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2016-06-30

映画レビュー更新。ジュリア・ロバーツとキャメロン・ディアスのあれです。

サイゾーウーマンに連載中の映画レビュー『親子でもなく姉妹でもなく』第五回、アップされています。


年上女が小娘に負けるのは「若さ」ではない――『ベスト・フレンズ・ウェディング』に見る解


『ベスト・フレンズ・ウェディング』(P.J.ホーガン監督、1997)は、ジュリア・ロバーツとキャメロン・ディアスが共演したロマンチック・コメディの傑作。ご覧になっている方も多いと思います。

キャメロン・ディアスが、愛称キムで呼ばれる富豪の娘をチャーミングに演じて、コメディエンヌの持ち味を見せていたのが印象的です。この年はその後『普通じゃない』、翌年は『メリーに首ったけ』に主演して一挙にスターの仲間入りをしました。

しかし何といっても、ジュリア・ロバーツが素晴らしいですね。こういう、一見自信と余裕たっぷりのキャリアウーマン(死語)でいながら、肝心なところでダメな役が、とても巧いと思います。

エリン・ブロコビッチ』の評価が高い彼女ですが、私が好きなのはこの作品と、前に取り上げた『モナリザ・スマイル』です。


いろいろな歌が使われていて、一番盛り上がるのは親族のランチで全員が歌い出す場面ですが、物語の中で重要なのは「The Way You Look Tonight」。この大切な想い出の曲を、ジュリア・ロバーツが結婚する二人に贈るシーンで、私はいつも涙が出ます。


シナトラの歌でどうぞ。

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2016-06-21

過ぎていく

連載の告知以外で記事を書かずに、一ヶ月ほど過ぎてしまった。

前は一週間以上間が空くと「何か書きたい」という気分になっていたが、最近はそれがなくなってきた。そろそろ終わりだろうか。


以前より熱心にネットを見なくなり、お気に入りに上がってくる記事も、ほとんどタイトルを見るだけで過ぎていく。たまに読んで、「なんか書こうかな」と思った傍から、「このテーマでは前に書いたわ」と思い直し、それで過ぎていく。

日常は、外仕事(講義)、内仕事(原稿書き)、犬、親(双方の独り住まいの親の家事手伝い及び様子窺い)、内仕事、着物(お出かけ)、外仕事、犬、親、内仕事‥‥という感じで過ぎていく。

その中で「うわぁ」とか「やれやれ」とか思うことがたまにあり、思ったことを書いてみようかと思うが、その気持ちも大抵はすぐに消え失せて過ぎていく。

この何もかもが「過ぎていく」感じは、列車の車窓から外を眺めている時の感じに近い。


毎週、仕事で名古屋-京都間を往復する。新幹線の席は必ず窓際を予約。外を見るのが好きだから(子どもか)。

周囲を見ると、大抵はスマホタブレットやパソコンの画面を見ているか、本や週刊誌や書類と思しきものを読んでいるか、寝ているか、隣の人と喋っているかで、外を見ている人はほとんどない。たぶん退屈だから。

車窓に広がる田園風景、遠くの山々、工場、川、森と林、点在していた集落が大きくなって小さな街を通り過ぎると、また田園風景が広がっている。

そういう景色を眺めている時間が私は好きだ。正確には、退屈な風景が退屈なまま移り変わっていく様を、ぼんやり見ている時間が。


頭にさまざまな思念が浮び、まとまったかたちにならないうちに消えていく。風景が後へ後へ飛び去っていくのに似ている。

見るものも思念も自分でコントロールできない状態に、身を委ねる。この受動性の中にある諦めの混じった心地よさと一抹の無力感。

このように人生は過ぎていくのかと思ったりする。いや、こんなふうに無難には過ぎまいと思ったりもする。

降りるつもりのなかった駅で降り立ち、眺めるだけだった風景の中に足を踏み入れることは、この先まだあるだろうか。

2016-06-04

連載エッセイ「絵を描く人々」第二回のお知らせ

絵を描く人々 第二回 「カッコいい」と「かわいい」、そしてエロい


WEBスナイパー(18禁サイト)に好評連載中の「絵を描く人々」、今回は男の子文化と女の子文化における「描く」について考察しています。


子ども文化におけるジェンダーは、お絵描きにも少なからず反映されます。

男の子の描きたがるものと女の子の描きたがるものには、子ども時代のある時期、かなり明確な違いが見られます。さらに、男の子の方は所有欲や支配欲が投影されやすく、女の子は自身の理想像を描こうとする傾向があるようです。

そこに潜む「エロ」への志向とは何か。


というわけで、「描くこと」の中にある(広い意味での)性欲についても触れました。

必死でエロいものを想像してノートに描いていた小学生‥‥それは私です。

2016-06-01

映画レビュー第五回は『危険な関係』

サイゾーウーマンに連載中の映画レビュー『親子でもなく姉妹でもなく』第五回、アップされています。


愛人に復讐する女×世間知らずの若い女――『危険な関係』に見る、女の黒い感情の終末


噂と虚飾に満ちた社交界で、人間関係をコントロールし己の復讐心と嫉妬心を満足させようとした女性が、奸計に自ら足を取られ「炎上」するまでの話。

映画化された『危険な関係』の中でも特に、この1988年のハリウッド作品が私は好きでDVDでの鑑賞頻度も多いですが、見れば見るほどグレン・クローズメルトイユ夫人に感情移入していきます。‥‥‥歳のせいかもしれません。


公開当時、プレイボーイ役のジョン・マルコヴィッチはミスキャストとの声もあったそうですが、ツルリとしたイケメンよりセクシーさといかがわしさが前面に出ていて、個人的には当たりだと思います。

キャットウーマンをやる前のミシェル・ファイファー、初々しいキアヌ・リーヴスとあどけないユマ・サーマンも拝めます。ロココの衣装や室内など見所もたくさん。


イラストは、グレン・クローズとミシェル・ファイファーです。本文と合わせてお楽しみ下さい。


危険な関係 [DVD]

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2016-05-23

「村」に関わって弾かれた話

(※「はてな村」のことではありません)


ある展覧会で自分の展示状況に明らかな問題があったので、搬入を請け負った世話役の人に聞いたら、「問題はわかってたけど、みんなに気を使って言えなかった」と言われて驚いたという出来事のその後について。

私からの抗議と先日の記事が「みんな」に知らされたようで、その一人から、

「なぜ展示画像を送らせて改めて指示しなかったのかと、誰でも思うと思う」(この問題はあなたにも非がある)

「あれは自分にとってはプライベートな作品展。生存確認的なもの。みんなもそう思っているはず」(だからいちいち細かいことを言うな)*1

というメールが来た。つまり、私の怒りは不当という遠回しの非難だ。


先日書いたので繰返さないが、こういう展示のケースで、あそこまで”意外”なことをされ、それを放置されるかもしれないと想像するのは、難しい。

信用を裏切られたかたちになったから抗議し、誰かが「この作品の展示は本来はこうではなかった。コレがアレしてこうなってしまった」とアナウンスしてくれるわけではないので自分でしているのを、なぜ咎められるのかさっぱりわからなかったが、考えていてああそうかと思った。

そこは「村」だったのだ。


「村」では誰かの責任を問うと、必ず「みんな」が持ち出される。個人の意向は「みんな」の空気に簡単に覆される。

そして「村」では、何よりも”和”が尊ばれる。疑義を提出したり異論を唱えたり人の間違いを問いただしたりして、その”和”を乱す者は困り者。そこで、こういう物言いがよくされる。

「あなたにも問題がある。みんなもそう思っているはず」

「これはこういうものなのだ。みんなもそう思っているはず」


「みんな」はどうか知らないが、自分はこう思っていると言えばいいところを、勝手に「みんな」の代表となって、一人に圧をかける言表

「そんなふうに考えるのはあなた一人だけ。だから、あなたがおかしい」という、「みんな」を頼んだ論理。

こうしたものがまかり通っていくようになると、場は見えないところから澱み、腐敗していく。でも、そこに留まっている人は何も感じない。自分=「みんな」だから。



改めて言うまでもないが、美術に関わる人はさまざまであり、関わり方も多様だ。だが今回の場合はそういう「美術村」ではなく、どちらかというと「女子村」だった。思えば私の一番苦手とするところだった。

うっかりそういう「村」に素で関わってしまったのだなぁと、今更ながらに反省した。*2


翻って、私も彼女たちから見れば、別の「村」の住人なのかもしれない。一体何にそんなに細かく拘っているのかわからない、別の「村」特有の論理で生きているように見えるのかもしれない。

それはどんな「村」なのだろう。いつも、自分の依って立つ場所の輪郭はよく見えないのだ。

*1:「プライベート」で「生存確認」が目的なら、わざわざ街のギャラリーを借りて行う必要はないのでは。誰かの家かアトリエでやればいい。DMを刷りギャラリーで発表している以上、不特定多数に開いている「公」な面を持つのは必定。「集まって楽しむことが大事なので、それ以外のことにそんなに神経質になる必要はない」と思っているなら、展覧会というものに対して根本的に感覚や考えが違うので対話は無理だと思う。‥‥という内容の返事を書いたら、即座に「これは全く理解し合えない事」だという返答が来た。

*2:「みんな」がキャッキャウフフと楽しんでいる場に途中から入ってきて、「遠慮のない指摘を」という言葉を真に受け、「みんな」が気に留めていない問題点をあれこれ挙げてその原因を探ろうとするような女は、場をしらけさせるので嫌われる。