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2017-04-12

『ゲンロン0 観光客の哲学』感想tweetセルフまとめ

読了直後でかなり散漫な内容だがメモとして。

tweetをそのまま埋め込むと読みづらいので、文章のみコピペhttps://twitter.com/anatatachi_ohnoより)。

いろんな意味でおそろしい本だった。内容要約はしてないので、以下は未読の人には何がなんだかです。



ゲンロン0、第一部読了。哲学思想は興味あるところだけ気紛れに齧り歩いてきた自分のようなふまじめな読者にも、極めて親切設計で有り難い。< >についての注とか細かな気配りが。二層構造論が恐ろしくクリア。「こうである」と「こうありたい」が慎重に書き分けられている点もリーダブルだった。


「観光客」の可能性については正直まだよくわからない。政権の交替やテロの勃発で観光は簡単に影響を受けるし、「抵抗」として機能するのはやはり「哲学する観光客」に限られるような気も。ただ、ある限界を突破しようとする時、このくらい大胆な仮説を立てる必要があるのだろうと想像。


国境を越える観光客になるのが諸事情で今難しい自分は、「観光客」という概念を地理的なものから抽象的なものに読み替えてみたいと思った(諸ジャンルの「観光客」的観客とか)。また、観光客になれなくても、観光客に出会う側として考えられることもいろいろあるなと。「おもてなし」とはまた別に。


内容に賛同するかどうかはおいといて、これだけ射程距離の長いものを読むと脳が掻き回される。10年後、20年後(生きてたら)にもたぶん引っ張り出して読むと思う。


「希望」を語るのは難しいわ。「絶望」は簡単だけど。


ゲンロン0、第二部読了。5、6章とフロイト-ラカンがせり上がってきてワクワク。「犬」で一旦本を閉じて泣く。まさか東浩紀を読んで泣くとは思わなかった。「不能の父」に男性的(近代的)主体からの大幅転換を感じると同時に、このような形で諦観と希望を同時に出すことについて考えさせられる。


子どもを持たなかった自分だが、「家族」(疑似家族)という親密圏について、フェミニズムの家父長制議論を越えて再考すべき必要性を感じ講義で細々やってきた個人的経緯もあるので、この「序論」の先がどうなるのか気になる。とりあえず偶然出会う「不気味なもの」は明日初めて顔を合わせる学生だ。


疑似親子、特に親の役割については、以前『ねことオルガン』という童話の考察の中で書いた。ここに登場する「おじさん」は今思うとまさに「不能の父」。http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20130301/p1


男は「不能の父」でいいのだが(いいのか)、女はどうしたらいいかという問題がある。


たしかに20世紀のアートにしても、それを駆動させてきたのは父を殺そうとする息子たちの理論であり、美術史は父殺しの歴史だった。そういう意味でのアートは終わったとすると、そこで「親としても生きろ」とはどういうことになるのか。


「親としても生きろ」とは「世界は子どもたちが変えてくれる」と信じ希望をもてということ? でも亀山郁夫の見立てでは、子ども(カーチャ)は皇帝暗殺計画に失敗する。世界は変わらない。それでも次の子どもが? つまり子どもさえいれば希望は持ち続けられると? いやそんな単純な話のわけないな。


「不気味なもの」、子ども、未知なもの、偶然のものに最後の望みをかけざるを得ない、というところまで来ていると。これはヤバいわ。真実かもしれないだけに。


ゲンロン0、リベラリズムへの失望の深さを改めて感じる。この深さ(怒りに近い)を共有できないと読みにくいかも。「観光客」と「不能の父」はそれぞれグローバリズムナショナリズムに対応。それを通してポストモダニズムを徹底するしか道はないということのよう。絶望と希望が点滅している。


解説や整理の箇所は「なるほどなるほど。よくわかる〜」という感じでスイスイ読めるが、提案の部分は「そうかそうだよね〜納得」という具合にスルッとはいかないと思う。つまりそれくらい重大なことを言ってる気がする。根本的な考え方の転換を迫るようなところがある。うまく言えない。


いや、「重大」というのは違うかな。ええとそんなふうに考えてほんとに大丈夫なのか的な何か。

違和感を覚えるところもないではない。観光客が出てくるなら移民は?とか。子どもに丸投げし過ぎではないか?とか。少し時間をおいて読み直す。



ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

2017-04-09

「一生懸命勉強するしかないって感じ」「あなたはとっても可愛かった」

実家で、母や夫と一緒に、昔の家族のアルバムを見ていた時のこと。

「お母さん、美人だねー」「◯◯ちゃん(妹)、可愛いなぁ」などと褒めた後、夫は私の小学生の頃の写真に、「うーん。これはもう、一生懸命勉強するしかないって感じだな」と言った。なんだとぉ‥‥。

「いやだって、女の幸せが顔かたちで決まるってのは、ずっとあったじゃないか」ということを、モゴモゴと彼は抗弁した。自分は、そういうジェンダー規範が強かった現実社会を前提として、モノを言っただけだと言いたいらしい。

だがそんなことを言えば、「じゃあ、あなたが私と結婚したのはなぜ?」と聞かれると予想できるだろうに、本人は予想していない。そして案の定聞かれて(別に今更答えが欲しいわけではないがお約束なので)、「わからない」「忘れた」と答える。脇が甘い。


それはともかく、確かに客観的に見て若い頃の母は美人だし、妹は私より可愛い。あまり可愛くなかった私が子どもながらに、「私は可愛くないから、他に勝負できることを早く見つけよう」と漠然と思っていたのは事実だ。もちろん刷り込みもあった。

女の子は器量。器量が良ければ結婚も良い相手を選べる。器量の良くない子はお嫁に行けないかもしれないので、頑張って勉強して仕事をもち、一人でもやっていけるようにしないと。

そういうことは、公然と口に出しては言われなかったが、半世紀前は多くの人にとって当たり前の考え方だったと思う。今でもまだ残っているかもしれない。


ぼんやり考えていると、夫がまた口を開いた。

「ここのお父さん(故人)だって、お母さんがこんな美人だったから結婚申し込んだんだよ。ねえ」(母に同意を求める)

ああまた墓穴を掘っているね。どういう墓穴か、自分でわかっているのかね。相当深いよ、それは。

しかし母は笑って言った。「まあ、お父さんは面食いだったから」。わー。(元)美人の上に天然だ。


そんな母から見て、娘の外見はどう映っていたのか。下の子はまあまあ可愛いけど、この子はちょっと‥‥などと、母親が冷静にジャッジすることはあろう。なぜお父さんに似たのかしら、私に似れば美人だったのに、とか。

だが、何を聞いても母は「あなたはとっても可愛かったわよ」と言うばかりだった。その「可愛い」は親から見て自分の子どもが可愛いという意味の親フィルターのかかった可愛いでさ、こっちは客観的に見た場合のことを言っているのだよ。

しかし、母は客観的なことは決して言わないのだった。

母親というのはそういうものなのだろうか。

2017-04-01

人はなぜ女の子の絵を描くのか・・・『絵を描く人々』更新

絵を描く人々 第12回 日本・お絵描き・女の子 - WEBスナイパー18禁サイト)


マンガ・アニメやイラストから現代絵画に至るまで、今ほど女の子の絵が盛んに描かれ、見られている時代はないのではないか‥‥‥この十年近くずっと抱いているそんな印象から書き起こしています。


一口に「女の子」や「少女」と言っても、描く人、選ぶジャンルやスタイルによって、その動機や思い入れは違うことと思います。

しかし百年くらいの大きな流れの中で見た場合、「少女」のイメージや「女の子」的な要素は、日本のビジュアル表現シーンに繰り返し現れています。

性別を問わず多くの人が「女の子」あるいは「少女」の表象を愛し、そこに夢を見ているのはなぜなのか––––


今回のイラストは、私の7歳(1966年頃)の時のものを模写してみました。

本絵はこんなの↓です。自分では覚えていませんが、高橋真琴のイラストにディズニー絵本の動物を組み合わせて、見ながら描いたと思われます。

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2017-03-26

ダブルヒロインの華麗な弁証法‥‥韓国映画『お嬢さん』感想

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原作『荊の城』(サラ・ウォーターズ)を太平洋戦争前夜の朝鮮に移し替えた設定の大胆さや、エログロ、フェティッシュ様式美や、二人の女優のベッドシーンの「過激さ」(R18指定)や、英日韓がミックスされた建築・美術の重厚さや、変態と残虐性とユーモアの同居や、韓流エンタメの底力などについては、下のテキストを始め、既にあちこちで異口同音に語られている‥‥

菊地成孔の『お嬢さん』評:エログロと歌舞伎による、恐ろしいほどのエレガンスと緻密|Real Sound|リアルサウンド 映画部

‥‥のでここでは措いといて、個人的にもっとも刺さった部分を中心に書きたい(以下ネタばれあり)。


舞台は1939年の日本統治下の朝鮮。スリ集団に育てられた孤児のスッキは、広大な屋敷に幽閉されている富豪の娘・秀子の財産を狙う自称「藤原伯爵」(実は朝鮮人)の詐欺師から、結婚詐欺の片棒を担ぐよう、秀子のところにメイドとして送り込まれる*1

幼い頃に両親を亡くし、希少本コレクターの叔父・上月の支配下にある孤独で純粋で美しい秀子に、スッキは徐々に惹かれていきやがて二人は愛し合う関係に。秀子への思いと詐欺師との密約の間で揺れ始めるスッキ。


しかしその「ストーリー」は三部構成の第一部で描かれるスッキ視点でしかなく、第一部最後のどんでん返しに混乱しつつ観ることになる第二部の秀子視点の語り直しでは、「真逆の事実」(騙されていたのはスッキであり、秀子と詐欺師は共謀関係)が明らかに。視点の切り替えによる主客と構図の転換は鮮やかだ。

同時に第二部では、没落華族の日本人女性と結婚し日本名に改名している秀子の叔父・上月の極めつけの変態性・嗜虐性が、ゴージャス且つ傾いた日本趣味とともに若干の滑稽味を持って描かれる。

行きがかり上対立する立場にはあるが、「下位」にある女たちを操作、蹂躙しつつ日本という支配層から金と性と文化をかすめ取ろうとする被植民地の男という点において、上月と詐欺師は相似形だ。*2


そして第三部は、第二部の最後にまたもや訪れるどんでん返しが一部と二部のすべてに折り返される中で、それまでの騙し騙されの関係性のメタレベルにあったものが浮かび上がってくる。

愛し合う女二人が共闘して怖い男どもをまんまと‥‥という流れは『バウンド』(ウォシャウスキー兄弟、1996)と似ているが、構成に二捻りくらいある感じ。*3


戦前の朝鮮半島というコロニアルな舞台設定でありながら、政治性は抜かれているという批評をどこかで見たけれども、私はそうは感じなかった。これは単に、絢爛豪華な趣味と意匠が周到且つふんだんにまぶされた騙し合いエロチック・サスペンス(というだけ)ではない。そこに描かれた政治と性の権力関係の複雑な重層性こそが要。

当時の政治的背景の中での日本人と朝鮮人の上下関係、階級社会の主従関係が、男女の性をめぐる力関係と重なりつつ、ダイナミックに横ズレしていく、そこがこの作品の最大のヤバさであり醍醐味だ。その中で入れ替わり立ち替わり現れる「非対称性」が最後、それぞれのかたちで「対称性」へと辿り着くプロセスは、非常に弁証法的。


以上の観点からまとめてみる。

 男1:詐欺師(日本人を偽る朝鮮人)      女1:スッキ(朝鮮人)

 男2:叔父の上月(日本人になった朝鮮人)   女2:秀子(日本人)

 ※>は権力関係を、〜は対等性を表す。


【第一部】

◯女1視点(テーゼ):男1・女1に騙される女2

 ▶明らかになる関係性

 ・男1 > 女1‥‥‥金品を餌にした詐欺師に共謀を持ちかけられるスッキ

 ・女2 > 女1‥‥‥日本人令嬢と朝鮮人メイドの主従関係


【第二部】

◯女2視点(アンチテーゼ):男1・女2に騙される女1

 ▶明らかになる関係性

 ・男1 > 女2‥‥‥上月からの解放を餌にした詐欺師に共謀を持ちかけられる秀子

 ・男2 > 女2‥‥‥叔父の上月と秀子の絶対的な上下関係(秀子の回想)


【第三部】

◯メタ視点(ジンテーゼ):女1・女2の共闘と、騙される男たち

 ▶明らかになる関係性

 ・女1〜女2‥‥‥「日本人>朝鮮人、男>女」の権力関係を出し抜き、結ばれる

 ・男1〜男2‥‥‥「日本人>朝鮮人、男>女」の権力関係に固着し、自滅する


終始一貫して、男も女も「女」を欲望している。

当初は「男女関係」をなぞっていたスッキと秀子のベッドシーン、つまり「男」という項を介在せねば成立しなかった女同士の性愛は、最後に「男」のいない形で成就する。遡ればそれは、第一部でのバスルームのシーンの、エロスといたわりの混合体に回帰したとも言える。

一方、女への「侵入」を拒まれたばかりか裏を掻かれた男たちは、一気に力を失い滅び去る。*4


物語は、二人の女の「性の対称性」が文字通りのビジュアルで示されて幕を閉じる。これは、男たちが構築してきた「支配する者とされる者」の抜き差しならない膠着的な非対称性を逃れていこうとする、「男いらない」系ダブルヒロインもののファンタジーだ。

そのファンタジー(夢物語)が、翌年から始まる太平洋戦争とその5年後の終結をどうやって生き延びたかは、観客の想像力に委ねられている。



●付記

ところで全然関係なくもない話だが、祖父は戦前、朝鮮に日本語教師として派遣されていた際に、朝鮮人の富豪から娘(私の母)を養女にくれないかと言われてその気になりかけたことがある。

「私、朝鮮の人になっていたかもしれない」と母は言った - Ohnoblog2

日本名に改名し、日本人の妻や娘をもつことでさまざまな利を得ようとした日本統治下の朝鮮人富裕層。そんな歴史のひとこまが、自分自身の出生に関わったかもしれないと思うと、存在の偶然性に鳥肌が立つ。

*1:ここで登場する女中頭の佐々木夫人、まるでヒッチコックの『レベッカ』のダンヴァース夫人のような不気味さと貫禄。無地の着物に刺繍の帯も印象に残る。あとどうでもいいことだが、スッキが若い頃の三田寛子に、秀子が若い頃の浅野温子に、秀子の少女時代が子どもの頃の綾瀬はるか(見たことないけど)に似ている。

*2:朗読会での秀子の大袈裟すぎる日本髪も、日本文化への上月の捻れた「憧れ」が膨らんだものに見える。搾取の構造に刻まれた、猥雑な欲望の数々。その「被害者」となって自死した叔母の苦しみを、秀子は内面化している。上月がいつも嵌めている黒の革手袋(蹂躙の徴)を朗読会で自分も嵌め、その手で自らの首を締め続ける所作は、SM小説の朗読演技と見せて、叔母の死を再演しているのだ。だがその僅かな「抵抗」すら、変態紳士たちの欲望に消費される。

*3:韓国人俳優による日本語のたどたどしさが最初少し気になったが、「伯爵」を名乗る詐欺師は下層から這い上がってきた朝鮮人、富豪の上月も日本人になりたくて日本人女性と結婚した朝鮮人、秀子は5歳で朝鮮に来たという設定でそれなりに納得(自殺する叔母は日本育ちのはずなのでもう少し発音が‥‥と思うところはあったけど)。

*4:追記:この構図は、去年『ダブルヒロインの「距離」』というトークイベントで話した「一見男性が関与しているように見えても、その目の届かないところ、力の及ばないところで、女同士の関係性が構築されていく近年のダブルヒロインもの」と一致する。参照:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20160919/p1

2017-03-20

近代文学が終わった後の『文豪とアルケミスト』

文豪とアルケミストと小林多喜二と日本共産党 - Togetterまとめ


『文豪とアルケミスト』というオンラインゲームで、近代文学の小説家(が現代に転生したもの)がキャラとして多数登場している中に小林多喜二も含まれており、それについて新聞『赤旗』が好意的に取り上げたところ、そのゲームのファンの一部が「政治利用だ」と憤慨しているという話。

それに対し、「小林多喜二はそもそも共産党で‥‥」などのツッコミが多数入っている。言い換えると、「元キャラの背後のコンテクストやコンセプト知ってるの?」。

一種の「断絶」である。


最初は「そういう文脈知らなくてゲームやってて面白いのかな」と思ったが、よく考えてみれば文脈込みで楽しむというのは、この「動物化するポストモダン」の時代には今や古典的態度だ。

「自分たちの好きなもの(蟹のハサミ持った「元反逆児」のキャラという虚構)が、嫌いなもの(左翼という現実)に紐付けられたのが厭」というのが、憤慨した人の感情だと想像した。そしてまた、そういう人はごく一部にしても、「昔の共産趣味(「党」ではない)的なものはまあOKだけど、今の左翼はなんか好きじゃないので、好感もたれてもちょっとね」くらいの人は結構いるかもしれないと思う。


『赤旗』も人気のゲームに小林多喜二が入っているのを能天気に言祝いでないで、「易々と資本主義に取り込んで消費するとはけしからん」くらいに怒ってみせれば少しは共産党らしいのだが、そもそも今の共産党が資本主義社会を前提としてしか生き延びる道がないので、ここであえて怒るという発想も生まれず、ネットのカルチャーに満面笑みを浮かべつつ「皆様に愛される共産党」を間接的にアピールしているという体たらくは改めて情けない。

‥‥と、元共産党員だった父が生きていたら言うだろう。


どんなゲームか見に行ったら、近代文学の作家が男性ばかり(腐女子対象?)選ばれていて、キャラの細かい差別化がかなり工夫してされている様子が見て取れた。まず「文学者萌え」というのが大前提としてあって、ゲームの中でそのバリエーションを作るために、歴史に登録された著名作家の特徴や個性を流用したという感じ。ゲームはやっていないが、現実には直接関わり合いのなかった作家同士がここでは出会う、という面白さもあるのかもしれない。

【文豪とアルケミスト】これからは文豪男子!?キャラクターまとめ【文アル】1/10現在 - NAVERまとめ


ちなみに一介の現国教師だった父は地味に島崎藤村『夜明け前』を研究(未完)していたので、キャラ化されたのを見たら「コレが藤村か!(眼鏡がないじゃないか!)許しがたい!」とまず激怒し、その他のキャラ設定をじっくり見ていくうちに「うーむ。まあ基本は一応押さえてあるか。でもなんでマンガでゲームなんだ。作品を読めばいいじゃないか(つまりよくわからん)」となっただろう。戦前生まれの人だから。

実在した人物をここまで非実在(キャラ)案件にしていいのか問題もあると思うが、それはここでは措く。



この件に少し似た「断絶」を昔、アートの分野で経験した。

某芸術系大学の「現代美術演習」という授業で、普段の作品を持ってきてもらって講評していた時のこと。

「なぜこのモチーフ? どこから出てきた? コンセプトは? あなたにとって絵画って何? 美術史のコンテクストにどう位置付けてるの?」と、(私も若かったもので)矢継ぎ早に質問していたら、キレられた。

「ただ好きだから描いてるんです! 絵が好きだから! 好きってだけじゃダメなんですか? コンセプトとかそういうんじゃなくて。コンテクストって何ですか? 美術史とか関係ないです」


ただ好きでやってるだけの人が「現代美術演習」の授業に何を求めて来ているのかわからないけど、山の中に籠って山水画描いてるわけじゃないんだし、明らかに近代以降の絵画だし、何らかの意味作用を作り上げているように見えるし、そこに現代的な文脈を読もうとするのは普通。「現代的」ということは歴史を前提にしているということで。絵画って歴史的なものだから。大学来てるなら最低限そこは押さえないと。

などということはもちろん通じない。とことん通じない。

結局、「自分の好きなもの(絵)が、嫌いなもの(コンセプトとかコンテクストとか)に紐付けられたのが厭」で、それはもう感情的感覚的なものなので、何をどう話そうが入っていかない。


好意的に解釈すれば、その人はたまたま芸術系大学に来てしまっただけで、実質は既に「アートの役割が終わった後」を生きていたのかなと思う。

近・現代(現代は近代のシッポ)のアートは、世界に対して何らかの課題を設定すること、言い換えれば世界の「亀裂」を希望として見出すことに存在意義があり、だからこそコンセプトやコンテクストといった批評性が重視されてきたのだが、亀裂の埋め尽くされつつあるこのグローバリズムの中で、そういう使命的「前衛」的なあり方が実質的に難しくなっている(共産党と同じく)。

もちろんアウトサイダーアートのようなものや、趣味や商業としては昔からあるように存続していくし、そっち方面で盛り上がっていくかもしれない。その中で、かつて「アート」としてあったものが文脈解体され、あちこちでリサイクルされていくのはおそらく必然だ(件の学生の作品も、そういうものとして見るべきだったと、今は思う)。


近代文学も、アートとほぼ同様の位相にある。近代文学が終わった(by柄谷行人)から、近代文学をリサイクルしている『文豪とアルケミスト』や、非政治化されたそれを虚構として楽しむ者が出てきたのだ。

というわけでこの件については、各専門分野から掘り下げた考察が上がるのを期待。



●追記

Twitter見たら、えらいことになってる。