『すばる』 2010.1 読切作品その他

この前書いた事からの敷衍というわけでもないんですが、日頃からなんとなく感じている事がありまして。
それは、昨今批評家不在がいわれるのは何故なのかという事について。
つい最近も新潮新人賞から批評部門がなくなりましたが、この事態の遠因としてこういう事もあるんじゃないかなというのが、批評家に要求される知識量が時代を経るとともに増大する一方で、もはやハードルが高すぎなのではないか、という事。
明治から昭和中期までであれば、古典文学をある程度読み込んでいれば、という程度だったのかもしれませんが、柄谷・浅田時代になると文学系哲学どころか科学哲学、いやそれ以上に経済学や数学の知識までが要求され、サルトルフーコーは当たり前、ウィトゲンシュタインラッセルで止まらずカントールだのゲーデルまで知っている事が要求されてしまっている。その一方で、源氏物語アラビアンナイトなど長大な古典の知識も当然ないと話にならない。
これってきつくないですかね?時間ないでしょ?
私なんか、いや私と比べても激しく無意味なのかもしれないですが、むかし廣松渉岩波新書の哲学入門を読むだけで相当難渋しましたからね・・・・・・。入門でこれかよ、という。


風が強くて思い出すのは、自分の目が細くて良かったなあ、という事。目が小さいのって、結構ゴミとか入ってくる量が違うんですよ。

『変身の書架』奥泉光

奥泉光からすれば冒険のない、テーマにしても作風にしてもこれまでの作品の延長にあるもの。逆にいえば、これまでの奥泉作品を好きな人は文句のない作品。
現実の空間から、葬送めいた音楽隊の出現をきっかけに非リアリズム空間に迷い出て、後日になると全くそこに行けなくなる、といったところなどは、氏の常套ともいえるもの。
また今作でもカフカ作品への言及があるが、注目されるのは、というか私が最も考えさせられたのは、次の一点。それは、奥泉氏に重ねられる主人公が、戦争文学を書く理由を問われ、ある意味型どおりに答えるのだが、その答えがより切迫した理由により反駁されてしまうところだ。
しかも当初の答えである、戦争の死者たちを正しく記憶し、そして現在のなかに適切な位置、ヤスクニではない死に場所を与る、という答えはまったく間違っていないにも関わらず反駁される。ここには迫力があった。
民族や宗教が入り組んだところ、東欧や中東の一部などでは、「死者を忘れることでしか、つくれない国もある」、と言われれば、沈黙せざるを得ない。たとえば、ユダヤ人虐殺を正しく記憶した筈のユダヤ人たちが、イスラエルでなぜあんな事をしているのか・・・・・・。

『母さんのピアノ』小野正嗣

汚れてしまったもの、廃棄されてしまったもの、帰ることのできない外国人・・・・・・、今作でも繰り返し言及されるこういった負の側面を色濃くまとったものを主題化し作品化することは、グローバリズムに対する唯一ではないにしても正しい抵抗である。
巷でひんぱんに目にするエコ運動だの、ロハスだのだって、しないよりはした方がいい的な程度には意味があるだろうが、汚いものを見ないかたちで行われている。買い物にはかわいいエコバッグとか言ったりする人には、レジ袋使いまわせばいいじゃんといっても、そんな汚らしいけち臭いのはきっと通用しないのだ。本格的にエコをするなら、掃除機をかける回数や、洗濯機を回す回数だって減らして、体臭や口臭などにもっと寛容にならないといけないし、マイ自転車だって、化学薬品で丁寧に磨き上げたりなどしなくても良いだろう。
無理なことを強いても続きやしないだろうから、意味のないぼやきだったのかもしれないが、われわれの綺麗さが汚さをどこかへ押し付けたうえで成立している事を、せめて観念することくらいは、強いられても良いだろう。
そういう意味で小野という作家を支持したいのだが、今作は前2作(私が読んだ範囲)よりも抽象度が高く、とっつきにくさが増していたかもしれない。リーダビリティが云々されがちな昨今、それに反旗を翻す作家がいても全然構わないとは思うが、この作品がどれだけの広がりを持ちえるかを考えると、少し惜しいと思うのだ。

『一一一一』福永信

単純に、アナログテレビの不備を何度も言い立てるところとか、リサイクルショップについて同じ事を繰り返し、あれさっきも言ったっけとなる所などが面白かった。きとんと謎が解き明かされる感じが最後に訪れるのも、会話の言葉だけではなく、隅々までよく練られている印象だ。
アナログテレビの問答で思ったのだが、この質問し続ける男性は、現実にはいない通俗の極致としての面白さがある。
ところで、面白かった作品ではあるものの、どちらかというとこれは文「芸」としての面白さ、素晴らしさであって、今書かれる必然性云々でいったら、どうなんだろう。というか、今書かれる必然性なんてものから縛られない事も、純文学の存在理由の一つともいえなくもないんだよね。
それにこういう作品を福永が最初に発表したのは2008年頃のことだから、Twitterと関連づけて語るのもちょっと的外れ。福永が、ツイッター的未来を先取りしていたとか言われたら返す言葉もないけど。

『おれのおばさん』佐川光晴

なんか誰も傷つかないような終わり方で、通俗的な読み物めいてしまったけど、全然許す。近代的な物語小説だ?
別にいいじゃない、そういう作家がいたって、どうせ物語を乗り越えることなんざそんな簡単な事ではないし、間違いなく私達はこういう小説から倫理や存在のあり方を学ぶことで自分達を作りあげ、それで社会というものが成り立っている、そういう保守的な側面だってあるんだから人間には。一か0かではないんだ。
毎回夢中になって、一気読みであった。

エッセイ『海の上のサンドイッチ』津原泰水

食パンとマヨネーズ、レタス、普通の薄切りハム、これで作るサンドイッチが極上、という話なのだが。
すばる編集部のエッセイ担当者は実際に食って見たのだろうか。私は試しましたよ。パン好きとしては試さずにはいられない文章だ。そういう意味で、エッセイとしては面白いのかもしれない。
でもこれ、極上というか、なんのマジックもない予想の範囲内の味だよ。残りの食パンはバター載せたり、ピザソースにチーズ、タバスコで食べ、レタスはサラダにしました。全然後者の方が旨い。騙されたわ。