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2016-12-03

連載エッセイ「絵を描く人々」更新されました。今回は「ヘタウマ」。

絵を描く人々 第8回 ヘタウマの功罪 - WEBスナイパー


「ヘタウマイラストは、サブカル周辺から出てきた。むしろサブカル=ヘタウマくらいの勢いだった。」(本文より)


ということで、振り返る70年代末〜80年代。美術を志してウマウマを目指す路線に乗ってしまっていたけど典型的なサブカル女子(!)でもあった自分には、いろいろムズムズするものがありました。

ヘタウマって、下手じゃないんですよね。もともと上手いんです。上手い人が下手っぽく描くというのは、それはもう、そこに抜きん出た個性があるから、それが面白いからです。面白くもなんともないヘタウマは、ただのヘタヘタです。

それにしてもあの勢いは何だったんだろう、ヘタウマといいサブカルといい。


時は移ってサブカル全盛時代が終わり、というかサブカルがメインカルチャーになり、そこではヘタウマよりはウマウマが流行ってみえる昨今。『君の名は。』も『この世界の片隅に』も、絵(特に背景)が凄いクオリティでしたよね。「どうしたら絵が上手く描けるようになるか」系の記事は、いつもブックマークを集めています。

プロアマ問わず、これだけ上手い絵があちこちにあると、「上手いに越したことはないだろうが、上手さだけで競ってもしょうがない」という極めて基本的なことを確認せざるを得ません。絵がある程度描ける人の背後に常にあるのは、「上手さを取ったら何が残るのか」という恐ろしい問題です。


(今回、挿絵のデッサンはダメダメです。出すのが恥ずかしいレベルです。出したけど。あと、そろそろ左手で描くのも飽きてきたので別の手を考えないと‥‥‥)

2016-11-30

女が愛するのは女––––連載映画レビュー更新

「親子でもなく姉妹でもなく」第11回目に取り上げるのは、2014年の日本映画『小さいおうち』(山田洋次監督)。以前にここで上げたレビュー記事に加筆し、まとめ直しました。戦前パートの時子とタキの関係性に絞って書いています。


女が本当に好きなのは男ではない? 女同士の淡い同性愛感情を描く『小さいおうち』の幸福 | サイゾーウーマン*1


小さいおうち [DVD]

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現代日本ではほぼなくなったと言ってもいい、奥様と女中の関係性。階級があった時代の権力関係ではあります。

また、劇中で老いたタキが言っているように、当時、都市の中間層以上のお宅に女中として奉公するのは、女学校などに行けない地方の貧しい少女にとっては、「いいとこ」にお嫁に行くための一つのステップアップだったりしました。

でも、私はなんとなく憧れます。身分も教養も自分よりずっと上の、美しく優しい女主人に仕えるという仕事に。そうです、この映画を見ていると、奥様の時子より女中のタキの立場のほうに、圧倒的に感情移入する(もちろん自分には勤まりそうにないが)。

タキはおそらくそこで、異性との関係性より同性との関係性のほうがずっと心地良く幸せに違いないと確信したのです。


しかしこの映画、前もちょっと書きましたがいろいろと不満なところはあり、キャストで言うと男優が今一つです。良かったのは橋爪功笹野高史くらい。妻夫木聡はなんか微妙にイラッとくる青年を演じていて、それが狙いならまぁ‥‥という感じ。吉岡秀隆片岡孝太郎は完全にミスキャスト、小林稔侍はヘタクソ、林家正蔵ラサール石井は、別にこの人でなくてもいいよね。

一方、女優は良いです。倍賞千恵子黒木華松たか子の好演は言うまでもなく、ちょっとがさつな夏川結衣、おっとりした吉行和子、ズケズケした室井滋、Sっぽい中嶋朋子、田舎者丸出しの松金よね子、皆、それぞれ役に嵌っていました。

「山田組」で撮られている『東京家族』や『家族はつらいよ』などの家族ものは正直苦手で、小津安二郎へのオマージュもいい加減やめてくれという感じですが、『小さいおうち』は原作がしっかりしていることもあり、監督の変な自意識が出てなくてわりと素直に見られます。


というわけで、イラストは松たか子と黒木華です。微笑んでいる顔って難しいですね。松たか子にちょっと松坂慶子が入ってしまいました。

テキストとともにお楽しみ下さい。


女が本当に好きなのは男ではない? 女同士の淡い同性愛感情を描く『小さいおうち』の幸福 | サイゾーウーマン


小さいおうち (文春文庫)

小さいおうち (文春文庫)

ちいさいおうち (岩波の子どもの本)

ちいさいおうち (岩波の子どもの本)

こっちの有名な絵本は、映画では最後のほうにチラッと出てくる。

*1:最初の「女」は当然「ヘテロ異性愛者)の女」です。こういう場合いちいち断らないとは思いますが一応。

2016-11-19

雨宮まみさんについてのとても個人的な覚え書き

急逝されたのをネット上で知ってから鉛の塊を呑み込んだような気分になっているこの数日、関連の記事のブックマークtwitterに断片的に書いていたことを、少しまとまった文章にしておきたいと思う。


1976年生まれの雨宮さんより私は一回り以上も上の世代で、ものを書き始めたのは40代後半と遅い。彼女のweb連載「弟よ!」を見つけて、「すごい文章を書く人だ。こういう方向性じゃ太刀打ちできないから、同じようなテーマでも自分は別の角度から書かないと」と思ったことを覚えている。

2006年に出た『エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』(安田理央、雨宮まみ/翔泳社)も、半分は彼女の名前で買った。私はAVを見ないけれども、女性がまとめるAVについての文章なら読んでみたいと思った。

その後に、はてなダイアリーで書かれているのを知り、ちょくちょく読むようになった。AVライターとしてあちこちで発言されていた雨宮さんの、ブログの長文が面白かった。彼女の記事を引いて書いたブログ記事は二つある。


「美人◯◯」と「女性◯◯」- Ohnoblog2

女の子がだっこされて言ったこと - Ohnoblog2


二番目の記事を書いた後、メールを頂いた。取り上げてくれて嬉しかったこと、このブログを読んでいること、いつかお会いする機会があれば‥‥ということが書かれてあって、私を知っていて下さったのに喜び、同時になんて礼儀正しい人だろうと思った。雨宮さんが『女子をこじらせて』で単著デビューする2年前のこと。


そしてある日、『女子をこじらせて』が編集者の方から送られてきた。献本リストを著者から編集者に送るのが通例なので、入れて下さったのは嬉しかったが、すぐには読めなかった。当時、ネットでも書く人が見られるようになった「女子の自意識もの」から、少し距離をおきたいという気分だった。まして雨宮まみなら、ちょっと覚悟しないと読めない。

しばらくしてから一気に読んだが、その自分語りの赤裸々さというか正直さと、文章の熱量の高さにあてられた。

「女」について考える女は、自分のことを厭と言うほど掘り下げたくなるものだとは思いつつ、これについて私などが言えることはない、むしろ一回り以上も年上の女が論評すべきものではないんじゃないか、「私も似たようなところを通り過ぎてきた」と共感して書くのも上から目線っぽいし‥‥という気がして、そのままになった。今更遅過ぎるけど、御礼くらい述べるのがマナーだったと思う。


それからの雨宮さんの活躍ぶりはここで改めて書くまでもなく、世代もリアリティも書き方も違う、どんどん輝きを増していく一人の女性を、遠くから見ている一人に私はなった。

新しいブログ「戦場のガールズ・ライフ」や、web連載「女の子よ銃を取れ」は、はてなダイアリーで時々書かれていたことの延長線上にある内容だったが、言葉に磨きがかかっていた。同時に、きちんとセルフイメージを作っていく感じがあった。

常に何かが溢れてこぼれているのを突っ切って走っていくような、テンションの高いエモーショナルな文章には、ちょっとついていけない感じも時々味わった。想定読者世代ではないということも、大きかったかもしれない。


そして、web連載「東京」に出会った。

一度でも東京に憧れたり上京して住んだことのある身には、とてつもなく突き刺さる内容だった。一編一編がどこか小説のようでもあり(村上龍の『トパーズ』を思わせる回も)、才能に嫉妬しながら、これはもう私一人でこっそり読みたいと思ったほどだ。私には逆立ちしても書けない、ドロドロとキラキラの希有な一体化。

『東京を生きる』というタイトルで書籍化されている。


東京を生きる

東京を生きる


雨宮まみより丁度10歳上に、酒井順子がいる。同じように「女」をめぐるたくさんのエッセイで著名だが、文章のタッチや受ける印象が全然違う。

それは、酒井順子が東京出身で、東京の文化を当たり前に浴びて育ってきたから、ということが大きいだろう。「鋭いなぁ」と感心しつつもクスッと笑って読める酒井順子の文章に漂っているのは、東京生まれ東京育ちの人特有の余裕(地方出身者にはわかるのです)。

雨宮まみはそのギャップを、ものすごいエネルギーで埋め、超えようとした。「東京の女」、いや「東京を生きる女」という「なりたい自分」に全力でなっていく。そのくらいの歳の頃、私がすっかり諦めたものを、この人は全然諦めてない。30代でこれを書き、自他ともに認める「東京を生きる女」になったら、40代は何を書くのだろうという興味が湧いた。


しかし多くの人が救われたという、読者の相談に答えるweb連載「穴の底でお待ちしています」は、実は1、2回しか読んでいない。

その文章のあらゆる意味での完璧さ、皆から「雨宮まみ」として期待される役割を期待以上にこなしていく律儀さに頭が下がると同時に、身が擦り減ってしまうだろうな‥‥と思った。どうやって精神のバランス取ってるの?と。


今年始まったweb連載「40歳がくる!」で、個人的に印象深かったのはこの回。

06 親が死ぬ - 40歳がくる!


お父さんとの軋轢が、私とほとんど同じだ。少し遠くに感じていた雨宮さんがふっと近くなり、「父殺し」という言葉で、「ああ、やっぱりそうなんだ」と思った。「父殺し」をしたかったという話を、私もとある共著本の中で書いたことがあったから。

しかし、苦しみながらもなんとか乗り越えてきた30代の終わりから40代の初めの頃の、もう呼び覚ましたくはないさまざまな感情を、人の文章の中でナマナマしく見るのはしんどい感じがして、この連載も飛び飛びにしか読んでいない。


一方、彼女が発信するファッションや物への愛情溢れる文章、写真は結構見ていた。わりと早い時期に何かの画像で「すごくオシャレな人だ」とわかり、最近はinstaglamも時々拝見していた。

40歳が近づくと、「こんな恰好していていいのかな」とか「若作りと思われないか」と悩む人は多い。雨宮さんも悩んだのかもしれないが、そこを振り切って、夢があってトンがった服を選んでいらして(ってネットで見ただけだけど)、それがまた似合っている。

積極的に露出をしているのだから当然かもしれないが、「これは憧れるし、目標にしたい若い人多いだろう」と思った。


ファッションでギリギリのところを果敢に攻めていく感じは、文章と似ている。

感情の襞に分け入り突き詰めていくような文章を書く中で確実に消耗するものはあって、どこかで癒しを得たりエネルギー補給しなければならない。そのやり方はそれぞれだが、この人はテンションを緩めるのではなく、刺激の強さを別の刺激で相殺してバランスを取る感じなのだろうか、たとえばこの消費社会で飽くなきナルシシズムと物欲を積極的に肯定し、その中に飛び込んでいく姿を私たちに見せてくれることそれ自体も己のエネルギーとしているのか、と思ったことはある。

私と同世代の作家、中村うさぎはそういう生き方をし、そのすべてをネタにし書くモチベーションに転換していた。でもああいうふうには雨宮さんはならないだろうとも思った。だってそれは、確実に自分の身を切り刻むからだ。

それに、露悪的、自虐的にすら見える中村うさぎの生き方は、雨宮さんの美意識には全然マッチしないような気がする。


雨宮まみさんの本を3冊作った編集者の方の文章の追記に、「着ること」について書いてもらえばよかったとある。

【ポットの日誌番外編】雨宮まみさんのこと 文・小嶋優子|ポット出版

この文章は、立場は違うが上の世代の女の目線としていろいろと共感できた。

「雨宮まみみたいに書きたい」と熱望し、トライする若い女性ライター予備軍は多いのではないだろうか。でも彼女はおそらく、「サブカル系女子」以降の世代で自らの自意識を掘り下げていくタイプの女性の書き手の、最後の人だと思う。



まとまらないが最後に。

最近はたまにしか更新がなかったが、「amazonでなにが買えますか?」は、密かに楽しんでいた連載だった。雨宮さんの中の冒険心と常識とのバランスが、自然に伝わってくる。

そこで今年の3月、フラットシューズがおすすめされていた。

お手頃できちんと感のあるフラットシューズ - amazonでなにが買えますか?


私はフラットシューズが好きで、ちょうど持っていたのが買い替えの時期だったこともあり、試しにブルーを買ってみた。デザインが落ち着いた感じでいい。

軽くて履きやすかったので、次いでブラックも買った。この二足は今年の春夏、大活躍した。安いから一夏でダメになるかと思っていたが、そうでもない(毎日通勤する人間じゃないからか)。ちょっと伸びてヘタっているがもう少し履こう。

雨宮まみさんにお会いできなかったのはやはり縁がなかったのだと思うけど、webでおすすめされてたあの靴、大野は買って愛用してますよ。


f:id:ohnosakiko:20161119132019j:image



●追記

先ほど追悼しない - 能町みね子のふつうにっきを読んでいたら、葬儀の場面で以下の記述があった。

病気で亡くなったならともかく、こんな、ゴムを伸ばしまくってたら突然バチンと切れたような死に方について何をお利口に悲しんでるんだ、ゴムを限界まで伸ばすという危ない行為を続けながら大丈夫だと言い張っていた本人に怒りはないのか。

近くにいた人の目に彼女は、やはりそういう感じに映っていたのかと。自分のであれ他人のであれ、デリケートな感情に向き合い続けて書くという仕事をあれだけこなし、しかもその間もあちこちに行ったり素敵な画像を次々上げちゃったりしてどんだけタフなんだと思っていた。

いや人生に、そういうめちゃくちゃなパワーが湧いてきてわくわくするようなことに挑戦できて毎日が充実していて寝るのも惜しいような時期はあるけれど、長くは続かない。まだまだいける、と思っていてふっと切れたりする。大抵はそういう予感があって「あ、ヤバい」と引き返すけど、その先にあるものに強烈に魅入られていると進んでいってしまう。

こういう言い方は語弊があるかもしれないが、一種の過労死だったのかもしれないと思った。

そして、そこまでテンションを上げて疾走することでキラキラした何かを生み出すのと、少しテンションを下げて力を蓄えながら進むのとどちらが良かったか、良いものを生み出せたかということは、誰にも判断できないのだ。

2016-11-13

「嫌悪感の表明」と「相互理解」の間

最近話題になっていた、セクシュアルマイノリティへの施策をめぐる千葉市長の一連のTweet(わかりやすくするため番号を振った)

1

2

3

4

5

6



昨夜は5のtweetにはてなブックマークがたくさんついていて、私も最初にそれを読んだ。現状認識はほぼ同意だが、最後の一文がセクシュアルマイノリティに向かって「嫌悪感の表明」をしても良いと言っているように受け取れたので、最初かなり批判的なブコメをつけた。

しかし、後でその前のtweetを読み、セクマイへの偏見や差別を払拭できない人々に対しどう説得的に対応するかで苦慮している風だったり、「行き過ぎたポリコレ」への不満を抱く人々の感情にも寄り添わねばと配慮している感じなど、あちこちに気を使ったあまり説明不足の表現になったみたいだと思い、少し穏健なブコメに書き換えた。6のtweetを読んだのは今朝。さすがに対応が早い(けど、両立しないことを両立させているように見えるので違和感は残る)。


3のtweetも、『セクマイの人々に対して「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」というのは、多くの異性愛者にとってはごく普通のことで、それ自体は責められるべきことではない。セクマイの権利を守る施策に反対する人は、まずそういう感覚、感情が自分の中にあると認めよう。そこを無視して、「同性同士の結婚は子どもが作れないからダメ」「少子化を促進する」「家族の形が壊れてしまう」といった非論理的な批判をしても議論にならない』という意味だろう。

要は、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」という指摘だ(それを柔らかめに、該当者の感情を慮りながら言っている)。*1


大体その通りだと思うが、一方で私は別のことも感じた。

もしセクマイの権利を守る施策に反対する人々が、自分の中の嫌悪感を自覚していて、その上で、というかだからこそ「嫌悪感の表明」をするのはマズいと思っていたらどうだろう。

(「気持ちが整理できない」はまだしも)「生理的にダメ」などと言っては直接セクマイの人々を逆撫でするだろうし、議論の俎上にも上げてもらえない。だからそこは隠して理屈で反対しよう、という”配慮”が彼らの中にあったとしたら? そういう人はいると思う。

そこに、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」と冷静なツッコミを入れ、そのなけなしの”配慮”もなかったことにして「感情に素直に」に一気に行っちゃうというのは‥‥どうなんだろうか?というのが少しある。


人の感覚や感情は、理屈では制御できない。だが一方で人は社会的な動物である以上、建前というものを作る。表に出しづらい本音を建前で包んでコミュニケーションすることで、互いに不要にぶつかり合って疲弊しないように配慮する。

どうしても「嫌だ」ということを言いたい場合は、その感情が必然であり一定の人々が精神的損害を被るばかりではなく、社会的に悪影響を及ぼす可能性があることなど、きちんと理屈をつけて正当性を主張する。その理屈でより多くの人を、「なるほど確かにそうだ」「そうしたほうが社会的に利があるな」と思わせたほうが勝ち。

もっともすぐさま、「それだとこっちの立場はどうなる?」という文句や批判が来て議論が振り出しに‥‥という可能性はあるが、一応かたちとしては理屈で勝負ということになっている。その手続きを全部すっとばして、「とにかくお前らが気に入らないだけだ」と言ってしまったら終わりだ。あのトランプだって、傍から見れば「それ、個人的に気にいらないだけじゃないか?」と思えることにも、一応理屈はつけている。社会を作り変えていく政治、政策を前提にして考えれば、そう振る舞うしかない。


そこからすると、「下手な建前(理屈)は崩れてるんだから、本音(感情)出せば?」は真逆である。

もちろん千葉市長が、人々の嫌悪感情を頭ごなしに否定しない(それだと逆効果)という作戦を取っているのはわかる。が、普通なら、「人間は感情でできているが社会は理屈で作らねばならないので、セクマイの権利を守る施策に反対する人々は、単なる嫌悪感情ではなく、問題点について説得的な論理を展開してみせてほしい。政策はあくまで理屈で議論しよう」と言うところだ。

ヘイトスピーチをやんわり封じた上で、理屈勝負に持っていって勝つ。それを辛抱強く繰返して、徐々にコンセンサスを得ていく。


問題は、そういう「普通の正統派の言い方」ではもう先に進めない、感情的に反発する人々を包摂できない、むしろ「普通の正統派の言い方」をすればするほど壁に頭を打ちつける、だけでなく、事態を良くないほうに引っ張っていくことになりかねない‥‥ということなのだろう。

かといって、思い切った言い方をすれば、「逆張り」だとか「ガス抜き」だとか誹られる。いろいろ気を遣いどうとでも取れる言い方をすれば、いらん支持やいらん反発が来てしまう。

すべての言葉が何らかの政治に触れてしまう中で、いったいどういう言い方をすればいいのか。どうやったら、あっちとこっちを架け橋し「相互理解」を実現できるのか。‥‥って書いただけで、もはや使い古された「普通の正統派の言い方」感が漂ってくる。誰でもジジェクみたいに語れるわけではないし。

こういう危機感とそれに伴ううっすらとした絶望感は、為政者のみならず、何かものを言わねばと思っている人々の中に広く潜在しているのではないかと思う。

*1:付け加えれば、こうした「嫌悪感」を一律に理屈で教化することは無理であり、個人が出会い個人として知り合う中でしか解消されていかない面はある。映画『メゾン・ド・ヒミコ』はそのあたりの、マジョリティの感情の揺れ動きや変化をよく描いている。講義で使っているが、このような物語を通して、固定的イメージが変化し偏見が和らぎ感情に影響を及ぼす可能性はあると思っている。

2016-11-05

ついに自画像を描いてしまった‥‥/連載エッセイ更新のお知らせ

WEBスナイパー18禁サイト)に連載中の「絵を描く人々」第7回です。これまでの関連ブログ記事を再構成して組み込み、大幅に加筆しています。


絵を描く人々 第7回 自画像と似顔絵をめぐって - WEBスナイパー


子どもの頃から、人の顔を描くのが大好きでした。マンガ風に描くのも好きだし、デッサンのように描くのも好き。とにかく人の顔は面白い。しかしそれが自分の顔となると、単純に面白いとばかりは言っていられません。

普通の人は自画像を描くとしても、小、中学校の図工か美術の時間に一回あるかないかで終わりですが、美術系となると度々描く機会があります。鏡さえあれば描けるので、モチーフ準備したりモデル頼んだり描くもの探して外に行くこともない。自画像は画学生にとって、もっともポピュラーな修練の一つ。自分の顔にコンプレックスが一杯の思春期に、それを冷徹に見つめ、冷徹に描写する、というだけでメンタル鍛えられます。


大学を卒業して以降、実は一枚も自画像を描いたことがありません。私は画家ではなかったし、粘土で自刻像を作ったのも高校の時。目鼻立ちのぼんやりした、平面的で地味な自分の顔が嫌いでした。どうせブスならもっと迫力ある個性的なブスに生まれれば、メイクのしがいもあったかもしれないのにと、若い頃は思っていました。

でも今回このテーマで、挿絵のデッサンを誰かの似顔絵にするのはやっぱり”逃げ”だろうということで、数十年ぶりの自画像です。

最初に描いた左手の方、これまで30分でギブアップしていたところを40分粘りました。全然似てこないので、さすがにこんなんでは出せないなと思い。まだ今いち似てません。

右手の方は、目鼻のバランスが若干縦長になったきらいはありますが、編集者曰く「大野さんそのもの」だそうです。57歳のすっぴんでございます。どうぞご笑覧下さい。


真剣な時、自分はこういう顔をしてるのかと気づけたことが面白かったです。元来描写型なので、「何なのこの皺、何なのこの弛み」と思っても、描いているうちに「もっとリアルにしたい」という気持ちが勝ってしまうんですね。

‥‥しかしライティング、斜め上じゃなくて斜め下からにすれば良かった。顔の影が少しは誤摩化せたはずだ。って、せこいわ(ちなみに最後に掲載されている写真は三年前のもの。いつまで使ったら許されるか考え中)。