Hatena::ブログ(Diary)

Ohnoblog 2 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-03-26

ダブルヒロインの華麗な弁証法‥‥韓国映画『お嬢さん』感想

f:id:ohnosakiko:20170326211152j:image:w500

(C)2016 CJ E&M CORPORATION, MOHO FILM, YONG FILM ALL RIGHTS RESERVED


原作『荊の城』(サラ・ウォーターズ)を太平洋戦争前夜の朝鮮に移し替えた設定の大胆さや、エログロ、フェティッシュ様式美や、二人の女優のベッドシーンの「過激さ」(R18指定)や、英日韓がミックスされた建築・美術の重厚さや、変態と残虐性とユーモアの同居や、韓流エンタメの底力などについては、下のテキストを始め、既にあちこちで異口同音に語られている‥‥

菊地成孔の『お嬢さん』評:エログロと歌舞伎による、恐ろしいほどのエレガンスと緻密|Real Sound|リアルサウンド 映画部

‥‥のでここでは措いといて、個人的にもっとも刺さった部分を中心に書きたい(以下ネタばれあり)。


舞台は1939年の日本統治下の朝鮮。スリ集団に育てられた孤児のスッキは、広大な屋敷に幽閉されている富豪の娘・秀子の財産を狙う自称「藤原伯爵」(実は朝鮮人)の詐欺師から、結婚詐欺の片棒を担ぐよう、秀子のところにメイドとして送り込まれる*1

幼い頃に両親を亡くし、希少本コレクターの叔父・上月の支配下にある孤独で純粋で美しい秀子に、スッキは徐々に惹かれていきやがて二人は愛し合う関係に。秀子への思いと詐欺師との密約の間で揺れ始めるスッキ。


しかしその「ストーリー」は三部構成の第一部で描かれるスッキ視点でしかなく、第一部最後のどんでん返しに混乱しつつ観ることになる第二部の秀子視点の語り直しでは、「真逆の事実」(騙されていたのはスッキであり、秀子と詐欺師は共謀関係)が明らかに。視点の切り替えによる主客と構図の転換は鮮やかだ。

同時に第二部では、没落華族の日本人女性と結婚し日本名に改名している秀子の叔父・上月の極めつけの変態性・嗜虐性が、ゴージャス且つ傾いた日本趣味とともに若干の滑稽味を持って描かれる。

行きがかり上対立する立場にはあるが、「下位」にある女たちを操作、蹂躙しつつ日本という支配層から金と性と文化をかすめ取ろうとする被植民地の男という点において、上月と詐欺師は相似形だ。*2


そして第三部は、第二部の最後にまたもや訪れるどんでん返しが一部と二部のすべてに折り返される中で、それまでの騙し騙されの関係性のメタレベルにあったものが浮かび上がってくる。

愛し合う女二人が共闘して怖い男どもをまんまと‥‥という流れは『バウンド』(ウォシャウスキー兄弟、1996)と似ているが、構成に二捻りくらいある感じ。*3


戦前の朝鮮半島というコロニアルな舞台設定でありながら、政治性は抜かれているという批評をどこかで見たけれども、私はそうは感じなかった。これは単に、絢爛豪華な趣味と意匠が周到且つふんだんにまぶされた騙し合いエロチック・サスペンス(というだけ)ではない。そこに描かれた政治と性の権力関係の複雑な重層性こそが要。

当時の政治的背景の中での日本人と朝鮮人の上下関係、階級社会の主従関係が、男女の性をめぐる力関係と重なりつつ、ダイナミックに横ズレしていく、そこがこの作品の最大のヤバさであり醍醐味だ。その中で入れ替わり立ち替わり現れる「非対称性」が最後、それぞれのかたちで「対称性」へと辿り着くプロセスは、非常に弁証法的。


以上の観点からまとめてみる。

 男1:詐欺師(日本人を偽る朝鮮人)      女1:スッキ(朝鮮人)

 男2:叔父の上月(日本人になった朝鮮人)   女2:秀子(日本人)

 ※>は権力関係を、〜は対等性を表す。


【第一部】

◯女1視点(テーゼ):男1・女1に騙される女2

 ▶明らかになる関係性

 ・男1 > 女1‥‥‥金品を餌にした詐欺師に共謀を持ちかけられるスッキ

 ・女2 > 女1‥‥‥日本人令嬢と朝鮮人メイドの主従関係


【第二部】

◯女2視点(アンチテーゼ):男1・女2に騙される女1

 ▶明らかになる関係性

 ・男1 > 女2‥‥‥上月からの解放を餌にした詐欺師に共謀を持ちかけられる秀子

 ・男2 > 女2‥‥‥叔父の上月と秀子の絶対的な上下関係(秀子の回想)


【第三部】

◯メタ視点(ジンテーゼ):女1・女2の共闘と、騙される男たち

 ▶明らかになる関係性

 ・女1〜女2‥‥‥「日本人>朝鮮人、男>女」の権力関係を出し抜き、結ばれる

 ・男1〜男2‥‥‥「日本人>朝鮮人、男>女」の権力関係に固着し、自滅する


終始一貫して、男も女も「女」を欲望している。

当初は「男女関係」をなぞっていたスッキと秀子のベッドシーン、つまり「男」という項を介在せねば成立しなかった女同士の性愛は、最後に「男」のいない形で成就する。遡ればそれは、第一部でのバスルームのシーンの、エロスといたわりの混合体に回帰したとも言える。

一方、女への「侵入」を拒まれたばかりか裏を掻かれた男たちは、一気に力を失い滅び去る。*4


物語は、二人の女の「性の対称性」が文字通りのビジュアルで示されて幕を閉じる。これは、男たちが構築してきた「支配する者とされる者」の抜き差しならない膠着的な非対称性を逃れていこうとする、「男いらない」系ダブルヒロインもののファンタジーだ。

そのファンタジー(夢物語)が、翌年から始まる太平洋戦争とその5年後の終結をどうやって生き延びたかは、観客の想像力に委ねられている。



●付記

ところで全然関係なくもない話だが、祖父は戦前、朝鮮に日本語教師として派遣されていた際に、朝鮮人の富豪から娘(私の母)を養女にくれないかと言われてその気になりかけたことがある。

「私、朝鮮の人になっていたかもしれない」と母は言った - Ohnoblog2

日本名に改名し、日本人の妻や娘をもつことでさまざまな利を得ようとした日本統治下の朝鮮人富裕層。そんな歴史のひとこまが、自分自身の出生に関わったかもしれないと思うと、存在の偶然性に鳥肌が立つ。

*1:ここで登場する女中頭の佐々木夫人、まるでヒッチコックの『レベッカ』のダンヴァース夫人のような不気味さと貫禄。無地の着物に刺繍の帯も印象に残る。あとどうでもいいことだが、スッキが若い頃の三田寛子に、秀子が若い頃の浅野温子に、秀子の少女時代が子どもの頃の綾瀬はるか(見たことないけど)に似ている。

*2:朗読会での秀子の大袈裟すぎる日本髪も、日本文化への上月の捻れた「憧れ」が膨らんだものに見える。搾取の構造に刻まれた、猥雑な欲望の数々。その「被害者」となって自死した叔母の苦しみを、秀子は内面化している。上月がいつも嵌めている黒の革手袋(蹂躙の徴)を朗読会で自分も嵌め、その手で自らの首を締め続ける所作は、SM小説の朗読演技と見せて、叔母の死を再演しているのだ。だがその僅かな「抵抗」すら、変態紳士たちの欲望に消費される。

*3:韓国人俳優による日本語のたどたどしさが最初少し気になったが、「伯爵」を名乗る詐欺師は下層から這い上がってきた朝鮮人、富豪の上月も日本人になりたくて日本人女性と結婚した朝鮮人、秀子は5歳で朝鮮に来たという設定でそれなりに納得(自殺する叔母は日本育ちのはずなのでもう少し発音が‥‥と思うところはあったけど)。

*4:追記:この構図は、去年『ダブルヒロインの「距離」』というトークイベントで話した「一見男性が関与しているように見えても、その目の届かないところ、力の及ばないところで、女同士の関係性が構築されていく近年のダブルヒロインもの」と一致する。参照:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20160919/p1

2017-03-20

近代文学が終わった後の『文豪とアルケミスト』

文豪とアルケミストと小林多喜二と日本共産党 - Togetterまとめ


『文豪とアルケミスト』というオンラインゲームで、近代文学の小説家(が現代に転生したもの)がキャラとして多数登場している中に小林多喜二も含まれており、それについて新聞『赤旗』が好意的に取り上げたところ、そのゲームのファンの一部が「政治利用だ」と憤慨しているという話。

それに対し、「小林多喜二はそもそも共産党で‥‥」などのツッコミが多数入っている。言い換えると、「元キャラの背後のコンテクストやコンセプト知ってるの?」。

一種の「断絶」である。


最初は「そういう文脈知らなくてゲームやってて面白いのかな」と思ったが、よく考えてみれば文脈込みで楽しむというのは、この「動物化するポストモダン」の時代には今や古典的態度だ。

「自分たちの好きなもの(蟹のハサミ持った「元反逆児」のキャラという虚構)が、嫌いなもの(左翼という現実)に紐付けられたのが厭」というのが、憤慨した人の感情だと想像した。そしてまた、そういう人はごく一部にしても、「昔の共産趣味(「党」ではない)的なものはまあOKだけど、今の左翼はなんか好きじゃないので、好感もたれてもちょっとね」くらいの人は結構いるかもしれないと思う。


『赤旗』も人気のゲームに小林多喜二が入っているのを能天気に言祝いでないで、「易々と資本主義に取り込んで消費するとはけしからん」くらいに怒ってみせれば少しは共産党らしいのだが、そもそも今の共産党が資本主義社会を前提としてしか生き延びる道がないので、ここであえて怒るという発想も生まれず、ネットのカルチャーに満面笑みを浮かべつつ「皆様に愛される共産党」を間接的にアピールしているという体たらくは改めて情けない。

‥‥と、元共産党員だった父が生きていたら言うだろう。


どんなゲームか見に行ったら、近代文学の作家が男性ばかり(腐女子対象?)選ばれていて、キャラの細かい差別化がかなり工夫してされている様子が見て取れた。まず「文学者萌え」というのが大前提としてあって、ゲームの中でそのバリエーションを作るために、歴史に登録された著名作家の特徴や個性を流用したという感じ。ゲームはやっていないが、現実には直接関わり合いのなかった作家同士がここでは出会う、という面白さもあるのかもしれない。

【文豪とアルケミスト】これからは文豪男子!?キャラクターまとめ【文アル】1/10現在 - NAVERまとめ


ちなみに一介の現国教師だった父は地味に島崎藤村『夜明け前』を研究(未完)していたので、キャラ化されたのを見たら「コレが藤村か!(眼鏡がないじゃないか!)許しがたい!」とまず激怒し、その他のキャラ設定をじっくり見ていくうちに「うーむ。まあ基本は一応押さえてあるか。でもなんでマンガでゲームなんだ。作品を読めばいいじゃないか(つまりよくわからん)」となっただろう。戦前生まれの人だから。

実在した人物をここまで非実在(キャラ)案件にしていいのか問題もあると思うが、それはここでは措く。



この件に少し似た「断絶」を昔、アートの分野で経験した。

某芸術系大学の「現代美術演習」という授業で、普段の作品を持ってきてもらって講評していた時のこと。

「なぜこのモチーフ? どこから出てきた? コンセプトは? あなたにとって絵画って何? 美術史のコンテクストにどう位置付けてるの?」と、(私も若かったもので)矢継ぎ早に質問していたら、キレられた。

「ただ好きだから描いてるんです! 絵が好きだから! 好きってだけじゃダメなんですか? コンセプトとかそういうんじゃなくて。コンテクストって何ですか? 美術史とか関係ないです」


ただ好きでやってるだけの人が「現代美術演習」の授業に何を求めて来ているのかわからないけど、山の中に籠って山水画描いてるわけじゃないんだし、明らかに近代以降の絵画だし、何らかの意味作用を作り上げているように見えるし、そこに現代的な文脈を読もうとするのは普通。「現代的」ということは歴史を前提にしているということで。絵画って歴史的なものだから。大学来てるなら最低限そこは押さえないと。

などということはもちろん通じない。とことん通じない。

結局、「自分の好きなもの(絵)が、嫌いなもの(コンセプトとかコンテクストとか)に紐付けられたのが厭」で、それはもう感情的感覚的なものなので、何をどう話そうが入っていかない。


好意的に解釈すれば、その人はたまたま芸術系大学に来てしまっただけで、実質は既に「アートの役割が終わった後」を生きていたのかなと思う。

近・現代(現代は近代のシッポ)のアートは、世界に対して何らかの課題を設定すること、言い換えれば世界の「亀裂」を希望として見出すことに存在意義があり、だからこそコンセプトやコンテクストといった批評性が重視されてきたのだが、亀裂の埋め尽くされつつあるこのグローバリズムの中で、そういう使命的「前衛」的なあり方が実質的に難しくなっている(共産党と同じく)。

もちろんアウトサイダーアートのようなものや、趣味や商業としては昔からあるように存続していくし、そっち方面で盛り上がっていくかもしれない。その中で、かつて「アート」としてあったものが文脈解体され、あちこちでリサイクルされていくのはおそらく必然だ(件の学生の作品も、そういうものとして見るべきだったと、今は思う)。


近代文学も、アートとほぼ同様の位相にある。近代文学が終わった(by柄谷行人)から、近代文学をリサイクルしている『文豪とアルケミスト』や、非政治化されたそれを虚構として楽しむ者が出てきたのだ。

というわけでこの件については、各専門分野から掘り下げた考察が上がるのを期待。



●追記

Twitter見たら、えらいことになってる。

2017-03-16

前衛、野グソ、「先験的廃業」

またセルフTogetterです。7日から一週間ほど、集中的にアート関連のtweetをしたので、抜粋の上まとめておきます。(※参照)はここで追記。


3月7日

本来は(いい意味での)アート未満のものやことが、アートとして位置付けられたとたんにつまらなく見えてくる現象に何か名前をつけたい。


絵画は自明なものではないと判った時には、既に何かがインストールされてしまっている。だから、絵画へのとっかかりをどう作るかで呻吟している人々がいる。しかし今や「絵画」だけでなく、「アート」(近・現代美術)も自明ではなくなったと言えるのではないだろうか。

とすれば、既にインストールされているものにどう対処するかが、問題となるのではないだろうか。それが、「前衛の再設定」となるのが私にはやはりよくわからない。「再設定」において、アートの自明性を問うということなら理解できる。でもそういう話はほとんどなかったように思う。

(※参照:美術をインストールされた受動体としての作家/梅津庸一「未遂の花粉」とシンポジウム「前衛、近代、コミュニティの再設定」感想 - Ohnoblog2

そこで、ここではアートの自明性は問われてなかったのではないか?(アートの進化的未来が信じられている)ということを書くと、反発が来る。何言ってんだそんなのはとっくに織り込み済みの話で‥‥とはならないのね。

(※参照:未遂の花粉関連シンポジウム「前衛、近代、コミュニティの再設定」中村史子、土屋誠一、筒井宏樹、松浦寿夫、黒瀬陽平、梅津庸一 - Togetterまとめ


「アート未満」(いい意味で)は重要な概念。私の行ってる地方の私大では学生見ててもアート未満が多い。それとメンタル病んでる人が増えた。休学に退学。そんな中でアートが最後の受け皿になっている感じはある。もうこの皿取ったらどうしようもないという。そういう「よすが」として機能している。


あと、近代より前に日本にあったものは皆「アート未満」なのだから、そこにゆっくり回帰するというのは一つのあり方かもしれないと思う。工芸もデザインも絵画も未分化の渾沌状態。そういう状態への積極的な「再設定」、その中で一番過激なことは何かを考えてみる。ってこれももう誰かが言ってそう。


「学生たちがアートという言葉で前提にしているものが食い違う。アートが呪いの言葉のようです」と先生が仰ったのを受けて、先日某大学院大学でレクチャーをしたのだが、「アート」とか「アーティスト」という言葉(「作品」も)を一旦忘れていいんじゃないかという話をした。

で、どういう言い方をするかというと、「ものを作る人」「物語を作る人」「場を作る人」「関係を作る人」。もちろん兼ねる場合もある。こうするとアートだけでなく幅広いジャンル、職業の人がそこに入ってくる。絵画を描いていて「場を作る人」を自称する場合もあるかもしれない。これって良くない?

学生のプレゼンと講評にも立ち会った。映像、音、パフォーマンスなど。美大出身でない学生が半分以上かな。その中で「作品」という言葉を無理して使ってるのが気になった。それは「作品」てより「研究発表」でいいんじゃないかと言った。多少なりとも”憑き物”が落とせたみたいです。


3月8日

あれから美術の「前衛」について考えている。連続tweetになります。

前衛は、「敵」と「友」を明確にする。少なくとも「敵」を設定しない前衛はない。これまでだと「敵」は制度と市場だった。それを支えている近代の機構、民主主義社会(政治)や資本主義経済(生活)も射程に入ってくる。

制度の外のオルタナティブな試みは現在、制度自体の弱体化でどうなるのかという話はあった。もちろん受け皿としての機能はあると思うが、美大を経由しないアーティストも既にいる。そして学校制度を回避しても、美術館展示で制度へと回収される道筋はまだ残っている。

前衛美術家による展示が「ゴミ裁判」へと展開した歴史的事実は、美術館によってスルーされた。ここで美術館は「前衛」をなかったことにした。http://artscape.jp/report/review/10095359_1735.html この批判は重要。

市場に対しては商業ギャラリーを介さないことを初め、売れる(簡単に所有できる)かたちの作品にしないなどいろいろな抵抗の仕方はある。しかし実際問題、じゃあどうやって食ってくのよ、絵の具代も交通費もいるし‥‥となって、自治体支援も望めないとなるとパトロンが必要になる。

理解ある金持ち。でなければ、クラウドファンディング。後者は理解ある大衆の存在を頼みとするので、前衛にとってはなかなか難しい。前者になると思う。

とすると、もっと階層差が開き、酔狂な金持ちがアートに金使うしかないようにもってくしかない。底辺の芸術家を金持ちが支援するという図。でもただの成金じゃ知性も教養もないから無理。

つまり階級社会の復活しかない。前近代。って勢いで書いた。良いか悪いかの価値判断は置いといて。そんでものすごい教養をもった富裕層が徐々に形成されるのを待つ。しかし階級社会をぶっ壊すぞという前衛が出てくる。絶対でてくるな。堂々巡り。

とても雑なことを書いているのかもしれない。でも私は真面目です。

前衛が機能しなくなったのは「敵」が捉えづらくなったからだ。「敵」と「友」、「敵」と自分の区別が難しくなった。だからつきつめると(アート内の)自己破壊になる。今の前衛は何を壊したいのだろうか。誰か教えて。


やっと読了しました。梅津庸一×蔵屋美香×黒瀬陽平×齋藤恵汰「今、日本現代美術に何が起こっているのか」[実況] - Togetterまとめ

新しい公共圏」というのは、自前の学校とか画廊とかを含めたアートのオルタナティブな活動、つまり「アートのインフラをめぐる新しい公共圏」ということのよう。そこだけで回していくのはもちろん不可能で、一方に公共圏(学校制度と美術館制度)があった上でアンチとして成立する空間。

アーティストとして搾取されずに生きていくための自助努力ということでいいのかな。村上隆個人的な規模でやっているやつですね。それが徹底されていったらこうなるのでは?ということは、『アート・ヒステリー』の中の村上隆論に書いたわそう言えば。

つまり藝大を初めとする学校はすべて解体され、視覚文化を中心としたあらゆるジャンルのカルチャースクールになり、近美を初めとする美術館も解体されて海外も含めた民間に売られ、芸術関係に割かれていた予算は復興福祉に回されて、既得権益を貪っていた層は駆逐されるという未来予想図です。

資本主義社会のアートの存在様式をつきつめていったら、それが「正しい」姿になるのではないかと書いた。

3.11以後、「美術館に入りたがる(作品がコレクションされることを望む)」アーティストが増えたという話が興味深かった。自分のスタジオやコレクターの家やギャラリーなどよりは、災害で作品が失われる可能性が低いし何十年も残る。それは美術史に登録されたいという欲望でもあるのだろう。

「新しい公共圏」でも美術館を作るのは大変だから、やはり既成の美術館が変わってくれることを望むということらしい。そしていつかそこに登録されることも。

確かに新たな価値を創造し、それを後世に残していくべきだというのはある。それは何だろう。作品なのか方法論なのか何らかの技術なのか言説なのか。そのすべてなのか。アーカイヴはあった方がいいとは思うけど。

「美術館制度も学校制度も、最初から存在しないかのように振る舞う」ということは、ないのだろうか。もしあるとすれば、近代以降のアーティストの像は根本的に書き換えられるだろう。アーティストという名もなくなるような地点。その位相について考える。

「新しい公共圏」については何となく掴めたが、そこで目指される新しい価値って何なんだろう。それはアートと関係ない人々も幸せにするもの?‥‥とか、また素朴なことを書くけども。


美術館、予算も厳しいだろうが、いずれ収蔵スペースがないということにならないか。増え続ける作品と限られた空間問題。でも「空間を支配する者が一番強い」というのは20世紀で終わりになったはず。今は時間を支配する者、時間泥棒が一番強い。たとえばどんだけネットで時間喰われてんだという‥‥。

領土の拡大=空間支配だから、もうそれは古いのよ。とすると、増やすのではなく減らす方向、あるいはリサイクルする方向しかない。モノに関しては。

そして新しいモノもできるだけコンパクトな形にする。物量にびっくりするってのは20世紀的な感性。そこで残るのは物質性になるのかな。

インスタレーション作品作っていた時、なんかまどろっこしくて、もっとコンパクトな本みたいな形態にならないかと思ってた。ただどうしても気になるのは物質性だった。それは結構フェチな感覚と直結していた。物を所有したい感覚とも似ている。それを切断しようと映像に行ってそこでやめたのだった。


3月9日

「インサイド」に回収されない前衛を夢見ることが、アートに取り憑いた業のようにも思える。それは何かを先送りしている。

独立したオルタナティブを作り上げるだけでなく、制度の中にもウィルスのように浸食するように入り込んでいくという戦略なのだろうか。

乗っ取り作戦。ミイラ取りがミイラになることもある。

乗っ取りなんて無理ですよね。乗り物じゃないんだから。制度が弱体化していると言われるが、意外としぶといのかも。


3月11日

長さがあって古くなっていて詰まり気味だったトイレの配管を昨日取り替え工事したので、紙を心置きなく流せるようになってストレスが解消された。生活のインフラは問題が生じてからその必要性を実感する。

アートのオルタナティブとか新しい公共性とか言われているのも、そういうことなんだろうか。

既成の配管はもうボロボロで詰まりに詰まってどうしようもないが、地中深く埋まっていて取り替えるのも大変なので、横から新しい管を取り付けて、そっちで流そうという。そのほうがストレスなくてスムーズだと。

だとしたらその配管もいずれは古くなって取り替え時がやってくる。そして配管だらけになる。そのうちトイレ本体が壊れる。

トイレなんかあるからこういうことになるんだよ、野グソでいいじゃんという人もいるだろう。アートは野グソみたいなものだった。迷惑だと文句言われたら、土を掘ってそこらに埋める。そのうちいい堆肥になって、おいしい野菜がとれたりする。

アート有機農法

おいしくて安全な野菜を作っている人は、それがアートだとは言わない。

◯◯関係者による◯◯界に向けた◯◯界の幸福と未来に関する言説。それが配管。

トイレの配管は、台所排水やお風呂排水の管と合流してやがて浄化される。野グソは浄化されない。

とは言え、部屋には浄化されたものも野グソも飾ってあるな。

野グソ野グソとすみませんでした。


3月13日

「先験的廃業」という言葉が、アーティストのKさんにヒットしていた。

(※参照:海上宏美×千坂恭二×岸井大輔「21世紀にアーティストと名乗る人は根本的に何かが腐っているのではないか」- Togetterまとめ

「なぜアートが終わってるという話にならないのか」と海上さんは言っていたが、個人的にはそういう話を聞いたりする。個人レベルで呟いているが、あまり堂々と言わないだけみたいな感じがある。


3月14日

社会的に意義のある活動、貧困で教育的機会に恵まれない国の子どもに継続的に学資支援するとか、マイナーだが重要な文化活動を金銭的に支援するとか、災害地に寄付するとか、えん罪を訴える活動への署名とか募金とか、これまで微力ながらいくつか関わったけど、そこに芸術の名を冠するものはなかった。

最近、芸術の名のもとにそうした活動も行われるようになった。それはこれまでの社会的な活動が低下しているということなのだろうか。それとも芸術が「新たな活動領域」を見出したということなのだろうか。

その活動の結果は社会のためになると同時に、「芸術のためにもなる」ということなのだろうか。

すべてが「延命」の時代。すべてが「先験的廃業」に直面してる。

2017-03-15

犬について

少し前に、自分の飼い犬について呟いたものをまとめておく(誤字だけ訂正)。


3月8日

飼い犬が外で甘えた声で鳴いている。犬を室内で飼う習慣はないので玄関の外。柴のミックスで寒さに強い。夏の猛暑の際は玄関に入れてやる。まだ3歳で甘えたい盛り。

朝夕の散歩以外では、家にいる時は昼頃オヤツをやって少し遊んでやる。夜寝る前は玄関のポーチに腰を降ろしてスキンシップ。いつも膝の間にはまり込んだまま動こうとしない。全体重をこちらにかけてくる。毛ほどもこちらの愛情を疑っていない恐ろしいほどの信頼ぶりに身がひきしまる思い。

犬を溺愛しているけど、犬からの「愛」があまりに純粋で大きく見えて、全力で応えなきゃという思いがある。猫には片思いだった。

しかし「愛」なんて言っては犬に失礼かもしれぬ。犬にとってはもっと生存をかけた何かかも。自己の生存をかけて全体重を預けられてごらんなさい。抱きしめざるを得ない。

子どもがいないので余計こうなるのかも。災害に見舞われたら何をおいても犬を助けたい。毎晩寝る前に「タロ、ずっとおばちゃんと一緒にいようね」とキモい呼びかけをして撫でている。夫にこういうことはしない。今遠くにいるのでしたくてもできないしどうせキモがる。犬はそういうことはないのでいい。

しかし子どもよりペットの数が多い今、子どもを作らず犬を飼っている人間がそのうち非難されるようになるのではないかと思ったりする。生まれた仔犬を他所から貰ったんですけどね。


3月9日

明け方に雨が降ったらしい濡れた路面を犬と散歩。犬は盛んに地面の匂いを嗅ぐ。田畑と家が半々の田舎町。道端の濡れた土や草の中に大量の匂い情報があるらしい。情報から情報へ。角を曲がってまた情報から情報へ。人間と同じことをしている。そしてオシッコという匂い付け。Tweetするみたいに。

今朝、犬は4カ所でtweetした。たぶん別の犬たちのtweetも読んでいる。

ツイートという語感は、犬のオシッコする様に近いと思う。


3月10日

犬は自分の日常生活の中で、身体的にも感情的にも一番親密にしている存在だが、一方で別の世界、別のルールを生きている見知らぬ者でもあって、犬の体温を感じ黒い瞳を覗き込みながらこの乖離を思う時、知らない場所に置き去りにされたような気持ちになる。


3月11日

また今日も犬に話しかけてしまった。

言葉が通じない者に話しかけることは重要だ。

しかし犬には時々通じてしまうので困る。いや困らないか。通じると思えることは嬉しい。それが続くと、通じないとわかった時に寂しくなる。その寂しさをしみじみ味わおう。



ohnosakiko (犬と人間の接触面はわずかで、犬はまったく犬独自の世界を生きている。可愛がってるペットでも同じ。寂しいけどそう思うことにしている。

http://b.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20170314#bookmark-327012749

2017-03-05

美術をインストールされた受動体としての作家/梅津庸一「未遂の花粉」とシンポジウム「前衛、近代、コミュニティの再設定」感想

昨日、愛知県立美術館で開催中の梅津庸一展と、関連して行われたシンポジウムに行ってきた。その時感じたことなどをつらつらと。長いし結論はない。


f:id:ohnosakiko:20170305143407j:image


梅津庸一については、黒田清輝の大作『智・感・情』を自らのヌードに置き換えて点描画法で描いた作品で話題になり、「パープルーム」という画塾兼共同体の主宰者でもある画家‥‥といった程度の知識しかない。

現在愛知県のあちこちで「パープルーム」も含めた展覧会が開催されている模様だが、私が見たのは、新栄の「波止場」という小さなスペースで、佐藤克久とのコラボレーション作品『ネオ受験絵画とフラジャイルモダンペインティングに見る日本の現代美術家の苦悩』のみ。

これまでの「表現行為を選択する能動的主体としての作家」ではなく、「美術をインストールされた受動体としての作家」像のようなものはなんとなく見えた。「能動」ではなく、積極的な「受動」。


愛知県美の展示では、先の黒田清輝、ラファエル・コラン、フェルディナンド・ホドラー、ポール・ゴーギャンの絵画に基づいた自画像と共に、県美が所蔵する近代絵画9点(高橋由一、山本芳翠、坂本繁二郎青木繁瑛九、上原欽二、織田広喜、鶴岡政男、麻生三郎)が展示され、外部執筆者5名がテキストを添えている。

パンフレットの、企画者・中村史子によるテキストのタイトルは、「彼方からの花粉  - 梅津庸一は歴史を生き直す - 」。「花粉」はこの作家のキーワードで、芸術家同士が時代や空間を越えて影響を与え合う現象を指す。自らが取り込まれてきた日本の近代美術や美術教育の起源に遡り、「生き直し」をしている画家であると。

歴史は実際には「生き直し」ができるものではないので、絵画という枠組みで仮構的に行うにせよ、それは常に/既に「手遅れ」な所作になる。もはや「手遅れ」を生きるしかない。先が見えない。そういう青年っぽい悲壮感と、それを裏切る可笑しな感じが作品に同居。

直接関係ない話だが、先日IAMAS大垣にある情報科学芸術大学院大学)で『「アート」はどこから来たのか? その来歴と「呪い」と美術教育』というタイトルで特講をしてきたこともあり、「近代、日本、美術、美術教育」を巡る展示として個人的には興味深かった。



開始時間ぎりぎりに行ったシンポジウムは、ざっと見たところ百数十人の大入り満員。若い人が多い。椅子が追加されやっと座るも、室内がすごく暑い。調整もできないみたい。上着脱いでTシャツだけになりたいが着物なので不可能。最悪のコンディションで4時間耐えられるか早くも不安になる。

時間を押して始まった前半は、作家の挨拶に続き、各登壇者の発表。以下はざっとメモしたもの(落としている部分は多々ある。たぶんそのうち、みそにこみおでんさんの実況Tweetまとめが上がると思う/追記:上がった。https://togetter.com/li/1087363)。

( )内の肩書きは当日配られたチラシより。→の先は自分の感想。


▶筒井宏樹(ライター。編集、展覧会企画。鳥取大学准教授)、ファシリテーターとしての発言。

シンポのテーマは梅津の活動から見出されたもの。1、現在、なぜ前衛の手法を使うのか? 2、「美術」という概念が作られた日本の近代に立ち戻るという戦略は、どのくらい有効なのか? 3、アーティスト・コレクティブ(コラボレーションを行うアーティスト・グループ)に可能性はあるか? あるとすればそれはどのようなものか?

美術の前衛は、制度と市場に抵抗するものだった。制度の最たる美術館でやっていて、こういうシンポも美術館で行われるってなんかスゴイわ。というか最近日本の前衛美術の展覧会が海外も含めあちこちで開かれること自体、前衛が歴史化されたということで。ああだから「前衛の再設定」って言っているのか。でもそれを制度の最たる(以下ループ)

▶中村史子(愛知県美術館学芸員

梅津は近代日本美術を批評的に生き直すことを、画業として実践している(パンフの内容とほぼ同じ)。

近代の作品をコレクションする美術館として梅津庸一は企画しがいのある作家だろうとは思う。

▶土屋誠一(美術批評家。沖縄県立芸術大学准教授)

床の間芸術(場所に帰属)と会場芸術(大衆に依拠)ではない第三の道としての「卓上(デスクトップ)芸術」。マルチプル、小サイズ、水平的、物語とセット。これはそのまま現在の視覚文化状況。つまり通俗的モダニズム理解の還元主義がいかに特殊だったかということ。

シンポのテーマとどう関係してくるかわからなかったが、話としては面白かった。アートが終わり、その”横”にあったものやその”前”にあったものが呼び出されてきている話として聞いた。

▶筒井宏樹

60年代末〜70年代初頭の名古屋の前衛パフォーマンスアート集団「ゼロ次元」について。長らく美術史で無視されてきたが、90年代以降発掘が進んだ。中心になっていた加藤好弘は東京でも活動し、多弁で論理的で欧米のアーティストに近かった。一方の岩田信一は論理嫌いで不器用で泥臭い(デロリの美)。その後、岩田は前衛芸術から後衛庶民芸能)に移った。

今日「前衛」として登壇している人に無理矢理当て嵌めると、黒瀬陽平は加藤好弘で、梅津庸一は岩田信一に近い感じになるのかな(この印象は、シンポを通じて徐々に強化された)。あと、名前の出てきた人とつい先日久々に話したり、スーパー一座でスタッフしてた人と偶然出会ったばかりだったので、妙な気分になった。

松浦寿夫(画家。西洋近代美術史)

点描絵画をめぐり、知覚と労働についてデリケートに語っておられたが、私には把握しにくく要点をメモできず。画家の人にはよくわかる話だったのだろう。

▶黒瀬陽平(美術家。美術評論家。カオス*ラウンジ代表。ゲンロン*カオスラウンジ新芸術校主任講師)

「近代を生き直す」ことの動機は何か、主体のあり方が変更される契機をどこに見出しているのか(梅津への批判)。主体のあり方が変わったのは近代に限らない。例えば仏教伝来時(「怨霊化した神々」例示解説)。異質な西欧を日本がどう受容したかという話だと「日本=悪い場所」的宿命論になってしまい、日本は何でも受け入れ共存させる「寛容性の神話」だと議論が雑になる。

主体が変わる契機が重要なら、これまでの美術家主体(前衛も含め)は無効にならないか。美術家として「これまでと主体形成が変わりましたよ」と作品見せるのって何か変だし。



10分休憩の後、後半のディスカッション。

他の登壇者の発言も異論や補助線としてあったが、黒瀬氏と梅津氏のやりとり(互いを批判しつつ自分のあり方を述べる。非常に平たく言うと「どちらが真の前衛足りうるか」みたいなところ?)が中心になっていた感触。


一番印象的な部分を短くまとめると、

黒瀬:梅津及びパープルームのやり方は、受けの姿勢で事後的に読解してもらうものであり、日本の美術史では当たり前で教科書的。僕は特異点でありたい。

梅津:パープルームは病理が深く、自分でも何だか分からないほどの近代の生き直しに重心が置かれている。特異点としてわかりやすく違うことをしたいのではない。


「特異点でありたい」という言葉にびっくりして、しばらくそれ以外の情報が入ってこなくなった。そういう言い方を美術家/美術評論家がすることに驚かされたというか。その「特異点」の内実はわからない。

しかし二人の語っている内容より言葉遣いや喋り方の相違が印象に残った。そっちに注目した方が何か本質的なものが顕れる気がする。*1


それはさておき私から見ると、後者が「美術をインストールされた受動体としての作家」であるならば、前者が体現しているのは「表現行為を選択する能動的主体としての作家」である。前衛美術作家そのものであり、前衛は言うまでもなく、進化・進歩を信念とする男性的、論理的、能動的な主体。つまり「アートの父殺しの歴史」(大野) において正当性を主張する息子たちの位相だ。それが父となり、また次の息子たちに乗り越えられていくというヒストリーがある。

後者は、そういう作家主体が立ち上がりようがなくなった21世紀において、仕方なく受動的なあり方でしか画家として生き延びられない(なぜなら「花粉」を受容してしまったから)と自閉的に悟った主体に見える。「受動体としての作家」は矛盾を孕んだ言い方だが、近代的、男性的主体の最期の痙攣のような感じにも見える。

どちらが主体の変容に直面しているかと言えば、後者だと思う。梅津庸一の自画像が、元の絵画ではすべて女性がモデルであることも、これに関係しているかもしれない。言うまでもなく女性は歴史的に受動側に置かれてきた性だ。私は梅津庸一論の類いをまったく読んでないし、今日のアーティスト・トークも行っていないので、見当違いかもしれないが。*2


とは言え、全面的に受動的なわけでもなく、展示は非常に周到だし、戦略的な立ち振る舞いをしているという印象は受ける。

こういうのを「受動的に能動(のうど)る」という。この言葉遣いは私のオリジナルではない。1984年画廊パレルゴンIIから発行された小冊子『現代美術の最前線』(責任編集/藤井雅美、ちなみにここには松浦寿夫も入っている)に掲載されている座談会の一つ「I. 受動的能動––––現代の戦略」で、関口敦仁の発言として最初に「受動る」という言葉が出てくる。一部抜き書き。

関口:西洋的な構成って、まあ能動的な訳で。逆に受動(じゅどう)っちゃう事でさ(大爆笑)出て来る可能性があると思う。能動(のうど)る美術の形が今まで続いてた訳で、そうでなく引用や組み直しの受動っちゃうところをはっきりさせていくべきじゃないかな。

 (大幅略)

奥野:受動っちゃうって言っても、優れて能動的な訳ね。

関口:受動っちゃうことが能動ることだから。


ここから発して、「受動的に能動る」という言い方が出てきたのだった。誰かが口にしたか、展覧会のパンフで見たのかもしれない。あるいは座談会タイトルから自分でそう覚えたのかもしれない。30年以上昔のことなので忘れたが、過去のあらゆる前衛が"再発見"されている今、上記の『現代美術の最前線』を構成した80年代前半の動向(言わば最後の前衛たち)の本格的な掘り起こしは、ほんの一部を除いてはまだ行われていない(「Sさん、一昨年の秋に出した原稿どうなりました〜?」とここでこっそり呼びかけとこ)。


それから、筒井氏の話で出た90年代初めの「前衛」。中村政人や村上隆が60年代の前衛のシミュレーションをした一連の行為だが、あれらは近代美術の亡霊を召還し憑き物を落とす儀式だったと思う。つまり近代美術も前衛も(というか両者はほぼイコールだが)そこで完全に歴史化されたのだ。

ということは、もうアートにおいて前衛的位相はあり得ないということではないか。ネタでやるのはともかく大真面目には。それで「再設定」なのだろうけど、話を聞いているとかつての前衛と同じく、アーティストとして制度と市場に、そして画一化、平準化されていくグローバルアートヒストリーに抵抗するという。その言葉は、昔の前衛と変わらない。つまり「特異点」の連続としてのアートの進歩と進化を信念としている。

「再設定」なら、そこを突き抜けて、アートも突き抜けて、別の場所に出てしまう(実際、かつての前衛には「出た」人もいた)ということでもいいと思うのだが、話は最後までアートの中から出なかった。ここに生まれる欲望は、何なのだろうか。アート内の自己実現? 「真の◯◯」を巡る権力闘争? それとも別の何か?


‥‥‥などの疑問が湧いてきたが、質問はしなかった。質疑応答の時間が非常に限られていたので、ここは若い人が質問する場でしょうねという教育的配慮(笑)が働いた。

予想はしていたが、アートに対するスタンスは異なってもその進化的未来を信じる人々‥‥違う人もいたかもだけど‥‥の中で、アウェイ感が半端なかった。暑くて頭が朦朧としてきたのもあって、終わった途端に早くこの場を去らねばという感じになったのだった。

おしまい。

*1:追記:あと、梅津氏の話の中で、介護施設で働いて感じたことが語られていて、こういう話とアートの話が(介護現場で有効な美術とかアート療法とかではなく)結ばれる「線」には興味がある。

*2:日本の近代以降の男性美術作家における「女性性」「女性的主体」って面白いテーマじゃないかな。誰か書いてないだろうか。