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2018-10-14

清濁合わせ呑んで闘う女の新しい描き方『女神の見えざる手』(「シネマの女は最後に微笑む」更新)

現代女性の姿を映画からピックアップする「シネマの女は最後に微笑む」第23回は、ジェシカ・チャステイン*1主演の『女神の見えざる手』(2017)を取り上げてます。銃規制をめぐる敏腕ロビイストの暗躍を描くサスペンス。


何のために働き、闘うのか? 非情なまでに信念を貫くロビイスト-ForbesJAPAN


女神の見えざる手 [Blu-ray]

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間然とするところのない展開に驚くべき仕掛けが施されていて、一回観ただけでは細部がどう連関していたのかよくわからないところもあり……私はDVDで2回観ました。


この作品は、ジェシカ・チャステインが演じる主人公のキャラで、半分以上成功しています。

仕事に生きるキツめの女はこれまでたくさん描かれてきましたが、ヒロインに見え隠れする”歪み”については、恵まれない生育環境とか親との確執とか隠されたコンプレックスとかジェンダー的な社会背景など、何らかの要因が匂わされていました。それをまったく描かなかったところが新鮮です。「言い訳」がないのです。

従って観る者は、彼女の若干”黒い”側面をそのまま受け取るしかなくなります。そこも含めて魅力的な人物造型に成功しているところが面白いと思いました。

*1:文中、「チャスティン」になっていますが正しくは「チャステイン」です(編集者に修正要請中)。

2018-09-23

育ちのいい小金持ちマダムをベタだが爽快に演じて成功(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

現代女性の姿を映画からピックアップする連載「シネマの女は最後に微笑む」第22回は、『しあわせの隠れ場所』(2009、原題はThe Blind Side)を取り上げてます。


困った人がいたら助けること 行動派セレブマダムの自信と誇り| ForbesJAPAN


しあわせの隠れ場所 [DVD]

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アメフト選手マイケル・オアーノンフィクションに登場する、彼の里親になった女性にスポットをあてた良作ですが、前回に続いて「背中が痒くなる邦題のついた洋画」です。安易に「しあわせの〜」で始まるの、多過ぎると思いませんか。



お金持ちで、夫は物わかりが良く、子供はいい子たちで、共和党支持者で、全米ライフル協会の会員‥‥。個人的には一つも共感要素がない女性リー・アン・テューイを、厭味なく演じたサンドラ・ブロックがなかなか良いです。ちょっと大味なところが苦手な女優でしたが、これは彼女の持ち味が活かされている、というかサンドラ・ブロックのための映画と言ってもいい。

こんな「善行」など白人の贖罪意識からじゃないか?とか強者だの弱者だのごちゃごちゃ言ってる間に、目の前の困った子供を助けるべきよ!(私たち金持ちは!)‥‥というメッセージもシンプルです。一見鼻につく偽善が本物になっていくところが、まあすごいですね。


細かいカットで書きそびれたことを一つ。

マイケルがテューイ家に来た夜、リビングテーブルの上に、ノーマン・ロックウェルの画集がいかにも!な感じで置いてある。表紙は、感謝祭のダイニングテーブルに揃った幸せそうな白人家族。 かつて「The Saturday Evening Post」の表紙を飾ったものと思われます。

奇しくも翌日は感謝祭。昔の慣習とは違い、テレビでアメフトの試合を見ながらそれぞれ好きなポジションで料理をパクつくテューイ一家と、一人ダイニングテーブルについたマイケル。それを見たリー・アンは家族を同じテーブルに呼び、手をつないで感謝の祈りを捧げるよう促す。登場人物がロックウェルの絵とよく似た構図になる。もう、いかにも!です。

この映画が今ひとつ「軽い」感じがするとしたら、細部の回収がベタでわかりやす過ぎるというところかもしれません。でもサンドラ・ブロックの演技を見るだけでも楽しいです。

2018-09-15

80年代の名古屋に「アートシーン」はあったのか

以下は3年ほど前、「80年代のオルタナティヴなアートシーンについての資料集を編纂するので、当時の名古屋の状況について書いてほしい」という、知り合いの東京の美術関係者の求めに応じて書いたものです。結果的にその企画は頓挫し、私の原稿は宙に浮いた状態になっていたので、ここに公開しておくことにします。

82年に藝大彫刻科を卒業し名古屋に戻ってきた私の眼から見た「シーン」であり、自分語りもそこそこ入っていることをお断りしておきます。


80年代の名古屋に「アートシーン」はあったのか –––––––– 大野左紀子



いくつもの現代美術のコマーシャルギャラリーが国内外の有名作家を取り扱い、コレクター人口も多く、80年代後半から90年代前半にかけて非常に盛り上がっていた‥‥そういうイメージで語られることの多い名古屋。確かに「現代美術は名古屋」と言われた時代があった。

もちろんそれは名古屋の画廊業界の「商業シーン」であり、作家たちの中から生まれてきたオルタナティヴな美術潮流という意味での「アートシーン」ではない。では、そうしたアートシーンは、80年代の名古屋にあったのだろうか。


ここでは最初に、80年代冒頭までの名古屋の概況を見た後、82年から88年頃までの状況を語ってみたい。アーティストになりたてだった一個人から見た名古屋の風景であり、出来事の漏れもあるだろうことはお断りしておく(以下、個人名の「氏」は省く)。



1. 80年代冒頭までの状況


この地に公立芸大である愛知県立芸術大学(略して県芸)が開校したのが66年、次いで翌年、名古屋造形芸術短期大学(略して名造形、今は四年制)、その翌年に名古屋芸術大学(略して名芸)が開校した。

画廊は、桜画廊(今はない)が74年に唯一の貸し画廊から現代絵画、彫刻を扱う企画画廊となった後に、若い作家の実験の場としての性格をもったスペースや画廊が幾つかオープンする。


まず、反万博反日展など「美共闘」の活動をしていた鈴木敏春らが、74年に「8号室」というフリースペースを立ち上げ、同世代のアーティストや後に評論家となる三頭谷鷹司らが集まる。

76年には彫刻家の国島征二の尽力でギャラリーUがオープンし、83年まで評論家中村英樹企画で若手中心の展覧会を行った(名造形で教えていた中村氏は78年に東京芸大油画科榎倉教室で特別講義をしており、その時の川俣正や保科豊己らとの出会いが、後にA.S.G.という私も関わることになるギャラリーの企画へと繋がっていく)。

U通信というフリーペーパーには、宇佐美知恵丸、三浦幸夫、林まさみつなど、50年代前半生まれの作家たちが寄稿している。Uの作家たちは「8号室」とも交流があったようだ。

77年には名造形の第一期卒業生である小塚夫妻が、企画とレンタル二本立てのギャラリー・ウエストベス(現・ウエストベスギャラリー・コヅカ)を立ち上げる。


こうして70年代末には、上記の二つの他に、ギャラリー・ユマニテ、ボックス・ギャラリー、伽藍堂ギャラリー、ギャラリーはくぜん、ギャラリーたかぎ、アキライケダギャラリーなど、コマーシャルギャラリーも含めて10軒ほどのギャラリーが、名古屋の中心街に存在していた。



2. 先行世代への違和感

 

大学受験を機に上京し、予備校と藝大時代の合わせて5年間を東京で過ごして私が名古屋に戻ったのは23歳、1982年の春。

当時の名古屋の現代美術の傾向を大雑把に言えば、抽象絵画と彫刻、コンセプチュアルアートミニマルアート、もの派の流れを組む立体が混在しているという雰囲気だった。

1921年代生まれの彫刻家、久野真が名古屋の現代美術界の大御所であり、その下の世代ではコンセプチュアルアートの水上旬、布の空間彫刻の庄司達、石彫家の石黒、現代陶芸の鯉江良治、そして更に下の国島征二や久野利博など、30年代から40年代生まれの中堅作家の存在感が強かった。


同世代の人々の動向はよくわからず、出身高校の美術科から地元の芸大に進学した同級生からも、仕事で行っていた河合塾美術研究所で出会った愛知芸大出身の講師たちからも、「名古屋の現代美術シーン」のような話は聞けなかった。

東京で毎週のように誰彼の展示の話題を耳にし、目の前で新しい美術(美術未満だったのかもしれないが)がうねりをもって動いているという実感を覚えていた私にとって、久しぶりに帰ってきた名古屋はどこかつかみ所のない場所だった。


一年後の83年、A.S.G.というギャラリーで初めての個展を開催したのをきっかけに、徐々に人間関係や場所との関係ができていくのだが、その前の状況について少し記しておきたい。

82年、「8号室」に集っていたメンバー、鈴木敏春、よねずたつひこ、三浦幸夫、鈴木一之によって、美術批評紙「オン・ザ・ビーチ」創刊号が発行される。美術館を初めとする制度への批判姿勢を内包した内容が多く、いくつかのギャラリーに置かれているそれを、U通信と共にいつも読んでいた。


同年の目立った自主企画展としては、11月27日から12月29日まで、栄セントラルパークイベントコートと名古屋市博物館(レンタルスペース)で開催された「WOMEN’S ART NOW 14人から∞へ」が挙げられる。参加者は遠藤喜子、ノブコウエダ、*平林まさこ、*大嶽恵子、山本裕子、*高木豊子、*川上明子、*武谷直子、沼尻昭子、アキサトミチコ、*河内馨子、こじまのブコ、*栗本百合子、*上松真美子(*印は愛知県在住の作家)。

東京では60年前後の生まれの若い女性作家たちが「超少女」などと名付けられていた頃だが、こちらはそれより10歳前後上の作家たちだ。「オン・ザ・ビーチ」2号に掲載されたインタビューで大嶽恵子が、「美術の中で切り捨てられていた大事なものと、女性達との状況とが似ていて、そういうものがうまくいっしょに出て来たらいいなという感じ」と語っている。

展示はもの派やコンセプチュアルアートの流れを汲みつつ、若干ふわっとした表現が多い印象を受けた。この中で私がその後も継続して見ていったのは、結局”女性性”に依拠しない作品を作り続けた栗本百合子だけである。


「オン・ザ・ビーチ」にしてもこの展覧会にしても、一世代上の作家たちの既存の場への疑義に共感するところはあったが、言葉遣いや作品は「コレじゃない」と思った。そこにある「制度への抵抗」の仕方は、私からはあまりに素朴に見えた。



3. A.S.G.という場


さて前後したが、81年に名古屋の中心部からやや離れた住宅街の中にオープンしたA.S.Gは、一階がギャラリースペース、二階が「がらん屋」という居酒屋となっている建物で、店主の蛍川詠子がオーナー、中村英樹が当初の2年間の企画をしていた場所である。

オーナーの意思で、作品を売買する商業画廊ではなく、展示に伴う諸経費はがらん屋の売り上げで賄い、若い作家が自由に実験的試みを行う場としたいということだった。広い室内外の空間に加え、搬入期間二週間、展示期間三週間半という、インスタレーション系の作家にとってはかなり魅力的な場であった。

がらん屋はその主旨に賛同する一般客(特に関心に高い常連客を「がらん屋有志の人々」と呼ぶ)や、建築、演劇関係の人などが集まる特異な空間となっていた。


オープンの81年から82年にかけて、東京からは川俣正、保科豊己、千崎千恵夫、竹田康宏、三宅康郎、田中睦治など芸大油画出身の若い作家たち、名古屋は、庄司達、今井瑾郎、今井由緒子、金田正司、沢居曜子、真島直子など、やはり空間的スケールのある作品を作る若手から中堅作家たちが個展をしている。

まだ私は東京にいた頃なのでそのすべてを見たわけではないが、名古屋の中ではかなり異質な場だったと思う。帰郷して一年、週に3〜4日予備校で働き、残りの日は住まい兼アトリエの小さな借家で制作をするという生活を始めた私は、83年の5月にA.S.G.で初めての個展を開催した。オープニングの夜は二階のがらん屋で、恒例になっている「夜話会」という作家と観客とのフリートークが行われた。


後で聞いた話だが、A.S.G.はオープンから2年を過ぎて、がらん屋の経済問題で一時存続が困難になっていた。この状態について、東京でパレルゴンIIを運営していた三宅康郎から「こちらにはやりたい作家がたくさんいるので企画を持ち込む」「会場維持費を除く展の直接経費を作家負担としては」という提案があり、それを受けて83年度は、名古屋の作家は庄司達、東京の作家は三宅康郎が推薦して年間企画を立てるというかたちになっていた。

この年度にA.S.G.で個展を開催した作家は、(順に)*大野左紀子(5.10〜29)、青木一也(6.7〜26)、*渡辺英司(7.5〜24)、小林良寿(8.2〜28)、岩崎元郎(9.6〜25)、坪良一(10.4〜23)、*磯部聡(11.1〜27)、*大田龍男(12.6〜25)、酒井信一(1.10〜29)、蔵重範子(2.7〜26)、田代睦三(3.6〜25)。


運営母体が明確でない不安定さが常につきまとっていたが、普通の画廊とは異なる一般客(社会)との近さと空間の開放感に惹かれ、私はA.S.G.に積極的に関わるようになった。「満虚空」というフリーペーパー(「夜話会」の記録や展示寸評など)も不定期で発行し始めた。

また、毎月最終金曜の夜を、さまざまなジャンルの人ががらん屋に集まって語り合う日とした。特に、数年上の磯部聰、県芸の学部生だった横川耕介といった自分と近い年代の二人とは、名古屋の状況や美術や場のあり方についてよく議論をした。



4. 自主企画持続の困難


84年1月25日、今後のA.S.G.の運営について、磯部と大野の呼びかけでミーティングが開かれた。参加者は庄司達、今井瑾郎、三頭谷鷹司、大田龍男、横川耕介、磯部聡、大野。

「名古屋の中ではまだアピール度が低い」「客が少ない。特に美術系の若い人の関心が薄過ぎる(なぜか東京の方が関心が高い)」という問題が指摘され、それに対して「運営主体や企画性が明確に見えないからでは」「ただ物理的自由度の高い空間というだけでなく、中心をもって方向性を打ち出していくことが必要では」という意見が出された。

だが誰も「自分が今後企画運営の中心となる」とは言わなかった。多忙な上の世代はもちろん、大学を出たばかりの私にとっても、それはあまりに荷が大きかった。


結局、84年度のスケジュールは有志作家による企画選考ではなく、自主企画の申し込みによって予定を立てることとなり、その実務面を私が引き受けることとなった。

84年度の自主企画で個展を行った作家は以下の通り。*関野敦(4.3〜22)、佐々木悦弘(5.1〜20)、菊池敏直(9.4〜23)、*小島久弥(10.2〜21)、奥野寛明(11.6〜25)、丸山浩司(12.4〜23)、天野豊久(1.8〜27)、*横川耕介(2.5〜24)、平戸貢児(3.5〜24)。

この年の10月に再度経営危機問題が持ち上がり、がらん屋有志の人々の提案で一口五千円の基金を募ることとなり、名古屋、東京などから五十人の賛同基金を得た。


対外的には「有志作家による運営」を謳っていたが、その母体はあまり明確ではなかった。つまり責任者がいなかった。そして依然として経営危機は改善されなかった。

私はがらん屋有志の人々の助けを得ながら実務を続けたが、自主企画はなかなか持ち込まれず(なので知り合いの作家に声をかけたり、自分でパフォーマンスの企画を打ったりした)、観客もあまり増えなかった。

ほとんど一人で書いているフリーペーパー、若い人々の反応の鈍さ、なんとなく遠巻きに見ている感じの名古屋の美術業界。それにしても、この人の少なさは何なんだろう‥‥。こうして、苛立ちと漠然とした孤独感を覚える中で次第に、現状に対する自分の無力さを噛み締めることとなった。


85年度の自主企画は、「IN THE SKY」(5.10〜26/浜島嘉幸企画のパフォーマンス9days/参加者:浜島嘉幸、依田茂理予、金田正司、宇佐美知恵丸、磯部聡、中島智、落合竜家、大野左紀子)、渡辺英司(6.8〜23)、近藤珠実(7.6〜21)、「SUMMER TIME SHOW」(8.9〜18/大野企画のパフォーマンス週間/参加者:ころばぬ先のつえ、西澤武、柳澤穣、真野和彦、石井晴夫、大野左紀子)、福島隆(10.5〜20)、石原寿幸(10.26〜11.10)、木野村竹夫(11.16〜12.1)、宇野女宏平(12.7〜22)。

良い展示や試みもあったが、A.S.Gの初期からすれば明らかに弛緩した、方向性の見えない状況だったと思う。

この年をもって私は実務から退き、個人的な事情も重なってこの場から徐々に足が遠のいた。A.S.G.はその後オーナーの死去まで十年ほどフリースペースとして維持された。



5. 大学の保守性と日グラの影響


なぜ名古屋の若い作家や地元の芸大、美大生たちが、あの場にあまり関心を持たなかったか、DM制作費だけはかかるとは言えここで自分たちの実験をやろうと思わなかったのか、今ならなんとなくわかる。

まずもともとスケールのあるインスタレーション作品展示の場として始まったので、絵画や彫刻が展示しづらいイメージがあったこと。東京の作家(というか東京芸大出身の作家)が多いという印象や、一般の観客と距離の近いがらん屋の独特な雰囲気が敬遠されたということもあるかもしれない。

さらに場所の問題。他の画廊からポツンと離れており、郊外にある県芸(学生、卒業生の多くが大学近くの長久手に住んでいる)、名芸からもかなり離れている。名造形だけは当時市内にあったがやや遠かった。


大学に関しては、距離的な遠さだけではない。県芸と名芸に顕著だったが、当時は団体展系の教官が多く学生が現代美術へと向かうのを好まない傾向があった。

この頃の県芸の卒業制作展は、洋画は国画会の島田省三、彫刻は新制作協会の作家の影響が色濃く現れている。名芸の洋画、彫刻は伝統的に日展系作家の影響力の元にあった。また、芸術学科がまだどこの大学にもなく、若いディレクターや批評家が育つ土壌もなかった。


80年代の終わり頃、県芸出身で20代の作家四、五人が、相次いでデュッセルドルフに留学している。奈良美智もその一人だ。彼らには地元での発表活動より、より自由度の高い教育機関、重しやしがらみのない環境で学び直したいという欲求があったのだと思う。

名造形は比較的リベラルな雰囲気があったようだが、いずれにしても名古屋は、現代美術を志向する人数そのものが、東京などと比べると圧倒的に少なかった。


もう一つの大きな要因として、この当時学生や若い作家の注目を集めていたのが、パルコ主催の「日本グラフィック大賞展」「日本オブジェ大賞展」であったこと。後者は地元から大賞受賞者が出たこともあり、強い関心を惹起していた。

大学の先生の所属する団体展に出す気はないが、レンタルギャラリーでコツコツ発表しながら企画の声がかかるのを待つのも、自分たちで自主企画を打っていくのも、お金と時間がかかって大変だと思っていた現代美術志向の若い層の少なくない部分を、あれらの公募展は吸収していたのではないか。

ちなみに名古屋周辺の若いアーティストたちがあちこちで自主管理・運営のスペースを立ち上げ出すのは、コマーシャルギャラリーが撤退していく90年代末からである。



6. 活性化と停滞


80年代前半の名古屋近辺の動きとしては、河合塾美術研究所が名駅校舎(後に千種校舎に移転)の中にギャラリーNAFを開設し、塾生展や講師の個展の他、戸谷成夫など県芸出身作家の個展を行った。83年6月には名古屋造形短大がDギャラリーを開設し、オープニングとして中村英樹企画「名古屋 八十年代の平面展」を開催した。

それとは別の動きとして84年の夏、有志の建築家、舞踏家、音楽家、美術家、陶芸家などが実行委員会を作り、名古屋港近くの鈴代倉庫で「WAYA祭1984」(WAYA=「わや」とは名古屋弁で「めちゃくちゃ」という意味)が開催され、20代の美術家たちも参加している。都市の規模が小さく各ジャンルの人々が交わりやすい名古屋ならではの、ある意味で画期的な催しだったが、美術に関して言えばやや発散的なところに留まった感は否めない。


80年代後半になると空気が変わってくる。まず作家個人の動向としては、名古屋芸大出身の若い画家、吉本作治がアキライケダギャラリーに見出されたのをきっかけに、ニューヨークの大手ギャラリーで個展を開催するという華々しさで注目を集めた。

86年にギャラリーたかぎのオーナーが所有していた広大な敷地と建物を利用したICA名古屋というアートセンターがオープンし、国際交流基金の南條史生(現・森美術館館長)がディレクターとして迎えられ、マリオ・メルツ、ボルタンスキーなど海外有名作家の展覧会が開催され、名古屋以外からも人を集めるようになる。

一方、87年から88年にかけて、名古屋市文化振興事業団の主催で、名古屋の若い作家をセレクトした三つの現代美術展が開催された。茂登山清文企画「現代美術の世界像(コスモロジー)」(87.3.14〜29、ICA)、三頭谷鷹司企画「現代美術・名古屋1988『深層の森』」(88.3.16〜27、名古屋市博物館)、複数の作家と事業団の合同主催(企画準備会:久野利弘、酒井宣、庄司達、平岡博)の「都市空間と木の造形展」(88.9.30〜11.3、名古屋市美術館若宮大通公園)。

88年は名古屋市美術館がオープンし、現代美術を扱う画廊が増え、名古屋コンテンポラリーアートフェアが始まる。美術活動=商業ベースが当たり前という認識が、同世代の作家の間に広がったように感じた。


80年代の名古屋において、場をめぐる作家主体の動きとしてはギャラリーUとA.S.G.、展覧会としては「WAYA祭」、「都市空間と木の造形展」ということになるが、それらがなんらかのアートシーンを形成していたとはやはり言えないだろう。一時的には盛り上がるが次には繋がらないものだった。そこに批評的、思想的核のようなものが欠けていたからだと思う。

「言葉が足りない。どこに行っても美術業界の話ばかり。誰も美術について語らないのか」という鬱々とした思いを抱えつつ、私も画廊での個展が中心の活動へと移行していった。

コマーシャルギャラリー隆盛の94年、名古屋芸大で教えていた茂登山清文、美術家の丹羽誠次郎らと共に美術批評誌「Lady’s Slipper」創刊準備号を刊行するが、それはまた別の話である。

2018-09-08

ヒロインとともに旅する映画『わたしに会うまでの1600キロ』(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第21回は、リース・ウェザースプーン主演の『わたしに会うまでの1600キロ』(2014、原題は『Wild』)。メキシコ国境からカナダ国境に至る長距離自然歩道を、一人でハイクした女性の実話が元になっています。


大自然の中の過酷な旅、過去を生き直す女性の実話 | ForbesJAPAN



過酷なハイクとヒロインの「生き直し」が重ね合わされている本作、とってつけた感じのするライフハック(?)みたいな邦題は、個人的にちょっと残念ですね。

これがネックになって劇場でも観なかったし、DVDもずっと避けていたのですが、R.ウェザースプーンが自ら会社を作って制作を手がけたということを知り、観てみました。シェラネバダ山脈などをはじめとして、アメリカの雄大な自然の景観の移り変わりがすばらしく、大画面で観ても良かったなと思いました。


印象的なエピソードがひとつひとつ積み上がっていく中で、観る者はヒロインと一緒に旅をしている感覚になります。そして最後に彼女が受け取る、とてもささやかだけれど思いがけない贈り物を、私たちも受け取ります。その「尊さ」に鳥肌が立ち、涙が出ました。

辛い場面もありますが、見終わった後、不思議なすがすがしさに包まれる本作を通して、R.ウェザースプーン、いい女優だなと改めて思いました。

2018-08-29

トークライブ登壇のお知らせ

みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2018に関連して、東北芸術工科大学で行われる展覧会の関連企画トークライブに登壇します。

AGAIN-STという彫刻を考える集団の一人で、学芸員の石崎尚さんからオファーを頂きました。今回は「カフェと彫刻」がテーマだそうです(https://www.facebook.com/events/1033390630170615/)。

お近くの方は是非どうぞ。この他、いろいろな催しものがあります。

https://biennale.tuad.ac.jp(←公式ページには、本トークイベントの情報はありません)


AGAIN-ST第8回企画「カフェのような、彫刻のような」


●会場=NEL MILL

  東北芸術工科大学 芸術研究棟Cギャラリー(ROOTS & technique)

  〒990-9530 山形県山形市上桜田3丁目4−5

●日時=期間中の金・土・日・祝日(9/1, 2, 7, 8, 9, 14, 15, 16, 17, 21, 22, 23, 24) 10:00〜17:00

●出品作家:L PACK.(エルパック)、保田井智之、吉賀伸、AGAIN-ST(アゲインスト)(冨井大裕、深井聡一郎、藤原彩人、保井智貴)

●トークライブ:「カフェのような、彫刻のような」

  9月1日16:30〜18:00

  会場:NEL MILL(ROOTS & technique)

  参加者:AGAIN-ST+大野左紀子(文筆家)


f:id:ohnosakiko:20180829170724j:image


以下は、「カフェと彫刻の交わるところ」というお題を頂いて書いた私の文章です(チラシに掲載)。

 この原稿を書いている7月中旬、西日本豪雨災害の状況が連日報道されている。炎天下で片付けに追われる人々。避難所で支給される食事はおにぎりと味噌汁。「コーヒーが飲みたい」という被災者の声には、コーヒーのあった普通の生活への渇望が滲んでいて、避難所の前などに即席のカフェでも開設されれば‥‥と思った。パラソル付きのテーブルがいくつかと、それぞれを囲む椅子4、5脚の簡素な仮設カフェ。

 ところで私の住んでいる愛知県一宮市は、かつて日本で一番喫茶店が多いと言われた街である。戦後、繊維産業で栄え全国から女工の卵が集まっていた頃、街には数えきれないほどの店舗があったらしい。その頃からの習慣か、今でも一日に必ず一回は喫茶店に行くという年輩者が少なくない。新聞を読んだり、顔見知りと地元の情報交換をしたり、仕事の打ち合わせをしたりといった日常の場は、カフェではなく昔ながらの喫茶店である。

 ヨーロッパでカフェ文化が花開く前、人々が情報交換や発信のために集まる場所は広場だった。多くの広場の中心には彫刻モニュメントがあり、共同体のシンボルとして機能していた。「求心力」と「安定性」の象徴である広場の彫刻。その周囲にカフェが出現し、人々の集まり方は分散化していく。カフェ自体も、さまざまな人の出入りによってそれぞれの「かたち」が作られていった。

 広場を中心とした街作りがもともとない日本で、彫刻モニュメントのある場所は「求心力」を持ち得ず、街中のそれはしばしば”彫刻公害”と言われがちだ。度々の自然災害に見舞われる「安定性」に欠けた土地では、屋外だけでなく屋内に設置した彫刻でさえ障害物、危険物となることもある。しっかりした基盤に接する「底面」と「軸」を持ち、一定の「空間」を必要とする彫刻芸術は、さまざまな流動性の中にあっては、かなり難しい表現形式になってきている。

 むしろ彫刻はこの地において、仮設カフェのようなものとしてあり得るのではないだろうか? テーブルや椅子の脚が複数の「底面」を確保し、「軸」の上のパラソルが太陽光を遮る「空間」を作る。一応原理的には、伝統的な彫刻の条件を満たしているはずだ。脇にあるのは、小さい発電機とコーヒーメーカーと水と豆と紙コップ。そこに立ち寄ってはコーヒーを飲んで一息つき、また去っていく人々の動きが、輪郭のないその空間の「かたち」を彫り、刻んでいく。

 彫刻とは決して呼ばれないだろうその彫刻は、被災地に忽然と現れ、しばらくすると消えていく。いつかまた未曾有の大災害に見舞われるであろう日本列島のあちこちで、かりそめの場を提供するパラソルの花が開き、運良く生き延びた被災者の私もそこに辿り着く一人となる。それが、私の夢想する「カフェと彫刻の交わるところ」だ。