Hatena::ブログ(Diary)

週に一冊

2017-02-22

ミシェル・ウェルベック 『プラットフォーム』(角川書店)

 高級?ポルノ小説だ。えげつないセックス描写だけで読者を引っぱっているところがある。
 半年前に読んだ『素粒子』はすばらしい作品だった。デカルトパスカルヴァレリーサルトルなどに短くも鋭く言及しながら圧倒的なストーリー構築力でヨーロッパ文明の末期的症状を読者に突きつけるものだった。
 物質生活がこれほどに豊かに便利になっているのに、白人社会には人口減少という衰亡の徴候がはっきりと表れている。この末期的症状に対処しようと、『素粒子』の主人公は植物から人類まで共通の二重螺旋構造という遺伝子コード複製のトポロジーを変えようという絶望的な挑戦をする。もちろんこの挑戦は失敗し、作品全体は救いのないペシミズムに覆われていく・・・・・。
 いっぽうこの『プラットフォーム』では、西欧文明の閉塞感は西欧人のセックスライフのやりきれなさにあるとする。そうだから、西欧とはまるで異なる性愛観を持つ南アジア人との性交流企画を大がかりに実践することが末期症状を救うてだてになるのではないか、とする。作者がどこまで「本気」なのかはわからない
 南アジアのセックスツアー企画に「これからのヨーロッパ人の桃源郷の土台(プラットフォーム)」を見出そうとするこの小説は、たぶん構想そのものに軽いニヒリズム・フランセーズがある。最初の小説『素粒子』が大力作SFだっただけに、3作目となる本作に対してネットには大げさで物騒な噂と書評があふれていた。しかし半分ほど読んで拍子抜けしてしまった。
 ただし、西ヨーロッパの人口減少が止まらない理由、あまりに先頭を走りすぎて楽しくなくなってしまったパリのセックス産業の実態、宗教としてのイスラムを一般的フランス人は本音としてどう思っているかなどは、露骨な言葉づかいで戯画化されているので読んでいて楽しい。

 成功する女は男の価値観を横取りする
 p146
 このさき女性はますます男性化するだろう。いまのところはまだ、自分が魅力的であるかどうかは女にとって大問題だが、フェミニズムの助けを借りて仕事や出世に夢中になればなるほど、彼女たちはそれまでバカにしてきた手っ取り早い道を見つけるようになる。要するに彼女たちもまたセックスに金を払うようになる。そしてセックス観光に向かうようになる。女性たちは男性的な価値観にすぐ順応できるんだよ。仕事のできる女ほど。

 イスラムに比べれば、カトリックはすばらしい多神教だ
 P252
 「イスラムはすべての宗教の中で最もラディカルな一神教だ。イスラムは誕生してからずっと、侵略と虐殺の戦争をくりかえしてきた。イスラムが存在しているかぎり、世界が平和になるわけがない。アラブ人にも数学者詩人はいたかもしれないが、それは彼らがあまり熱心な信者ではなかったからだ。誰だってコーランを読めば、あの独特のトートロジー、「唯一の神をおいてほかに神なし」、などといった嘆かわしいムードに唖然とせずにはいられない。いわれるとおり、一神教への道は一般民衆を白痴化する道にほかならない。もっとも砂漠のなかだけの話なら、それでよかったんだがね。
 「それならカトリックはどうか?じつによくできた宗教だ。カトリックは人の本質がどういうものかよく知っていた。それで初期の教義が課した一神教からすぐ離れた。イエスが考えもしなかった三位一体の(ギリシア幾何学の)ドグマ、マリアと聖人の崇拝、地獄の鬼の役割の認識、天使の発明、などを通して徐々に正真正銘の多神教を確立していった。だからこそカトリックはゲルマンイスパニアロシアの伝統宗教を自分の長い腕の中にすっぽりと入れることができたのさ。

2017-02-16

佐高 信・早野 透 『丸山真男と田中角栄』(集英社新書)

 佐高信と早野透の対談本。丸山と田中に接点があったのか?と驚いて買ったが、そういうことではなかった。
 早野透は元朝日新聞の記者。田中角栄という桁を外れた男に惚れこんで、新潟支局に志願転勤してまで角栄番を続けたらしい。『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』などの著書がある。早野透はしばらく前、、戦後民主主義の上半身は丸山真男が作り、下半身は田中角栄が作ったという「名言」を吐いたそうだ。この本でも何度も触れられている。

 p180あたり
 戦後民主主義の上半身は丸山真男が作ったものです。それは、江戸期以前にもさかのぼる日本的主体――というか没主体――の検証、そういう没主体による「自覚なき超国家主義」、それをさらに底辺で支える「愛国婦人会」的エートスなどを、論理のまな板に載せて読者と悔恨を共有しようとする近代主義者の努力のたまものだった。
 丸山が上半身を作ったのに対して、戦後民主主義の下半身は田中角栄が作っものです。二人の間に直接のつながりがあったわけではもちろんありません。
 田中が出た当時の世評とは違って、日本の今後の進路は平和と福祉につきるというのが『日本列島改造論』の眼目です。それを戦後社会の到達点にしているんです。角栄は、戦前からの国家主義を排して、戦後精神のすべてを橋とトンネルと道路に還元した。生活とは要するにそういうことであって、精神の方は誰かがちゃんと考えてくれと。
 『日本列島改造論』のなかに憲法の論議が出てくる。・・・・・一億を超える勤勉の日本人が軍事大国の道を進むことなく、・・・・・・私たちが今後とも平和国家として生き抜き、・・・・・・敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば・・・・・“人間復権”の新しい時代を迎えることは決して不可能ではない。
 はっきり分かるように田中角栄の思想の中には「国家」がないんです。というより、国家をプラグマティックに、中性的に捉えて、国の役割を平和と福祉に限定し、人々の内面には入らないということです。つまり、どう生きるかについては国家や政治は介入せずに、ひとりひとりの国民に託す。
 ところが戦前の軍部から今の安倍に連なる連綿と続く系譜は、国民に対して、汝はかくあるべきだと必ず言い出す。丸山真男風に言えば、肉体を支配する国家と魂を支配する教会の両方の権力を持とうとするかのようです。彼らは田中角栄のように国家をプラグマティックに、中性的に考えられないのですね。真理とか道徳に関して中立的立場をとり、そうした価値判断はもっぱら他の社会的集団や個人の良心にゆだねる・・・・、そういうことを考えられない人たちなんですね。

2017-02-09

米本昌平 『遺伝管理社会』(弘文堂)

 ナチズムの異様さを「優生学」の側面から説こうとした本。優生学はこの間まで日本の公衆衛生学にも存在していた。
 1989年に初版を読んだときは気づかなかったが、著者はこのテーマを書こうとした人にしてはハナ・アーレントを読んだ形跡がない。p171に、「600万人のユダヤ人をひそかに殺害するなどということは、そうとう能力ある人間が、計画的に行わなければ不可能であったことだけは間違いない」と書いているが、この一文は作者がナチズムの本質の一つを見逃していることを告白している。その本質とは、アイヒマンがどこにでもいる「普通人」であり、だからこそ彼のすさまじい愚行は今後のポピュリズムの中でいつでも再現され得るということだ。
 とはいえ、改めて教えられるところも多くあった。
たとえば「ナチス下のドイツは優生社会と見るよりは超医療管理国家とみなす方がはるかに正確だということ。その基本骨格は1934年の「保険事業統一法」によって与えられた。これはナチス以前のさまざまな保健福祉事業を一元化しようというものであり、全ドイツ人を国家丸抱えで健康管理しようという政策である。
 ナチス時代のドイツ国家は個人の健康に関して異様に関心を持っていた。病気にかかることは同胞社会に負担をかけることであり、健康であることが国民の義務となった。この「保健事業統一法」は日本の保健政策にも影響を与え、現在の国民皆保険制度の思想的な源ともなっている。(p138)
 「病気にかかることは同胞社会に負担をかけること」という考え方は、風邪の季節になると見られる電車乗客の(とくに女性の)8割がマスクをかけるという、外国人がびっくりする日本の異様な光景をよく説明してくれる。あの時代のドイツと同様、日本の国家は個人の健康に異常な関心を持っており、その国家の関心が個人一人ひとりに乗り移って、個人の最大関心事にもなっているわけだ。
 アイヒマンのように陳腐な「普通人」であり、自分たちが何ものであるかを知りたくはない私たちは、私たち一人ひとりの健康に関して国家が異様に関心を持っていることを、ただありがたいとしか思わない。みんなが同じことをするのにあまり違和感を覚えない。世界で最も国家管理社会民主主義が発達した国の民である私たちは、それどころかもっともっと個人の安全や長寿命に関心を持ってくれとさえ訴えている。その意見が、ますます読むところが無くなった新聞に載らぬ日はない。

 本書の「あとがき」で著者の国家社会政策に対する思想的立場が鮮明にされ、いたるところにある全体主義現象への危惧が述べられている。

 p211 
 私が優生学の支持者でないことなどいまさら書くまでもないだろう。何がナチ的であり何がそうではないか、その基準自身に自明な根拠があるわけではない。そのよい例がオリンピックの形態だ。壮大なスタジアムの建設、軍事パレードのような開会式、国家元首によるおごそかな開会宣言、民族の祭典というキャッチフレーズ、アテネからの聖火リレー・・・・・・これらはすべて1936年のベルリンオリンピックで確立されたものであり、ナチス宣伝相ゲッペルスが巧妙に企画したナチス式様式美の反映だった。

 著者が言うように、ナチス式様式美はいまでも多くの分野に通用する現代性を持っている。巨大な応援旗が何十本も振られるサッカースタジアムの風景は日本リーグ独特のものと思っていたが、なんのことはないドイツリーグの試合をTVで見ると、ちゃんと大応援旗を振っていた。日本とドイツはよくよく似た国なのだ。

2017-02-02

池澤夏樹 『すばらしい新世界』

 ネパールの奥地にあるナムリンという2、30戸の小さな農村。そこに日本人技術者が数キロワットの小規模風力発電設備を作りに出かけるという物語。日本の家族論とそれを大きく包む日本的資本主義論にもほんの少し触れている。

 ヒマラヤ大山脈のふもとにあるナムリン村一帯はインド中国を結ぶ古代からの通商路のそばにあって、ネパール王国内で特別に自治を認められた地域になっている。住民はそこの通商税の利益と、段々畑で自給できる農作物ネパールらしいおだやかな生活を営んでいた。チベット仏教が篤く信仰されており、小さな寺院もたくさんあって、どの寺院もすばらしい仏画が内壁を埋め尽くしている。千年も前に高僧が埋め、名前だけが知られている「埋蔵経」がいまだに未発見で数多く埋められているという噂をときどき聞く。
 しかし数十年前に雪解け水の洪水が起こって、村の畑をうるおす川の流れが下の方に移ってしまい、先祖代々手入れを続けてきた段々畑に水を入れることができなくなってしまった。畑をもとの状態に戻すには、下を流れる川の水をポンプでくみ上げるしか方法がない。ポンプを動かすには電気しかない。

 主人公・天野林太郎は日本有数の重電メーカーの大型風車部門で働く技術者。少し変わったところはあるが、子供を愛し、妻の言うことによく耳を傾ける、ごくごく実直な会社人間である。妻アユミは環境問題に積極的に取り組むNGOのメンバー。
 その天野の妻のところに、ネパールの日本人ボランティア組織がナムリンで小さな発電設備を欲しがっているという情報が彼女の友人から入る。妻は夫にこの話をする。夫は仕事のできる課長に話をする。そのようにして「ナムリン超小型風力発電計画」が重電メーカーの実験的プロジェクトとして動き始める。
 700ページ超の長編だから、たくさんのことが起きる。作者は日本では屈指のストーリーテラーだからプロットは完全だし、起きる事件も硬軟いろいろあって、とても面白く読める。エンディング近くでは新しい埋蔵経が発見され、チベット問題を苦々しく思う中国にそれを知られては大変だということで、主人公がインド経由でダライラマ14世に届けるという冒険談のおまけまでついている。

 ブログを書く僕は、鼻につくことをいろいろ林太郎に喋る妻のアユミさんを個人的には好きになれないが、まあカンケイない。前半P73付近で、アユミさんは自己批判と自己弁護をよく眠れない夜などにひとりごとでつぶやいている。
 「私が環境情報連絡会議で専従職員をしていられるのは、林太郎が大企業にいるおかげだというのは否めない。絶対安全の身分だし、年収は十分だし、別に出世なんかしなくても不満はない。
 でもそれが私にとっては矛盾でもあったのよ。一方で原発にまで関わっている会社からの収入で働きながら、私が環境運動をするというのが。だから、多くはなくても、専従職員としての私の給料は大事だった。名目として大事だった。わたしの仕事は奥様の道楽ではなかった(と少なくとも私は思いたい)。
 「でも、もっと進んで言わせてもらえば、奥様の道楽だって何だって、こういう運動にたくさんの人が加わるのはいいことよ。何しろ企業の力は圧倒的なんだから。あの、レーニンの話、知ってるでしょ? 資本家のお金で革命運動をやってもいいのかという問いに対して、この国には資本家のものでない金は一銭もないとレーニンは言ったという。
「でも、レーニンは個人としてはともかく、経済システムとしての社会主義はダメだった。(他人の行動をすべて予測するなんてのは、)人間にはしょせん無理な理想だった。だから(他人を書類の上の数字でしか考えられない)官僚がすべてを取り仕切ることになってしまった。ソ連しかり、カンボジアしかり、中国しかり、北朝鮮いうまでもなし。
 「じゃあ、いまの日本は何?日本は資本主義のやりたい放題を社会主義的官僚が応援するというサイテーの形じゃないの?でも・・・・・、こういう私って、人によってはずいぶんいやな女と思うんだろうな。

2017-01-26

池澤夏樹 『静かな大地』(朝日文庫)

 日本の中世以来、アイヌは北へ北へと追いやられた。江戸時代には、アイヌ松前藩という北海道での産物徴収権だけを持つ不思議な藩に収奪しつくされ、飢餓貧困の淵に追いやられていた。
 明治になると、黒田清隆北海道開拓使となって以来、事態はいっそうひどくなった。男は極端な低賃金で森林の伐採や根株起し、木材の運びだしに従事させられ、しかも家族から遠い場所で働かされた。夫は家に帰ることを許されなかった。そして故郷の村にいるアイヌの妻はしばしば「和人」から暴行を受けた。その結果アイヌの村では子供が生まれなくなった。人口はどんどん減少した。黒田清隆はのちに首相枢密顧問官にまで出世する薩摩出身者である。
 『静かな大地』は、こうしたアイヌの衰亡の歴史を、何人かの人物の思い出話や長い手紙やアイヌの言い伝えの形を借りて淡々と語った、超一流の長編叙事詩である。文庫で650ページもあるが、主な人物の大体を理解するのに必要な100ページほど進めば、あとは一気に読める。
 主人公は淡路島明治維新の混乱に遭い、藩をあげて北海道日高に移住した宗形三郎・志郎の兄弟。兄弟のうち才覚と進取の気性に特に恵まれた三郎が中心となって日高の山中・遠別に広大な牧場と野菜農場を開く。アイヌに全く偏見を持っていない兄弟は、仲良くなった多くのアイヌの協力を得て軍隊用、農耕用の良馬とトウモロコシジャガイモを生産するようになり、日高でも名の知れた大牧場経営者になっていく。
 だがそのことが、北海道にわたって苦労してきた才覚のない旧士族の僻みと反感を買うようになる。とくに使用人に多くのアイヌを雇い、周囲にアイヌの家をたてさせて一緒に暮らすというやりかたが旧士族の神経を逆なでする。アイヌを依怙贔屓し、アイヌの再興を目論んでいるのではないかという噂まで聞こえてくる。
 こうした内地からの移住者の反感を黒田清隆の配下の者たちがすぐ嗅ぎつける。税務署に手をまわして税務監査を突然やったり、町に使いに行ったアイヌを警官が袋叩きにしたり、あげくには馬房に放火までしてアイヌ仲間の頭目を焼死させたりする。疲れ切った三郎は少しずつ神経を病み、愛する妻の産褥死が重なったりして牧場は傾き、絶望したアイヌは一人二人と去っていく・・・・・。

 白人はインディアンの世界を破壊し、日本人はアイヌの世界を破壊した。何千年と営んできた世界を理不尽に破壊された人々はいずれも文字を持たない人々だった。人は言葉を獲得することで動物を離れたが、こんどはその言葉を正確に記録する手段なくしては、次の段階に「進む」ことは不可能だったのだろう。歴史とは目的地不明のまま「前」に動くことの別の言い方なのだから。だから西洋歴史学の基準で言えば、インディアンとアイヌはともにみずから進歩しようとしなかった人々である、となるのだろう。
 しかし今は、進歩ってなんなの?と問うのが当たり前の時代である。アメリカはインディアンの、日本はアイヌの土地を強奪して「進歩」してきた。子供に教え聞かせるふうに言えば、進歩とか成長とかは「西洋風の」力なき人たちを露骨に踏みつけにすることと一部同義のことばである。その「進歩」がいま限界に来ていることはもう世界の常識である。

 ついでだが、沖縄についても事情はアイヌとあまり変わりなかった。1947年昭和天皇は、すでに政治的発言をしてはならない「象徴」の地位にあったにもかかわらず、側近を通じて、(国体護持に)必要ならある種の単独講和的な取り決めを受け入れてもよいという意思をアメリカに伝えた。この極秘の提案には沖縄アメリカの主要な軍事拠点とすることが示唆されている。昭和天皇は占領の早期終結と引き換えに沖縄の主権を売り渡すハラだったのだ。(ジョン・ダワー『昭和』p135・・・大新聞はあまり書かないが、この事実は1979年に雑誌『世界』で暴露され、以後昭和天皇の沖縄訪問はまったく不可能になった。)