著作権法第19条と121条

著作権法121条について - 言いたい放題で触れた判決ついて、駒沢公園行政書士事務所日記:「ジョン万次郎銅像事件」控訴審判決〜著作者人格権確認等請求控訴事件(知財判決速報)〜で言及があった。
前回は言葉足らずというか、頭の中がきちんと整理できていないので、多少(かなり?)わかりいにくいことがあったかもしれない。
そういうわけで、改めて少し思うところを書いてみたい。


通説判例は、氏名表示権を、121条も考慮して、その内容を考えるとしている。
このことは、当該法律のみを解釈するという意味では間違っていない。しかし、著作権法の上位規範には憲法がある。
そして、著作者人格権は、著作権法によってはじめて保障されるものではなく、
13条が保障しており、あくまでも法律上明文化されたにすぎない、と考えている(以下、この前提である)。
したがって、著作者人格権の内容は、憲法も含めて、解釈されなければならないのである。
(なお、法律上の権利にすぎないものでも、その他憲法規範に反することはできない。)
もちろん、著作者人格権憲法13条の一内容であるといっても、絶対無制約ではない。
「公共の福祉」による制約は受けるのであって、121条が公共の福祉による合理的制限を加えるものということができる。
この点、通説判例は、121条のいう公共的利益保護の要請をある種当然のものとして受け入れて、氏名表示権の内容を解釈している。
では、公共的利益保護を理由にすれば、どのようにでも氏名表示権を制限できるのか?といえばそうではないだろう。
(しかも、公共的利益保護自体、そもそも第二次的利益である。)
公益目的のために氏名表示権を制限するだけの合理的なものでなくてはならないのである。
そうだとすれば、121条の存在から公益目的を強調しすぎることは許されないはずなのである。
(しかも、通説も公共要請は二次的要請であるとしているにすぎない。)
そうだとすれば、19条の解釈として導かれる著作権法上の氏名表示権の内容は、
無制約な人格権に内在的な制約の他(ex.放棄の可否)や公益上人格権を制約すべきごく限定的な制約が働いたものにすぎないのである。
漫然と121条によって19条を解釈することは、本来許されないのである。
そもそも、121条自体が刑罰を伴うものであるから、その解釈にあっては厳格であるべき以上、
121条自体は正当としても、「“趣旨に”反し無効」との結論を導くことは、
民事紛争といえ、類推解釈による、裁判所という国家機関の判決による人格権制限である以上問題ではないかと思うのである。
確かに「知財高判平成18年2月27日平成17年(ネ)第10100号等著作権民事訴訟事件」においては、黙示的合意すら否定されており、
判決の主文自体に、疑義を唱える訳ではない。しかし、傍論とはいえ、合意のある場合について、

加えて,著作者人格権としての氏名表示権(著作権法19条)については,著作者が他人名義で表示することを許容する規定が設けられていないのみならず,著作者ではない者の実名等を表示した著作物の複製物を頒布する氏名表示権侵害行為については,公衆を欺くものとして刑事罰の対象となり得ることをも別途定めていること(同法121条)からすると,氏名表示権は,著作者の自由な処分にすべて委ねられているわけではなく,むしろ,著作物あるいはその複製物には,真の著作者名を表示をすることが公益上の理由からも求められているものと解すべきである。したがって,仮に一審被告と一審原告との間に本件各銅像につき一審被告名義で公表することについて本件合意が認められたとしても,そのような合意は,公の秩序を定めた前記各規定(強行規定)の趣旨に反し無効というべきである。

と示したことには、疑問が残るのである。この論旨からすれば、ゴーストライターの合意も公序良俗違反であって無効になるとも読める。
ゴーストライターも民事的には不行使の合意により事実上の民事訴訟は回避できるが、親告罪ではないので、刑事訴追もありうるのである。
この場合の合意の効力如何については、決して簡単に議論されるべき論点ではない。
あまりに奥の深い問題であって、傍論でこのような判断を示すべきだったかどうかというと、井上薫氏いう蛇足であり、避けるべきだったように感じる。
どのような形であれ、知財高裁が示した判断ではあるが、合意のある場合についての判断としての先例的価値を安易に認めるべきではないように思う。
人格権の本質に遡って議論した上で判示されるべき事項だったと思うのである。


引用・パロディとの表現の自由との関係について近時意識されつつあるところだが、本件も実は憲法をもっと意識するべきではないか、と思う。
通説、判例、その他多くの人はこのような問題意識をもった上で憲法上問題なし、としているのか、
そもそも憲法ということに無頓着なのかはわからないが、もし後者であるならば、再考していただきたいと思うのである。
また、著作者財産権保護意識は強いのに、一方で著作者人格権についてはあまりに軽視されているのではないか、とも思えてくる。
これでは、著作権概念を支えているものは、財産権万能思想であって「お金があれば心も買える」に等しいのではないかとさえ思えるのである。
財産権保護意識が強すぎるだけなのかもしれないが、著作権法解釈が憲法の視点からあまりに歪んだものになっている気がしてならない。
実務メインの著作権法憲法的を期待するのは難しいのかもしれないが(それでも意識されている実務家さんはおられる)、
せめて裁判所や学者さんにはもっと意識してほしいように思うのである。