娘。:横ライン⇒縦ライン⇒横ライン

Berryz工房が空間で、℃-uteが時間だと、前に書いた。トラックバックしてもらって、補完していただいたおかげで、だいぶ説得力のある言説になったようです。


じゃあ、娘。はどうなのか。先日コメントいただいた件を踏まえて一応確認。
娘。はデビュー当初、恋の歌を歌っていく。中澤と福田はかなり年が離れていたが、福田が大人びていたおかげで、それほど縦ラインが強調されはしなかったのではないか(と言ってもリアルタイムで見てなかった、誰がご存知の方!)。それに、同時に入った5人、そして曲パートの争奪戦、というライバル関係の中で、上下関係というのは全く意識されない。よって、娘。初期は「縦ライン」ではなく「横ライン」のアイドル(歌手)だったと言える。2期メンバーが入っても状況はかわらない。2期と初期は、上下関係というよりは、先⇔後の関係であって、ライバル関係やら確執は変わらず。
これが転機を迎えるのがごっちんの加入、そして「LOVEマシーン」だ(「ふるさと」の位置づけが難しい)。当時13歳の後藤の加入による、中澤―後藤は、もう縦ラインとして捉える他はない。そこからの「恋ダン」「ハピサマ」「I WISH」「恋レボ」「ピース」という楽曲は、途中辻加護を加えてさらに縦ラインが明確になる中で、すべて「普遍的な愛」を歌い上げたものだ。中澤卒業以後、断続的に「普遍的な愛」の楽曲は続く。「ウィアラ」「ここいる」「恋ヴィク」「愛あら」「浪漫」「マンパワー」がそれである(歌詞分析すると長くなるのでここではしない)。辻加護が抜け、飯田、(結果的に)矢口が抜けるのが「マンパワー」。ここにおいて縦ラインというイメージがほぼ消失してくる。
以後、「大阪 恋の歌」から今に至るまで、「歩いてる」を除けば、横ラインのイメージを持ったアイドルグループが「恋」を歌う、という構図である。
こうして見ると、娘。においても、メンバー構成から生まれる「横ライン」「縦ライン」というイメージと楽曲内容がある程度リンクしながら来ていることが分かる。横⇒縦⇒横という娘。の歴史。
ところで僕は、「縦ライン―愛」、「横ライン―恋」という大まかな分類をしているが、今の娘。は横ラインの空間の広がりが国境を超えているのだから、もしかすると、今まで「縦ライン」の時に「未来」を主に使って「普遍的な愛」を歌っていたのが、「世界」「地球」「人類」という空間的広がりのある言葉を使って「普遍的な愛」を歌えるという可能性もあるのではないか?そのほうが面白いなあ。恋の歌は、正直つまらないのです。

抽象℃-ute×ベリ具体

つばめさん(http://tubame.jugem.cc/?eid=1228)のトラックバックについて。

『Bの曲は「時間を止めた」空間の歌、℃の曲は「空間を止めた」時間の歌。(中略)グループの世界観を表現するための礎として必要不可欠だから固定化するのです。だからこそ、それが代替不可能物となり、アイデンティティとなります。』
『Bヲタに恋愛志向の中二病・童貞が多く、℃ヲタに博愛を唄う箱推しが多いのは、Bにとっての代替不可能物は「思春期性という時間」で、℃にとってのそれは「幸せな場という空間」だからだ、なーんて説明するのは強引すぎるかしら。』


さて。「Bヲタに恋愛志向の中二病・童貞が多」いかどうかは知りませんが、Berryz工房の世界観において、「思春期性という時間」が重要、というのは極めて示唆に富んでいます。僕はそれを卒論のインタビューで思い知りました。2年前の卒論では先鋭的なベリヲタ(キヲタと表記)に対してこう書いています。
『キッズのメンバーといつか親しくなれるという希望をもっているが、キッズが大きくなってしまうのは嫌なので時間を止めたいという矛盾した気持ちもある。マイナー感と距離の近さが次第に失われることへの恐れもあり、「今行かなければ」という切迫した時間感覚を持つようになる。現実的に未来を想像することはできない。このような「終わりが近い」という時間感覚の下で、キッズを絶対的な存在とし、それに基づいて規範、行動を決定するのがキヲタである。』


一方で、℃-uteが「幸せな場という空間」をアイデンティティとしているか?これ、一見したときにはかなり強引な印象もあったのだが、改めてBerryz工房℃-uteのPVを見てみると、℃-uteのPVはどれもこれも特定の場所ではない「夢の世界」かのようである。幸せの場という、イメージ上での空間、であると言えるかもしれない。つまり、℃-uteは空間をも抽象化してしまっている。
逆に、Berryz工房のPVは、「恋の呪縛」「告白の噴水広場」あたりが如実だけれども、具体的な場所を思わせ、さらには、大げさな言い方をすれば、生々しい現実を感じさせる。
前記した卒論も踏まえれば、時間も空間も具体化して、「いまここ」しかない恋にひた走るのがBerryz工房の世界観、そして、時間も空間も抽象化し、「普遍的な愛」を歌うのが℃-ute、という対照を描くことができそうです。(つばめさんの言う「時間を止めた」というのは、本来抽象的であるところの時間を今に限ることで可視化(具体化)する営みであり、「空間を止めた」というのは、本来可視化されているかのようである空間をイメージの世界に抽象化する営みである、と書き換えてもいいでしょうか)。しかしこれはあくまで対照的に描いた結果であり、例えばBerryz工房の「笑っちゃおうよBOY FRIEND」は、℃-uteの世界観にも近いものを感じさせたり、℃-uteの「即抱き」はBerryz工房の恋愛観に近かったりする(この場で即抱きしめて)わけだから、もちろん例外もあるわけです。
こうした世界観によってヲタの性向は分かれるか?まあたぶんそれなりの傾向性は見られるんだろうと思う。だけども、それによってくだらないヲタの宗教闘争があってもしょうがないので、ここからどっちがいいみたいな話には持っていかないようにします。僕はたまたま℃-uteが好きなのです。それでいいんです。℃-uteは抽象化だとかなんとか言う前にナッキーとチューしようか、ってなもんです。「いまここ」の世界観がBerryz工房のものだとしても、胸が小さいナカサキを見られるのが「いまここ」しかないのだとしたら、℃-uteヲタだって時間を止めたいのだ。ザ・ワールド!!!