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2017-08-05

「個性」のことなんか忘れたほうがいい‥‥連載「絵を描く人々」更新

絵を描く人々 第16回 個性と型 - WEBスナイパー*1


芸術において何より重要とされてきた「個性」について、私はずっと前から懐疑的だ。

「個性」と言われるものは今や、既存の様々な個性の組み合わせか、それぞれの「個別性」に過ぎないし、資本主義民主主義がタッグを組んでいるこの世界で私たちの位相は悲しいほど均一であり、そこに本質的な意味での「自由」などない。「個性」や「自由」に外部を夢見る力が託されていた時代は、20世紀で終わっている。


‥‥‥なんてことをだいぶ前に拙書他で書いたりしましたが、そこで念頭にあったのはアートの世界でした。

アーティストではない人々が趣味や楽しみで絵を描いたりする中で、「自分の個性って何だろう?」「もうちょっと個性的な絵にしたいな」と思うことは普通にあるし、別にあっていいと思うのです。

しかしながら、個性的であることを希求しても、個性的な絵が描けるわけではないのは当たり前のことです。

むしろ、個性のことなんか忘れてしまったほうがいいと思います。楽しく描けることのほうが大切です。個性なんて、ほんとにオマケみたいなもんです。


連載の挿絵にあまり個性のないデッサンを載せている私が、こんなことを言っても説得力がないかもしれません。

でも、もし絵が好きで「個性コンプレックス」の人や、お子さんの絵が「個性的じゃない」ことにちょっと不満な人がいたら、こういうふうに考えてみたらいいんじゃないか? 今回はそういう提案として読んで頂ければと思ってます。



● 関連記事

個性は獲得目標ですらない - Ohnoblog2

*118禁サイトなので、両サイドにエロ広告が出てきます。見たくない方は紙か何かで隠してお読み下さい。スマホ画面だと広告はかなり減ります。

2017-07-25

絵を描く老女‥‥「丸木スマ展」を観て

人は大人になってから、どんなきっかけで絵を描き始めるのだろうか。

子どもの頃からずっと描いていた人が、社会人になって多忙で休み、仕事から解放されてから再開するという話は時々聞く。見る方専門だった人が、ある時趣味の手習いで始めたというケースもあるだろう。

丸木スマは、息子で画家の丸木位里に勧められ、70歳を過ぎて絵筆を取った。1875年に広島県伴村(現・広島市阿佐南区)に生まれ、家業を手伝いながら結婚し四人の子どもを育て、原爆で夫を亡くした彼女は、絵を始めてから「死にとうなくなった」と語ったという。


丸木スマ展 おばあちゃん画家の夢(三岸節子記念美術館 7.1〜8.13)


「原爆の図丸木美術館」他から借り受けられた57点の作品は、数点の油彩を除き、水墨彩色とクレヨンを併用したもの。モチーフは、故郷の情景や自然の風景、身近にいる猫や鶏、犬、野鳥、魚、花、野菜など多彩。

一見すると素朴だが、モチーフが描かれた地となる背景を、大胆にもカラフルな色で塗り分けていたり(具象と抽象の融合?)、クレヨンの上から水彩や墨をかけて弾かせる手法にトライしていたり、あちこちに工夫が見られる。大きめの刷毛と細筆の使い分けが繊細だ。

柿の木を描いた『柿もぎ』という作品で、人の顔より柿の実の方が大きいのはなぜかと訊かれたスマは、実を描いたら人を描く隙間がなくなったのでそうなったと答えたという。つまりそれらは、最初に全体的な計画が立てられているのではなく、「これをこう描きたい」という気持ちにだけ忠実に描かれている。

その結果、絵は写実というより半分はファンタジーのような、童話の世界も思わせる。色彩の幅があり、濁色もたくさん使われているが、それがとても複雑で面白い効果を出している。


美大生などでこうしたアウトサイダーアートっぽい、ナイーブな感じの具象絵画を描く人が時々いるが、丸木スマの絵を観たらちょっと太刀打ちできないと思うのではないだろうか。

芸術的なものとは無縁に重ねられてきた70余年の人生の中で育まれた「目」と、もともと持っていた絵の才能が出会い、何かが化学反応を起こし希有な結果をもたらした。

誰でもこんなふうには描けない。でも描いてみたいと思わせる力を感じた。

今回初公開となる『ピカドン』他、ポスターや丸木俊(丸木位里の妻)の手による肖像画も展示されている。


f:id:ohnosakiko:20170715162155j:image チラシとカタログ

f:id:ohnosakiko:20170725101147j:image カタログより

f:id:ohnosakiko:20170715162516j:image 絵葉書買った(上『めし』、下『やさい』)

2017-07-21

「性愛用の女」との同居で「生活用の女」にされた妻はその見返りを得たのか?(ラブドールを家庭に持ち込んだ夫についての感想)

(※7/22追記あります)


ラブドールを恋人代わりにする男性のことを初めて知ったのは、10年くらい前にあった某ブログ。彼女との「愛の生活」を綴った日記が面白いということで、一部で人気だった。私も一時期読んでいた。最初に、これ「ピグマリオン」だなと思った。古代ローマ詩人オウィディウスの『変身物語』に登場する、キプロスの王ピグマリオン(ピュグマリオン)の物語だ。

生身の女性たちに失望したピグマリオンは、完璧な女性を求めて彫像作品を作った。その出来映えがあまりに見事だったので、彼はすっかり彫像の女性に恋をしてしまい、毎日のように語りかけ、贈り物をし、ベッドを共にし、ついに彼女は自分の愛に応えてくれたのではないかと思うようになった。その狂おしい思いと彫像の素晴らしさに打たれたヴィーナスが、褒美として彼女に命を授けてくれた。

SF小説未来のイヴ』から映画『空気人形』まで、さまざまな小説、映画などのベースとなっているこの物語はある意味、ヘテロ男性の究極の夢なのだろう。「<女>は男の症候である」というラカンの言葉を呟きたくなる。


ラブドールに真実の愛見つけた男たち、「僕にとっては人間」:AFPBB News


最近話題になった上の記事に取り上げられていた「尾崎さん」に集中していた批判は、既婚者がラブドールに嵌っていること自体より、あの記事の中の「尾崎さん」の言葉とそこから類推される背景に向けられていたと思う。

妊娠、出産した妻が育児に追われ、セックスレスになる夫婦はよくあるらしい。妻には疲労に加え、一時的に性欲が失われるという話も聞いたことがある。で、夫が風俗に通い出したり浮気をしたりというのもありがちなので、ラブドールもそのパターンになる。男が「生活用」(家事育児を任せる)と「性愛用」(あらゆる楽しみを共有する)に女を使い分けているということだ。


昔だと、夫と妾の関係を正妻が黙認している例がよくあった。それは普通、夫の経済力で妻には何不自由ない生活が保証され、夫は対外的にも家庭内でも妻を立てて成り立つものだった。現代でも夫の愛人の存在を黙認するのと引き換えに、経済的保証を得るということはありそうだ。

まして、一つ屋根の下で夫の愛人と暮らすのであれば、妻には相応の見返りがなければならないだろう。もし、何の見返りもなしに愛人の存在や妻妾同居に妻が耐えている状況があるとしたら、さまざまな要因から女の側に経済的な独立が難しく、男の側がそこにつけこめる構造があるからだ。


ラブドールとの同居状態を「尾崎さん」の妻が受け入れざるを得なかったのは、家を出ても行くところがない、子どもを抱えて経済的に自立できる見込みがないと判断したからかもしれない。そうだとすれば、夫もそれを充分知っていて、「生活用」と「性愛用」を同時に確保できる今の状況を享受してるということになる。*1

ラブドールは妾や愛人(人間)ではなくただの人形だからその喩えはおかしいという人もいるかもしれないが、「尾崎さん」にとってそれは「人間」であり愛情を注げる唯一の「女」なのだから、彼の妻が、自分は「生活用の女」としてハウスキーパーの役に押し込められ、夫婦の交流のすべては「性愛用の女」であるラブドールに独占されている、と感じたとしても不思議ではない。


では彼女は、夫からどれだけの見返りを受け取っているのだろうか?

「尾崎さん」は、セックスレス以外にも、仕事から帰ってきた自分の愚痴を黙って聞いてくれないなど、妻への不満があったことをほのめかしている。結局その問題を2人で話しあって解決するということができなかったわけだし、この点に関してはどっちが悪いというふうには、外部からは決めつけられない。

なのに「尾崎さん」は「性愛用」の女を無理矢理家庭に持ち込んでおいて、その見返りとなるものを妻に与えていないようだ。

せめて取材に対して「妻の理解のお陰でこういう生活ができています」と対外的に妻を立てておけばよいものを、自己正当化の言い訳に終始し、更には「最近の日本の女性は、ちょっと冷たい部分も増えてきている。心が汚いというのか、人に対して冷たい」などと女性全体への批判までしている。


古いことを言うようだが、女を使い分け、それを女に納得させたいなら、それなりの「甲斐性」ってものが必要なんだよ。それもないのに勝手なことして偉そうなこと言ってんじゃない。いざとなれば妻は妾を殺すこともできるんだからせいぜい気をつけろ。

私が「尾崎さん」という男性について思うことは以上だ。



(男女関係というものについて根本的にわかってないとか、こういう「見返り」を期待する考え方こそが愛を潰すとか、逆に「強制異性愛主義的男女二元論」に陥っているとか、妥協して暮らしている夫婦はいくらでもいるとか、いろいろ異論はあるだろうけど、あの記事から読み取れる範囲で言えば私は、鈍感で自己中な夫、父を持ってしまった家族が気の毒でならない)



●追記

疑問がチラホラ出ているようなので書きます。長いです。


○セックスレスの責任

子どもができてからセックスレスになったり、妻が夫を構わなくなったというそもそもの「原因」について、夫はすべて妻の側に問題があったように言っているが、実際のところどういう状況であったかはわからない。

妻が育児で疲れているのに構わず夫が求めて、妻が拒否するようになった可能性はある。その場合、妻は自ら夫の性愛の対象から降りたくはなかったのに、鈍感な夫のふるまいがそのように仕向けていたことになる。また、妻が自分の気持ち(今はセックスしたくない)を丁寧に夫に伝えて理解を得る、という手続きを怠った可能性もある。

従って、これに関しては「妻の責任」も「夫の責任」も問えない。つまり、妻が一方的に夫に精神的苦痛を与え話し合いにも応じなかったというような証拠がない限り、ラブドールを突然家に持ち込むという夫の振る舞いを「仕方のないこと」として擁護することは難しい。


○関係再構築の放棄

「妻はセックスしたくないのだから、夫に不満を溜め込まれているより楽になったはず」という見方もあると思うが、「セックスしたくない」という感情と、「親密さを育みさまざまな楽しみを分かち合いたい」という感情は両立する。妻にその感情が皆無だったら、ラブドールの家庭への持ち込みにほとんど抵抗してないはずである。


もし、セックスレスになったけれども別れるのを望まない場合、当面は「親密さを育みさまざまな楽しみを分かち合」うような方向に重点を置いて行った方がいいことになるし、実際そういう夫婦は多い。そうやって互いに努力していった結果、セックスレスもいつのまにか解消したというケースもある。

こういうことは、モノガミーを選択しつつセックスレスになったすべてのカップル(異性愛、同性愛を問わない)に言える。そしてたとえセックスレスが解消されなくても、良好な関係を続けている場合も結構あるのではないかと思う。


「尾崎さん」ちはそういうことにトライしたのかどうかわからないが、結果として夫は家にラブドールを持ち込み、寝室に留めているだけでなくその「性愛用の女」と一緒に外出もして「親密さを育み楽しみを分かち合」っている。「性愛用」の後に()書きで「あらゆる楽しみを共有する」と書いたのはそのためだ。妻とも同じようにしているとは思えない。

夫が離婚も別居もしないのは、食事の用意から掃除・洗濯その他の細々した家事の一切をすべて黙ってやってくれるメイド女が自分しかいないからだということは、妻は知っているだろう。それを自覚した時に彼女は、「生活用」(家事育児を任せる)だけに立場を固定されたと思っただろう、ということである。そして、何年にも渡る精神的苦痛を仕方なく諦めに変えていった状態らしいと、記事からは読み取れる。


○妻妾同居のケースを出した理由

妻の諦めの上に成り立っている理不尽な点が似ていると思ったからだ。「見返り」とは、こうした一方が忍従を強いらるような状態に対して、もう一方から差し出される何らかの対価を指す。

その中身が金であることも多かっただろうが、それで実際に埋め合わせがついていたかどうかはまた別の話である。私が問題にしたのは、対価を差し出すような態度をあの夫は取っていたのか?ということだから。


自分の特異な性生活をどうしても容認してもらいたい男と、容認に苦痛を感じる女。しかし双方別れる気はない。としたら男が、「これを認めてくれるなら、自分も、何か相手の望むこと(を相手がするのを)を受け入れる」と提案し、その約束を守るほかない。そういうことを古臭い言葉で「甲斐性」と書いたが、別に当たり前のことだ。

一緒に暮らしていればお互い気に入らないこと、迷惑をかけてしまうことは出てくるのだし、いついかなる時も対等・平等なんてあり得ないのだから、何かあればその都度互いに歩み寄りを見せることでしか関係は維持できない。これは夫婦だけでなく、やはりすべてのカップルに言えることだと思う(「一緒に暮らしていれば」を省けば、ほぼすべての人間関係に言える)。

そしてあの記事で見る限り、夫がそういうことを提案し、妻の了解を取り付けているようにはとても思えない。彼は見返り=対価を差し出すような態度を取っていなかったと見るのが自然だ。


○「妻の方が〜」の場合

BLやアイドルに嵌っている妻の言葉として聞いたことがあるのは、普段から夫に感謝の気持ちを伝えているとか、美味しい料理で夫を喜ばせるといったことだ。そういう配慮することで、上手くいってるケースはよくあるらしい。もちろん、夫の方が不満爆発寸前なケースもあるだろう。

結局、こうしたことは当事者がどう語っているか具体例を見ないと何とも言えない。夫の気持ちを無視して部屋中をアイドルグッズで埋めている妻が、こうなったのは自分を構ってくれない夫のせいだと不満を漏らしつつ、「日本の男は心が汚くて〜」などと取材で語っていれば、それはそれで批判すればいいと思う。


○結婚制度の内面化

付け加えれば、この妻の人が苦痛を諦めに変えてまで離婚せずにいるのは、どんなに内実が歪でも結婚制度内に留まっていた方がいいと考えているということであり、それは夫も同様だろう。その点では似た者夫婦のように思える。

夫が離婚しないであろう理由は先に書いた。自分にとっては、何かを我慢しなくていい快適な生活が維持できるからだ。

妻が離婚しないのは経済問題を除くと、離婚をしたら「ラブドールに負ける」と思っているからではないだろうか。つまり今の時点ではまだイーブンであると。諦めの中にそういう(傍から見たら理解し難いような)「妻の意地」があるとしたら、それこそが結婚制度の内面化というものかもしれない。

*1:その点、記事で二番目に紹介されている中島さんの、「家庭崩壊」の末に家を出たという状態はまだ健全に感じる。離婚には至ってないものの、妻が「生活用の女」の位置に押し込められてはいないからだ。

2017-07-19

ジェンダー平等社会のエロの位相、あるいは欲望と配慮の関係

男性向けポルノや少年誌のエロ表現関連の話題について、twitterでずっと呟いていましたが、今の時点での自分の考察(仮説)をざっとまとめました。昨日、連ツイしたものに大幅加筆しています。



女性への暴力的な性行為が快楽的に描かれるヘテロ男性向けポルノは、現代のポルノの中でも古典的にしてポピュラーなジャンルだと思われるが、そこにある性的支配のイメージは男女差別構造*1の反映、または還元だという言い方は、半分正しくて半分間違いだ。反映論だと現実に起こっている性意識の変化や流動性を無視することになり、還元論でも男女関係の一義的固定から先に進まない。

更に、エロマンガの昨今の潮流は、「女がすでにエロく、積極的に求められる」のを通り越し「女からの再三の催促に困った顔して渋々応じる」になっているという。*2  陵辱ものや強姦ものがある一方で、「男キャラの受け身化」がかなり前から進行し、最近はそれに拍車がかかっているらしい(BLの影響もあるのかもしれない)。

男性向けポルノにおける、暴力的男性キャラと受け身的男性キャラ。エロメディア批評ではとっくに論じられていることかもしれないが、この二極を前提として仮説的に考えてみた。


現在、女性の権利獲得や男女平等意識の浸透に伴って、セクハラをはじめとした性暴力(かつては暴力とされていなかったものもそこに含まれるようになった)への視線は厳しくなり、男性の従来的な位相は揺さぶられ続けている。男性にとっては、この事態にスムーズに対応し常に言動を自己検閲せねばならない抑圧感に加え、公私共に未だに能動性や積極性を期待され要求される場面が多いという矛盾感がある。

つまり、これまで様々な形で存在した性的支配が社会的に否定され排除されてきたからこそ、抑圧されたそれが、男性向けポルノの中でより過激かつファンタジックに再演されているのではないか。男性向けポルノにおけるある種の過剰さや多様さは、主にこの数十年の間に徐々に社会的な男女差別構造が崩れてきたことへの、防衛的な反応ではないか(ここで言う反応は直接的なものというより、さまざまな回路を経た影響として見出されるもの)。


それを受け手のレベルで見ると、まず現実では女性への配慮に心を砕き、強姦や陵辱もの(暴力的男性キャラ)で "現実では禁じられたこと" を楽しむというかたちになる。そこにあるのは端的に言えば去勢不安だ。この際、男性視聴者が犯される女性に感情移入することも普通にあるようだが、能動性を期待される男ジェンダーの軛から逃れたいという心理が影響しているのではないかと思う。*3

そしてもう一方の極では、現実ではやはり配慮しつつ、「女からの再三の催促に困った顔して渋々応じる」作品(受け身男性キャラ)で "現実ではありえないこと" を楽しむ。ここには現実世界の女性との関係構築の悩み、「女が何を欲しているのかよくわからない」「女への配慮的アプローチが難し過ぎる」という、男性視聴者の困惑が反映されているように思う。

今は後者の方が視聴者のリアルに訴えかけ、流行しているということは、これが、ジェンダー平等の進む社会で平等意識を内面化しつつも去勢の不安を抱える男性が描き得る最大のファンタジーだからではないか。


少年マンガ誌で描かれるラッキースケベも、「男キャラの受け身化」だと言える。

例えば下の記事は、この間twitterを中心に、口絵についての批判が出た週刊少年ジャンプに掲載の『ゆらぎ荘の幽奈さん』のストーリーが、かなりジェンダーに配慮したものであることを丁寧に解説している。ラッキースケベはその言葉に反して、主人公にとってラッキーな事態ではない。非合意なボディタッチをする悪役男子キャラは他にいると。

『ゆらぎ荘の幽奈さん』に見られるジェンダー的配慮 - 辰巳JUNKエリア ニワカを極めるブログ


内容をよく知る者には、問題となった口絵も物語の一コマ、せいぜいアクセントに過ぎないのかもしれない。しかしあのビジュアルには、配慮されたストーリーを逸脱するかようなエロ・インパクトがあったのも確かだ。

つまり、ストーリーと単体ビジュアルは乖離している(少なくともしっくり噛み合っていない)のではないかということだ。これは批判ではない。

PCに配慮したリベラルな「ゆらぎ荘〜」のストーリーは今、主に男性に求められている行動規範と重なるという意味で非常に「教育的」だ。一方、口絵は「教育的でない」という観点から、そこに置かれていることを批判された。

このマンガの二重性は、ジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノの関係をそっくり反復しているように見える。


つまり少年向けマンガのストーリーがリベラルであればあるほど、そこから排除された(非リベラルと見なされがちな)エロはビジュアルに宿るということになる。

これはマンガ表現において昔からあるPC配慮とマーケティングの兼ね合いであるという、実際面からの指摘*4は確かに説得的で頷けるものがあるが、ここでは欲望から読み解きたいと思う。

ストーリーを意識、ビジュアルを無意識に喩えてみよう。意識から抑圧、排除されたものは無意識に留まり、変形したかたちで現れる。ラッキースケベのシーンはその変形そのものだ。

更に言えば、少年誌においてエロという抑圧されがちなものをビジュアル化したい欲望が最初にあり、ジェンダー配慮的なストーリーはその欲望を隠蔽し、エロを無害化するための方便(だから教育的なものになる)として組み立てられているという見方もできる。これは芸術作品ではよくあることなので、マンガでもないとは言えない。

そもそも、ジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノを含めたエロ表現の歴史的位置関係は、後者が先、前者が後だ。それを「ゆらぎ荘〜」(ポルノではないが)に重ねれば、エロを描きたいという欲望が先にあり、ストーリーにおけるジェンダー配慮は後付けということにならないか。「宮崎駿の動機・欲望はメカと美少女」のように。


そのことを、読者はやはり無意識でキャッチするだろう。

主人公は女性蔑視的視点は持たず、他者を気遣いサポートできる優しい男子として描かれているようだが、彼を見舞うラッキースケベは、主人公に自己を仮託する少年読者の中では「困った状況だけどやっぱりラッキーだよね」というふうに感受されているのではないか。あのビジュアルは、多くの少年のあまり他人には言いたくないスケベ心を満足させるサービスの役目を果たしているはずだ。

では、もしPCに配慮されたストーリーとエロいビジュアルの乖離(に見えるもの)があえて作られているとして、それは大人から子どもに押し付けられる二重規範として批判されるべきだろうか? それとも、異性への配慮的対応とスケベ心の乖離に悩み始めた少年たちへのエールや心配りと捉えるべきだろうか?


私も問題の口絵だけ見た時、「少年誌でこれはちょっと‥‥」と感じた。その感覚は実はまだ消えていない。ただ、先に述べたジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノの捻れた関係が実際にあると仮定すると、「ゆらぎ荘〜」はその関係性をそのままきれいに反映するマンガということになるだろう。

少なくとも、エロ要素を作品に取り込む創作者なら、ストーリー=リベラル/ラッキースケベシーン=非リベラル(に見える可能性)の二重構造は、充分に自覚されているはずである。


だが、その表現が自覚的であろうとなかろうと、(エロ自体の否定ではなく)「教育的配慮」という観点から「影響」を懸念する声はなくならないだろう。そこでは、急速に抑圧された男性上位の性的支配の無意識的発露としての男性向けポルノの存在が、反映論や還元論によって捉えられているように見える。

それは先に「半分正しい」と書いた。女性への性暴力がなくならない以上、反映論や還元論はいつまでも批判や糾弾として出てくるだろう。

人権思想の一つである男女平等思想を更に浸透させないで、どうやって性暴力被害を減らしていくのか?という問いは正当である。性暴力が快楽的に見えるようなビジュアルを、男女平等思想を学ぶ途中の子どもに娯楽として享受させるのは果たして良いことなのか?という問いも真っ当である。

しかし娯楽の中にどこまで教育的配慮を求めるべきか、その線引きは難しい議論になると思われる。


社会的規範とそこで抑圧されるものの関係を、意識と無意識になぞらえることが許されるなら、ポルノはアートと同様、無意識が変形した「夢」だ。バランスが難しいところだが、抑圧は強過ぎても弱過ぎてもまずいのではないだろうか。

人権を尊びPCに配慮し男女平等を押し進める、というリベラルな動勢を止めることはできない。それが近代を徹底するということなのだから。

一方で、抑圧によって生まれる去勢不安の中、欲望は迷走し、配慮と期待に引き裂かれる現実の異性愛関係には困惑と疲労が蓄積する。これも避けられない。

ただこうしたことが逆説的に、ポルノだけでなくさまざまな物語やビジュアル領域に、多様で特異な表現をもたらすかもしれない。そこに顕現してくるだろう既存の性愛を超えた何かを見たいという気持ちが私にはある。



●付記

女性向けポルノを主に論じたものとしては、『欲望のコード - マンガに見るセクシュアリティの男女差』(掘あきこ、臨川書店、2009)や『女はポルノを読む - 女性の性欲とフェミニズム』(守如子、青弓社、2010)など、BL分析では『ボーイズ進化論 - ボーイズラブが社会を動かす』(溝口彰子太田出版、2015)という良書があるけど、男性向けポルノの批評ではどんなものを読めばいいんだろう。

エロの敵 - 今、アダルトメディアに起こりつつあること』(安田理央雨宮まみ翔泳社、2006)は読んだが11年も前のものだ。AV批評はいくつかあるようだが、エロマンガの最近の動向も押さえたものが読んでみたい。


●関連記事

「ミソジニー」といかに付き合うか(本記事はここでの考察を元にしている)

「お上よ、もっとエロを規制してくれ!」とエロメディアの作り手が言ってたりする

女をモノ扱いするのは男の仕様、あるいは男の性の脆弱性と所有欲について

*1:これを前「家父長制」という言葉に代表させて議論の混乱を招いたので、今後は避けるようにしたい。

*2https://twitter.com/m_pokesawa/status/887327360374132736

*3:もっとも、さまざまな性暴力被害に遭っている多くの女性からは、「フィクションにせよ被害者側に立って興奮するなんていい気なものだ。現実を知ってもそんな快楽を貪れるのか」と思われても仕方ないかもしれない。

*4https://twitter.com/ppponsu/status/887281285797892099

2017-07-14

『黒水仙』鑑賞メモ

連日むちゃくちゃお暑うございますね。Twitterで呟き過ぎてブログがお留守になるという典型的なパターンを辿っております大野です。

かなり前の呟きですが、メモとしてそのまま置いておきます。『黒水仙』(1947、イギリス映画)、なかなか面白かったです。



『黒水仙』をDVDで。小学5、6年の頃TVで観たきりで、なんだか断崖絶壁にある修道院で2人のシスターと男が三角関係になって‥‥という曖昧な記憶。例の鐘の下の揉み合いシーンだけは鮮烈だったので覚えているが、ほとんど初見と言っていい。キャサリン・バイロンが演じるシスター・ルースは、デボラ・カーが演じるシスター・クローダーの無意識だと思った。


インドの僻地で崇高な使命をまっとうしようとするクローダーが抑圧する、普通の女として生きたかったという欲望を、病んだ女ルースが体現している。クローダーは病んでないルース、ルースは病んだクローダーであり、両者は信仰と欲望に引き裂かれた一人の女の表と裏だ。


しかしクローダーはその欲望=もう一人の自分を自分から切断し、葬り去る。意図したわけではないが結果的にそうなる。「黒水仙」は現地の将軍の息子が振りまく香水の名であり、シスター達が捨てた世俗の象徴だが、「本来は白いものが黒い」というクローダーの自己分裂を表す言葉にも思える。


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優等生顔の鉄面皮デボラ・カーと、ダークサイドに堕ちたキャサリン・バイロン(美人なだけにこういう顔が怖い)


後半、キャサリン・バイロンの存在感、特に鋭利な目が凄い。デボラ・カーを喰っているほど。カメラは劇中何度も、さまざまなトラブルや緊急事態で修道院の廊下を駆け抜けるシスターの姿を捉えている。その白いベールと修道衣が激しく翻るさまが、信心と世俗的欲望の間での煩悶を思わせる。


インド・ヒマラヤ奥地でクローダーらイギリス人の修道女達は、「聖」において自分たちを凌駕する山の上の聖人(修行僧)と、「俗」において自分たちの生活をかき乱す人々(将軍の息子や少女)の間で、どちらでもない中途半端さを露呈し任務遂行不可能となり退却した。


そう捉えると、多少形式的だが、啓蒙者としての西欧が、アジアに敗北した図として見ることもできる。清濁呑み込むかのようなアジア的自然に、西欧的理念が太刀打ちできなかった物語。間接的には、植民地主義への自己批判


あ、そうだ。インド人の男の子を忘れていた。英語が喋れてシスターの代わりに先生役まで引き受ける、気の効く元気な少年。それと好対照なのがイギリス人で現地の仲介役のディーン。悪い人ではないが諦観を漂わせ露悪的なところがある。2人は、若く勉強熱心なインドと大人だが退廃的なイギリスの対比。



黒水仙 [Blu-ray]

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韓国映画でリメイクされてるようですが、そっちは未見です。

● 追記:リメイクではなく別の内容らしい。失礼しました。