見や先入観などを元に特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをする)とは単に好き嫌いの感情ではなく、構造的な権力関係を前提としてマジョリティマイノリティを排除したい時に現れるもの。

こうした社会的位相における差別と、個人的愛憎における区別とは異なる。人を愛することと差別に反対することは、個人の中で両立する。愛の反対は憎しみではなく無関心。儀礼的無関心に基づく平等というのもありうる。


そもそも人に「差別する自由」などというものはない。なぜなら、人はつい差別をしてしまうものであって、そこにするかしないかの選択の「自由」などないから。

差別感情は不条理且つ根源的なものゆえ、人の心から完全に消し去ることは難しい。だからこそ理性による制御が求められる、とされてきた。


近代は「人権」の時代であり、差別撤廃も近代的理念の徹底化の一つ。その流れはおそらく止められない。

ただもちろん法的規制については慎重さが必要。理念では律し得ない不条理を完全に消毒しようとすると、抑圧された差別感情は最悪のかたちで出てくる。今既にそうなりつつある。



自分の望むタイプの欲望を自由に選択できない点で、人は欲望から不自由な存在だ。

選択の余地なく抱いてしまったその欲望を実行に移したら加害行為になる、あるいはそれが相手の合意が取り付けられないような種類の欲望の場合、その存在は秘匿される。でなければ周囲の人々に強い不安をもたらすから。


秘匿せねばならない欲望を抱いてしまった人は、欲望を開示し行動に移せる人を羨んだり、時には自分が不当に抑圧されていると感じるかもしれない。だが反社会的欲望の開示は周囲だけでなく、自分にも結果的に社会的不利益をもたらす。

この苦しみは、欲望が多形倒錯である人間に生まれついたことによる。


自然から半ば疎外された存在であるがゆえに、人の性欲は生殖に限定されず多形倒錯となった。それが高度な文化を作る一方で犯罪も生んだ。

だから欲望の取り扱いには細心の注意を払わねばならない。私たちが自由に欲望を選べないことがその最初の認識。それは宿命として受け入れ手なづけるしかないもの。


https://twitter.com/anatatachi_ohno

2017-05-06

「欲しい絵」と「なりたい絵」・・・『絵を描く人々』更新されました。

絵を描く人々 第13回 「欲しい絵」と「なりたい絵」- WEBスナイパー*1


人の基本的な欲求の中に、「◯◯が欲しい」と「◯◯に(のように)なりたい」というものがあります。

過去、あらゆる対象が描かれてきた絵画の世界は、人の「◯◯が欲しい」と「◯◯に(のように)なりたい」を刺激するジャンルでした。今その役割は広告が担っています。広告の美しく斬新なビジュアルを目にして、私たちは「アレが欲しい」とか「こんなふうになりたい」とか思う。


子どもの絵の中にも、素朴な「◯◯が欲しい」と「◯◯に(のように)なりたい」がしばしば現れます。

今回は、エリノア・エスティーズ作・石井桃子訳の子ども向けのお話『百まいのきもの』(現在は『百まいのドレス』というタイトルで発行)を、この二つの欲望から読み解くという試みです。

子どもの頃、何度読み返してもスッキリとした読後感にならなかった、その理由を大分前にこのブログで書いたことがあり、それに加筆しました。

基本的には「貧しい子をいじめちゃダメ」という教訓が導き出される物語であり、絵を通じたコミュニケーションも賞揚されていますが、本エッセイではそこから逸れて、登場するワンダ・ペトロンスキーという孤独な少女の心の動きについて、私の中で広がった想像に重心を置いて書いています(たぶん、一般的な読みとはかなり違います)。


今回のイラストは、季節柄、庭の草花です。植物の観察画など何十年ぶりという感じですが、描いていると、雑草とそうでないものの境目がなくなっていきます。

『無くならない アートとデザインの間』で著者の佐藤直樹さんが、描いている時の気持ちを「植物になりたい」と表現していましたが、私もそうでした。この感覚を思い出しただけで描いて良かった。




f:id:ohnosakiko:20170506100947j:image

私の持っている本は親に買ってもらってから半世紀経っているので、何度も読んでいるうちカバーが破れて取れてしまっている。


f:id:ohnosakiko:20170506101027j:image

最後の「岩波子どもの本 三・四年向」の本紹介と奥付のページ。「昭和41年8月30日 第6刷発行」「¥200」の表記。訳者の名前はこの版には出ていない。


百まいのドレス

百まいのドレス

*118禁サイトなので、両サイドにエロ広告が出てきます。見たくない方は紙か何かで隠してお読み下さい。スマホ画面だと広告はかなり減ります。

2017-04-26

「外部」をめざす内在的絵画論 ––––『無くならない アートとデザインの間』を読んで

f:id:ohnosakiko:20170424211450j:image


変わったタイトルである。「無くならない」が大きく表示されてタイトルっぽく、「アートとデザインの間」がサブタイトルの扱い。

帯には、「20世紀の思想だったデザインやカウンターとしてのアートがある使命を終えようとしている。」の文言。「はじめに」では、アートとデザインの「ジャンル中間領域」の話でも、「両者の融合」ということでもないとある。

読み進めていくとわかるが、この「間」とは、「アート」として成立する以前、「デザイン」と呼ばれる以前の、名付け得ない行為を指している。今あるようなかたちのアートやデザインがなくなっても、その行為というか営みだけは「無くならない」ということだ。

「描く」という、人間の「無くならない」営みについて、「アートやデザイン以前」から根源的に考えようとする、非常に奥行きの深い内容だった。


著者の佐藤直樹は『WIRED』日本版創刊からアートディレクターとして関わり、長年デザイン分野の第一線で活動して来た人だが、5年ほど前から突然木炭画を描き始め、なぜかそれが止まらなくなっている‥‥‥というのは、テレビでも紹介されているのを見た。シナベニヤの板を何枚も壁に立てかけ、植物の絵を描きまくっている光景が映っていた。

2013年に東京電機大跡地の壁に描いた『そこに生えている』(3.6×9.5m)は話題を呼び、今月30日から6月11日までは@3331 Art Chiyodaにて新作「植物立像図」(2.4×1.2mが26枚)が発表される。会期中にそれは、150メートルもの壁を埋めていくという。

刊行されてすぐに本書を読んだのは、晶文社のサイトに連載されていた『絵画の入門』が面白かったことと、デザイン畑の人が木炭画を突然描き始めて止まらないというエピソードに惹かれたからだ。



f:id:ohnosakiko:20170426124318j:image


4部構成になっている。「 I アートとデザインの間には深くて暗い川がある」では、アートディレクターという肩書きを一旦降ろし、アートでもデザインでもない「描く」という行為に向き合うという宣言がなされている。

その間に、経済を基盤とするデザイン、「それ自体への定義づけを拒んでいる」「他者依存」的なアートへの懐疑の言葉が差し挟まれる。

 個々の営みを存続させるためには、「アート」や「デザイン」といった大括りな業界に属することをよしとせず、そのような概念自体を疑い、個別に具体的な立ち位置を明確化するしかない。インデペンデントであり続けるしかないのです。(p.51)

 わたしたちの一人一人が必ず死を迎えるように、「アート」も「デザイン」もいずれ死を迎えることになるのではないか。だとすると、そのような概念に合わせて活動することよりも、目の前で起こっている「生きている」ことに対する感応をどれだけ大事にできるかでしかないでしょう。何かを「越えていく」にはそれしかないだろうと、非常に単純なところから考えるようになったのです。(p.53)



 こうして、著者が自ら設定する「 II 絵画の入門」に続くわけだが、もちろん一般的な「入門書」めいたことが書いてあるのではない。目次を見てもわかるように、絵画とは入門できるものなのか、すべきものなのか、入門とは何をどうすることか、そもそも「絵画」と呼ばれているものはどういうものかといった、「門」のずっとずっと手前のところから考察が始まる。

この「そこからですか?」感が凄い。そんなのわかり切ってるよねとすっ飛ばすところが一切ない。一からものを考えるとはこういうことだ。


「自由に描かれた絵」とは何か。それは「ただの絵」ではないか。じゃあとりあえず素直に描いてみよう、ということでやってみるものの、自分で「おもしろい」と思えるものは出てこない。そこで筆者は、自分の「画歴」を辿り直していく。

幼少時、気づいた時には既に絵を描いていたから「最初の起点」は捉えられないとしつつも、考察は何度も、その見えない起点に立ち戻ろうとしている。「自己実現」や「承認欲求」とは異なる動機に支えられていたはずの起点。そこから始めねばならないという筆者の強い意思が感じられる。


評論文とは異なる、目の前の人に語りかけるような易しい語り口は、率直且つ丁寧。筆者の思考は、深い森の中の小径を一歩一歩辿るようにして進んでいく。立ち止まったり行きつ戻りつしたり、さっきと同じ交差点を通ったり、時々見晴らしの良い場所に出たり。

常に「それはどういうことなのだろう」と愚直なまでに問う、その探求の歩みは、極めて繊細で内在的だ。「描く」ことについて、子どものような素朴な問いを抱えつつ、さまざまな角度からより根源的なところに言葉で触れようとし続ける緊張感。


そうした考察の展開に従って、見開き左ページの端に筆者が模写した絵が次々現れる。この鉛筆画(たぶん)の線が、なんともいい味わい。

オリジナルは、子どもの頃の絵やマンガ、ショーヴェ洞窟の壁画をはじめ、円山応挙長沢芦雪高橋由一奥村土牛長新太片山健菅原道真丸木スマ、大道アヤなど、ジャンルの括りはない。大文字の美術史だけを見ていては出てこないラインナップ。赤瀬川原平横尾忠則水木しげるも重要な参照項として登場。

「画歴」辿り直しの間に挟まれるそれら固有名詞をめぐる想念によって、筆者の思い描く「絵画」なるものがうっすらと見えてくるようだ。


「定義づけ」できないものとなったアート、「自由に描く」ことすら様式化し、私たちは承認欲求だけを抱えて現在に至る‥‥との認識の中で、筆者は「忘我のための型」という概念に辿り着く。

 忘我の反対にあるのは自我や自己の意識です。これが世界を固定してしまっているのでしょう。だとしたら、これを外す必要があります。おそらく、型はそのためにこそ必要なのです。というより、人は何らかの型を通してこそ外からの力に感応することができる。降りて来るものを待つこともできる。ところが、自我や自己が主体化すると媒介の通路が塞がってしまいます。(p.162)

 現代の美術や絵画は、形式的には近代絵画を乗り越えたところにあるということになっているのだと思います。しかし、わたし(たち)はいったい近代絵画の何を乗り越えたのでしょうか。近代絵画に向き合ってきた人と比して、わたし(たち)にできていることとは何でしょう。何でもできるようになってなどいないんじゃないか。いやむしろ、以前はできていたことまでもできなくなっているだけなのではないのか。(p.168)


f:id:ohnosakiko:20170426165023j:image 

カバーを取ると植物の木炭画が現れる。



さて、「 III デザインを考えない」は、グラフィック社『デザインのひきだし』に連載された文章が元になっている。各回のタイトルが「〜デザインを考えない」。普通なら「〜デザインを考える」と言うところ。

これは、従来的なデザイン思考(もっと言えばデザイン業界思考)をやめてみよう、〜について直接考えてみようということだ。あとがきによれば「五年半におよぶ悩みの記述」とのことだが、さまざまなトピックを通して、その後に書かれた「絵画の入門」の姿勢が既に垣間見える。東京オリンピックのエンブレム問題についての指摘が鋭い。

デザインはモダニズムを体現するもので、モダニズムは今、グローバリズムローカリズムかという話になっているが、それは同じ流れの別の貌‥‥というあたりは、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』の中の状況整理とも響き合うところとして読んだ。この章も筆者による挿絵がついていて楽しい。


最後の「 IV 行為としての芸術について」は対談及び鼎談(小崎哲也、大友良英岸野雄一細馬宏通)。アート、デザイン、音楽から内容は多岐に渡ってとても面白い。そして、筆者がいかにして突然絵を描き出したのか、なぜ止められなくなっているのかが、対話の中でより具体的且つなまなましく浮かび上がってきている。


モダニズムの始まりから現在まで、デザインもアートも「前のものを乗り越えて新しいものを提示する」という宿命から逃れることはなかった。それは両者が、資本主義経済及び近代の理念と深く結び付いてきたからだ。そして21世紀に入り、そろそろどんづまり感があらわになってきたことは、本書で繰返し述べられている。

筆者が今「描く」ことを通して向き合っているのは、資本主義経済及び近代の理念の「外部」にある、身体、土俗、無意識といったものだろう。

つまり本書は単に内在的絵画論、デザイン論であるだけではない。「このどんづまりをグローバリズムかローカリズムかで右往左往せずにいかに生きていくか」という、非常にアクチュアルな命題に触れている。そのように読まれるべき本だと思う。


無くならない: アートとデザインの間

無くならない: アートとデザインの間



◆付記

私事だが、「絵を描く人々」という連載エッセイを、もう12回ほどWEBスナイパーという18禁サイトで書いている。

本書を読んでいて共感するところは多かったが、同時にその極めて内在的で当事者性の強い考察が、自分の言葉の届いていない部分にスッポリと嵌り込んだ感覚も覚えた。「描く」ことについて考察していても、私は「絵を描く人々」を観察する立場であって、今のところ描く立場(連載の挿絵は描いてるけど)にはいないからだろう。

アーティストをやめた時、私は素朴に絵を描く立場に立ち返らなかった。もともと画家ではなかった(立体インスタレーション系)こともあったが、アートに替わるものは自分にとっては言葉しかなかったからだった。でも一方で皮肉なことに、「書く人」になってから、身体、土俗、無意識といった本質的に言語化し得ないものを、自分を深いところで規定するものとして考えざるを得なくなったように思う。

2017-04-12

『ゲンロン0 観光客の哲学』感想tweetセルフまとめ

読了直後でかなり散漫な内容だがメモとして。

tweetをそのまま埋め込むと読みづらいので、文章のみコピペhttps://twitter.com/anatatachi_ohnoより)。

いろんな意味でおそろしい本だった。内容要約はしてないので、以下は未読の人には何がなんだかです。



ゲンロン0、第一部読了。哲学思想は興味あるところだけ気紛れに齧り歩いてきた自分のようなふまじめな読者にも、極めて親切設計で有り難い。< >についての注とか細かな気配りが。二層構造論が恐ろしくクリア。「こうである」と「こうありたい」が慎重に書き分けられている点もリーダブルだった。


「観光客」の可能性については正直まだよくわからない。政権の交替やテロの勃発で観光は簡単に影響を受けるし、「抵抗」として機能するのはやはり「哲学する観光客」に限られるような気も。ただ、ある限界を突破しようとする時、このくらい大胆な仮説を立てる必要があるのだろうと想像。


国境を越える観光客になるのが諸事情で今難しい自分は、「観光客」という概念を地理的なものから抽象的なものに読み替えてみたいと思った(諸ジャンルの「観光客」的観客とか)。また、観光客になれなくても、観光客に出会う側として考えられることもいろいろあるなと。「おもてなし」とはまた別に。


内容に賛同するかどうかはおいといて、これだけ射程距離の長いものを読むと脳が掻き回される。10年後、20年後(生きてたら)にもたぶん引っ張り出して読むと思う。


「希望」を語るのは難しいわ。「絶望」は簡単だけど。


ゲンロン0、第二部読了。5、6章とフロイト-ラカンがせり上がってきてワクワク。「犬」で一旦本を閉じて泣く。まさか東浩紀を読んで泣くとは思わなかった。「不能の父」に男性的(近代的)主体からの大幅転換を感じると同時に、このような形で諦観と希望を同時に出すことについて考えさせられる。


子どもを持たなかった自分だが、「家族」(疑似家族)という親密圏について、フェミニズムの家父長制議論を越えて再考すべき必要性を感じ講義で細々やってきた個人的経緯もあるので、この「序論」の先がどうなるのか気になる。とりあえず偶然出会う「不気味なもの」は明日初めて顔を合わせる学生だ。


疑似親子、特に親の役割については、以前『ねことオルガン』という童話の考察の中で書いた。ここに登場する「おじさん」は今思うとまさに「不能の父」。http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20130301/p1


男は「不能の父」でいいのだが(いいのか)、女はどうしたらいいかという問題がある。


たしかに20世紀のアートにしても、それを駆動させてきたのは父を殺そうとする息子たちの理論であり、美術史は父殺しの歴史だった。そういう意味でのアートは終わったとすると、そこで「親としても生きろ」とはどういうことになるのか。


「親としても生きろ」とは「世界は子どもたちが変えてくれる」と信じ希望をもてということ? でも亀山郁夫の見立てでは、子ども(カーチャ)は皇帝暗殺計画に失敗する。世界は変わらない。それでも次の子どもが? つまり子どもさえいれば希望は持ち続けられると? いやそんな単純な話のわけないな。


「不気味なもの」、子ども、未知なもの、偶然のものに最後の望みをかけざるを得ない、というところまで来ていると。これはヤバいわ。真実かもしれないだけに。


ゲンロン0、リベラリズムへの失望の深さを改めて感じる。この深さ(怒りに近い)を共有できないと読みにくいかも。「観光客」と「不能の父」はそれぞれグローバリズムナショナリズムに対応。それを通してポストモダニズムを徹底するしか道はないということのよう。絶望と希望が点滅している。


解説や整理の箇所は「なるほどなるほど。よくわかる〜」という感じでスイスイ読めるが、提案の部分は「そうかそうだよね〜納得」という具合にスルッとはいかないと思う。つまりそれくらい重大なことを言ってる気がする。根本的な考え方の転換を迫るようなところがある。うまく言えない。


いや、「重大」というのは違うかな。ええとそんなふうに考えてほんとに大丈夫なのか的な何か。

違和感を覚えるところもないではない。観光客が出てくるなら移民は?とか。子どもに丸投げし過ぎではないか?とか。少し時間をおいて読み直す。



ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学