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2016-05-23

「村」に関わって弾かれた話

(※「はてな村」のことではありません)


ある展覧会で自分の展示状況に明らかな問題があったので、搬入を請け負った世話役の人に聞いたら、「問題はわかってたけど、みんなに気を使って言えなかった」と言われて驚いたという出来事のその後について。

私からの抗議と先日の記事が「みんな」に知らされたようで、その一人から、

「なぜ展示画像を送らせて改めて指示しなかったのかと、誰でも思うと思う」(この問題はあなたにも非がある)

「あれは自分にとってはプライベートな作品展。生存確認的なもの。みんなもそう思っているはず」(だからいちいち細かいことを言うな)*1

というメールが来た。つまり、私の怒りは不当という遠回しの非難だ。


先日書いたので繰返さないが、こういう展示のケースで、あそこまで”意外”なことをされ、それを放置されるかもしれないと想像するのは、難しい。

信用を裏切られたかたちになったから抗議し、誰かが「この作品の展示は本来はこうではなかった。コレがアレしてこうなってしまった」とアナウンスしてくれるわけではないので自分でしているのを、なぜ咎められるのかさっぱりわからなかったが、考えていてああそうかと思った。

そこは「村」だったのだ。


「村」では誰かの責任を問うと、必ず「みんな」が持ち出される。個人の意向は「みんな」の空気に簡単に覆される。

そして「村」では、何よりも”和”が尊ばれる。疑義を提出したり異論を唱えたり人の間違いを問いただしたりして、その”和”を乱す者は困り者。そこで、こういう物言いがよくされる。

「あなたにも問題がある。みんなもそう思っているはず」

「これはこういうものなのだ。みんなもそう思っているはず」


「みんな」はどうか知らないが、自分はこう思っていると言えばいいところを、勝手に「みんな」の代表となって、一人に圧をかける言表

「そんなふうに考えるのはあなた一人だけ。だから、あなたがおかしい」という、「みんな」を頼んだ論理。

こうしたものがまかり通っていくようになると、場は見えないところから澱み、腐敗していく。でも、そこに留まっている人は何も感じない。自分=「みんな」だから。



改めて言うまでもないが、美術に関わる人はさまざまであり、関わり方も多様だ。だが今回の場合はそういう「美術村」ではなく、どちらかというと「女子村」だった。思えば私の一番苦手とするところだった。

うっかりそういう「村」に素で関わってしまったのだなぁと、今更ながらに反省した。*2


翻って、私も彼女たちから見れば、別の「村」の住人なのかもしれない。一体何にそんなに細かく拘っているのかわからない、別の「村」特有の論理で生きているように見えるのかもしれない。

それはどんな「村」なのだろう。いつも、自分の依って立つ場所の輪郭はよく見えないのだ。

*1:「プライベート」で「生存確認」が目的なら、わざわざ街のギャラリーを借りて行う必要はないのでは。誰かの家かアトリエでやればいい。DMを刷りギャラリーで発表している以上、不特定多数に開いている「公」な面を持つのは必定。「集まって楽しむことが大事なので、それ以外のことにそんなに神経質になる必要はない」と思っているなら、展覧会というものに対して根本的に感覚や考えが違うので対話は無理だと思う。‥‥という内容の返事を書いたら、即座に「これは全く理解し合えない事」だという返答が来た。

*2:「みんな」がキャッキャウフフと楽しんでいる場に途中から入ってきて、「遠慮のない指摘を」という言葉を真に受け、「みんな」が気に留めていない問題点をあれこれ挙げてその原因を探ろうとするような女は、場をしらけさせるので嫌われる。

2016-05-20

愛知県立旭丘高校美術科25期生作品展「にこてん」第三回の展示について

超ローカルな話です。

先週、名古屋・栄のギャラリー聚で開催された「にこてん」に出品しましたが、まったく不本意なかたちになってしまったので、ご覧になった方に向けてここで「訂正」をしておきたいと思います。



旭丘高校美術科の同級生有志によるこの展覧会は、2012年以降1年おきに行われている。

それより前に美術作家を廃業している私は過去の2回は不参加だったが、今回は自筆イラスト付きの本を上梓した後で、代表として名前を出し全体の世話役的な立場の人(Aさんとする)に出品を強く勧誘され、イラスト原画のうち3点を展示し、拙書も少し置かせてもらうことにした。


搬入日はどうしても外せない用があったので、前もってAさんに作品を託した。美大のデザイン科を出ている人で、当然信頼していた。

会期中は仕事もあってなかなか行けず、会期終わり頃のプチパーティ(オープニングパーティの代わり)に行き、入り口近くの自分の展示を見て愕然とした。


1.「三点を並列展示で」とお願いしてあったのに、階段状に斜めにずらして展示されている(見るからにダサい)。

2. 右隣のBさんの染色作品との間隔が異様に狭く、作品空間が重なってみえる(にもかかわらず、その向こう隣に展示してあるAさんとBさんの間隔は、普通に余裕がある。すごいアンバランス)。

3. 拙書の価格表示、わざわざ足を運んで下さる人のために税抜き価格にしたのに、税込み価格になっている。


観客もおり、価格表示(たまたま購入した人が会場にいたので返金できた)以外はその場で修正することもできず、パーティの間はひたすら苛立ちを押さえ込み、翌日Aさんにどういうことなのか聞いた。以下その回答。

1.「みんながその方がいいって言ったから」

2.「気になってたけど一人じゃ直せないし、みんなも早く帰りたいだろうと思って言えなかった」

3.「メールを確認し忘れた」。


ある人の作品展示の責任を負った上で、その展示がちょっとまずい状態になってしまったとわかっていながら、修正を皆で協力してやろうと呼びかけるのに躊躇する‥‥というのは、私の理解を超えていた。

その後のメールでの長い言い訳と、自分の立場についての泣き言に満ちた謝罪の言葉からわかったのは、結局、「一人の展示の問題解決やその人の意向より、”みんな”の気分を忖度し”みんな”に嫌な顔をされないだろう(と自分が思う)方をAさんが選んだ」ということだった。

*1

他の誰一人として「ここだけ窮屈でみっともないから直そうよ」と言わなかったのか?というのも、不思議ではある。美大に行った人も多く、展示慣れしてそうな人も参加していた。

もっとも、それぞれの展示に手一杯で、搬入日に全体の完成状態を見た人は少なかったのかもしれない。会期中も全員が来ていたわけではないので、”みんな”のせいにするつもりはない。搬入後のAさんに、念を入れて確認をしなかった私にも瑕疵があったのかもしれない。

だがあの状態を多くの観客に見られ、この人はこの展示で良しとしたのだなと見なされたと思うと屈辱的であり、この一週間近く、落胆と怒りと人を信じた後悔に苛まれた。



そういうわけで、もし先週の名古屋・栄のギャラリー聚で開催された旭丘高校美術科25期生作品展「にこてん」に脚を運んで下さった方がいましたら、入り口近くにあった3点のイラスト原画の展示状態、あれは決して大野の本意ではありません。遅ればせながらここに明記しておきます(書籍公式Twitterでもほぼ同じ内容の連続tweetをしています)。


●関連記事

「村」に関わって弾かれた話

*1:搬入時に時間がとれなかったとしても、会期中人のいない時を見計らって直すこともできる。全体を移動しなくても、Bさんの作品を5センチAさんの方に寄せるだけでも、バランス的にいくらかましになる。それすらしなかったというのは驚きだ。そもそも壁面展示の場合、最初に作品を壁に立てかけて全体の並びを見て、作品間の空きのバランスがとれているかどうか確認し、偏りがあれば調整してから展示する。その一番最初の段階で既に、私とBさんの間隔だけ詰めて置いていなければ、あんな展示にはならない。そう考えていくと、つまりあれは、最初から「そういう展示計画だった」としか思えないのだけど?とAさんに尋ねたが、明確な返事をもらえなかった。結局、展覧会は口実というかお飾りみたいなもので、昔の仲間と集まりたいだけ、「私たち美術科は今でも仲が良く、こうして集まって展覧会もやってます」と対外的に言いたいだけなんじゃ?だから展示も杜撰で無神経なことができるのでは?と勘ぐりたくなった。個人の意思を尊重しない”なぁなぁ”の場には今後二度と関わらない。

2016-05-13

吾輩は侍猫である

ドラマや映画の『猫侍』のことではありません。「侍猫」です。

今朝、真にサムライと言うべき猫を目撃したので、その話。


愛犬を散歩させていると、時々猫に出会う。犬は猫に興味津々だが、大抵逃げられる(イラストで描くとこんな感じ)。

今朝もあるお宅の前を通りかかると、犬が急に立ち止まった。広々した庭の芝生の上に、赤い首輪をした小柄なキジトラが一匹、香箱座りでのんびりと朝日を浴びていた。

「あら、かわいい猫ちゃんだ」。私は猫アレルギーなのだが、猫を見るとついしゃがみこんで「ニャーニャ、おいで〜」などとキモい呼びかけをしてしまう。犬は猫に近寄りたくてたまらない様子で、リードを引っぱりフガフガ言っている。


キジトラ猫は首を回してしばしこちらを眺めていたが、私たちが去る気配がないので、やがておもむろに立ち上がった。視線をこちらに向けたまま、ゆっくりと庭の生け垣の前に移動。そして体を生け垣にぴったりとつけて正面に向き直り、7メートルくらいの距離からこちらを窺っている。

「あんまり見てると猫、怖がって逃げちゃうから隠れよう」。私は犬を引っ張って門扉の陰に隠れた。

少しして覗いてみると、同じポーズのままさっきより猫の位置が近くなっている。おや、珍しく犬に親和的な猫か。また少し隠れてから覗くと、さらに近くに。「だるまさんが転んだ」状態。


だがそこまで来て、猫の背中の毛が逆立ち、「フウゥーッ」と低いうなり声を発しているのに気付いた。ただならぬ殺気が伝わってきた。そして突然、それが猫ではなく、刀を下方に構えて摺り足で向かってくる侍に見えた。

侍の目に、人間は映っていない。怒りに燃えた両眼が捉えているのは、犬のみ。

「タロ、逃げろ」とリードを引っ張ったが、鈍感な犬は侍の威嚇に気付かない。シッポを振り、「キャフン」などと甘えた声を出して近づこうとした。

瞬間、侍が刀を振り上げ、「シャーッ」と恐ろしい声と共に宙に舞った。うわっ。私と犬は5、6歩逃げた。侍はヒラリと音もなく着地すると刀の切っ先をピタリと犬に向けたまま、ジリッジリッとまた距離を詰めてくる。自分の体の何倍もある相手を前に、まったく動じる気配なし。


私どもが悪うございました。お怒り、お収め下さいませ。ここのところはどうか穏便に‥‥。すっかりびびった私たちは、後じさりで遠ざかりそそくさと散歩に戻った。

四つ角のところでなんとなく「圧」を感じて振り向くと、後方2.5メートルくらいのところにまだ刀を構えた侍がいて、こちらをひたと睨みつけているではないか。こいつら油断がならんと追跡してきたのだ。その距離20数メートル。全身から消えやらぬ怒りが立ち上っている。

「すげーな、こいつ‥‥」。私は思わず呟いた。なんという、勇ましくもあっぱれな侍猫であることよ。これに匹敵するのは、「ナルニア国ものがたり」に登場する鼠のリーピチープくらいだろう。


2.5メートルの距離をおいたまま立ち止まって、その勇姿に見とれていると、どこからかカラスが一羽飛んできて、すぐ近くの道路標識に止まり我々を見下ろした。侍は2分の1秒ほどカラスに気をとられたが、すぐさま犬に視線を戻した。

朝の爽やかな風が渡る田んぼの中の四つ辻。犬の散歩途中の人と、どこかの猫と、カラスがいるのどかな風景。

だが実際は、四つ足の侍、侍に追い払われたバカ犬、犬にも猫にも媚びたいバカ人間、高みの見物のカラス、という図。


角を曲がってしばらく歩き、次の角でもう一度振り返った。はるか彼方、小豆大ほどになった侍が、まだ四つ辻に佇んでいた。「二度と吾輩の陣地に立ち入るな」とその小さな姿が言っていた。

私たちが角を曲がると、ようやく踵を返し、悠々と自宅に戻っていくのが見えた。


f:id:ohnosakiko:20160513121057j:image:w240歌川芳員 猫の狂言尽くし(「いつだって猫展」図録より)

中段右端の奴みたいなのがいきなり脇差し抜いてどこまでも迫ってくるのです。こわいよ。

2016-05-07

新連載「絵を描く人々」のお知らせ

連載エッセイ「絵を描く人々」が、WEBスナイパー(18禁サイト)*1で始まりました。


絵を描く人々 第一回 人は物心つく前に描き始める


最初に描いた絵を覚えてますか? 好きなものを好きなように描いて楽しかった子ども時代、だんだん描くのが苦手になった思春期もあれば、どんどん描くことに没頭していった思春期もあり‥‥。

「自由に描く」とはどういうことか? 描きたい欲求とエロとの関係は? ちっともデッサンが取れないのはなぜ? 美大受験に石膏デッサンがあるのは? 一生懸命見ているのになぜ描けないの? ただ上手いだけじゃダメだよね? 絵が描けると何かいいことあるの? 


‥‥‥などなど、幼稚園児から美大予備校生や専門学校生、一般の人々まで、幅広い年代の「絵を描く人々」を見てきた体験から、「絵を描くってどういうことだろう」について、さまざまなエピソードを織り交ぜながらじっくり考えていきます。

月一の更新。更新の告知はここと書籍公式twitterでしていきます。どうぞよろしくお願い致します。


【全12回の目次】(予定)

1. 人は物心つく前に描き始める

2. 「カワイイ」と「カッコイイ」、そしてエロ

3. 絵が苦手になる子ども

4. 美大受験狂想曲

5. 人体デッサンのハードル

6. 演出と詐術の世界へようこそ

7. 自画像と似顔絵をめぐって

8. ヘタうま流行りの功罪

9. 絵が描けるといい仕事

10 . 描くことの光と闇

11 . 絵を描くおばあさん

12 . 再び描こうと思った時

   

毎回掲載するイラストは、私のデッサンです。と言っても、同じモチーフを一つは右手、一つは左手で描いたもの(画像をクリックすると拡大します。調整が難しく、原画より若干トーンの幅が狭くなってますが)。

右手はともかくとして、左手が‥‥‥。あまり人に見せられるシロモノではありませんが、恥を忍んで出す理由は「描けないってこういうことなんだ」という実例紹介のため。「利き手でそこそこ描ける人も、反対の手だとこんなもんか」とご笑覧下さい。

*1:パソコンで開くとSM系の画像がサイドに並んでいますので苦手な人は閲覧注意。スマホで見ると画像は最初のほうに一つだけになります。連載はSMとは関係ありません。

2016-05-01

「親子でもなく姉妹でもなく」第四回のお知らせ

サイゾーウーマンに連載中の映画レビュー、第四回は『祇園囃子』(溝口健二監督、1953)。


祇園の芸者×舞妓志願の若い娘――『祇園囃子』に見る、「男の世界」に独りで生きる女の見栄


「男の世界」に寄生するかたちで成立している、「女の世界」花柳界での残酷物語

プライドは高いが若干脇の甘い年増芸妓の美代春(木暮実千代)と新米舞妓の栄子(若尾文子)の関係を中心に、海千山千のお茶屋の女将お君(浪花千枝子)についても、以前ブログに書いたテキストに肉付けして考察しています。


溝口健二の芸妓ものというと、この作品よりかなり前に撮られた『祇園の姉妹』(1936)が有名ですね。初めて見た時はエッジの立ったリアリズムに驚きました。山田五十鈴の、シミーズ姿で歯を磨く場面が頭に焼き付いています。

貧乏性で男に尽くすタイプの姉に対し、居直って男を徹底的に利用し尽くそうとする妹。彼女の価値観と血を吐くような叫びの背景にあるものを、つくづく考えさせられます。


『祇園囃子』のヒロインの木暮実千代は、男に尽くすのも利用するのも前の二人に比べると不徹底、なぜなら「自分の生き方」に対する自意識が邪魔をしているから‥‥という、やや新しいタイプになっています。

19歳の若尾文子は、さらに現代の価値観に生きる女の子像を体現。一方、女将の浪花千枝子は「失敗しなかった山田五十鈴の成れの果て」と言っていいかもしれません。


「堕ちていく女」をサディスティックと言ってもいいような酷薄な眼差しで描く溝口作品の中で、『祇園囃子』は美しくも哀しいシスターフッドが印象に残ります。

この観点から二作品を見比べてみるのも面白そうです。


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