残波岬の釣り人はさゆりが釣れると言っていた。この世の果てを思わせる断崖絶壁は僕に絶望を感じさせることよりも、東シナ海と名付けられたそのエメラルドグリーンの海に、その終わる事のなく幾度も続く波の音色の美しさに、僕は酔いしれていたと言った方が適切なのかもしれない。まあそんなことはどうでもよくて、要するに「残波」という名を付けられた泡盛をロックで飲みつつ深夜にテレビ朝日で放送されている『オール・アバウト・マイ・マザー』を観ているに、まだ観たつもりなかったのに物語の途中途中で、「これ観たことあるんじゃねえの」的な既視感に襲われた、というか実際に観たことなければ有り得ないほどひとつひとつシーンが一コマ先のシーンの僕の予期へと連続するのに、自分では観た記憶が全くない。そんな自分の記憶力のなさというかアルツー気味だろということに愕然とする。
 そろそろ大学を卒業する時期だから、僕が憧れる、ある種の理想像であった井口さんに敬意を表すべく、というかいつまでたっても誰かの模倣にすぎないということなのかもしれないが、僕は僕なりのまとめを形作らないといけないと思っている。あるいは焼肉とかまあそこらへんの僕を知っている人たちに僕のこういうアホみたいなまとめを知らせる行為をとるべきだと思っている。ひどい文章を書いていることは分かっているけれど、結局自意識のなせるわざなのか。脆弱な自意識。クソみたいなプライド。死んだほうがマシだ。
 芥川賞受賞者が最年少だとかで19歳とかでまあアレなんだけど、美少女とかいってサクとか興奮しなければという義務感に苛まれるのは致し方ないとは思うんだけど、やっぱりアレなんだよなぁ。なんつーか、世界に対する僕等の感覚というか劣等感というか負け組みだと思ってしまう感覚は昔も言ったけど「うまくいかねえ」からであるわけなんだ。んで、「うまくいかねえ」ってことをどうにかするための方策は大きく分けて二つある。一つはうまくいかない自分の諸要素を変えようとする、つまりは自分自身を変えようとすること。もう一つはうまくいかなくさせている自分の環境を変えようとすること。前者の自分を変えようとすることはどちらかというと女性の方が多くて、たとえば化粧とかエステとかそこらへんの自己変革は特徴的だし、あとは拒食症とか過食症なんてのも女性の方が統計的に言えば断然多い。んで、後者の方で言えば、環境を変えるというのも更に大きく二つに区分できる。ひとつは、自分の存在する社会環境を変革しようとすること、極端にいえば社会改革的な行動とか、社会運動的な行動がこの範疇に入るといえる。脆弱なプライドを維持するための右左翼の阿呆な行動もこれに入るだろう。んでもって二つ目はオタク的な行動、これはたとえばパワプロで自分だけの選手を作り自分だけのチームを作り自分だけの世界を作り上げる世界であって、いわゆるひきこもりが自分が傷つかないための防備をする自分だけの世界観を作りあげることと類似しているものといえる。たとえばパワプロでもいいしドラクエとかのロープレでもいいんだけど自分だけの世界を作り上げて、そこにおいて自分のプライドを実社会とは代替的に存在させるということ。こう考えると性差的な違いが浮き彫りになってくる。まあいいんだけど、そう考えると芥川賞獲った金原何某さんとかの『蛇にピアス』とかって作品はピアスとかスプリットタンとか自分の体をいじくる所作を描いているらしいから上記から理解できるようにいかにも「女性的」な文章であることが推測される。僕は実際には読んでないので適当に言ってるのだが。ちなみに自分が自分であることを確認する的な行為をとる場合において自傷行為とか売春とかするのも自分の身体感覚をとるための方法なのだとすればいかにも女性的ということが理解できるとともに、こういうことを思い込んでいる自分の男尊女卑観が存在するのではないかということに失望する。またここで付記すると、僕も実際にとる行動と望む行動は女性的な所作である。とかなんとか書いていると自分が初めに書こうと思っていたことを何一つ書いていない。なんというか結局己を語らないのか。それはあれですか。まあいいや。クソということに変わりないですね。ため息ホメロス御用旅。酔わなきゃ文章も書けないインポ野郎。

http://jp.shockwave.com/games/actions/earth/earth.html

深夜にレトルトカレーを温めてビール飲みながらテレビ見るそんな時間はもうこないかもしれない。この生活があとしばらくは続くとして、僕が深夜にレトルトカレーを温める最後の日が来る事を思う。ガスレンジに鍋に湯を張りレトルトカレーを投入しているこのときを。

可能性の問題。

つーか助詞が不適切すぎるのに直さない怠惰さに乾杯したい。アンバーエールで。

甘ったれてるんだよ。