panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

東京という病


  雨なのに出勤した。主任の仕事があるのである。締切りもある。だからむなしく来る。というか四六時中、実はこの主任の任務のことを考えている。でないと忘れるし(今日も早速昨日までの締切り分の催促があった)、忘れたくても忘れられない重大な事柄もある。うーん。なんという無意味な夏休みなのだろうか。くくくくくくくくくくくくくくくく、くやしい。
  この本はあッという間に読めるほど簡単に書かれていて、学者じゃないとどんな秀才もこの程度の文章なのかと思わせる。新進気鋭の財務省出身のいまはアメリカの弁護士である。女流。ってこんな場合には使わないか。でも女子だから書かせてもらったとしかいいようがない。リベラルはもはや信仰であるという主張をさまざまに例証している。そんなことはわかっていたし、プロテスタントの狂信は近代さえ生んだわけである。
  ひるがえって、また朝から、ハマの斉藤由貴問題。また写真がのったらしく、朝、珍しく快眠して8時半に起きてくると、テレビはどこも斉藤問題だらけだった。
  日本のマスコミも大衆もダイアナみたいな幼稚なプロテスタンティズムに染まって、こうしたつまらない問題に糾弾に糾弾を重ねる。これはどうみても、後世にはよろしくない。結婚する若人が明らかに減るのではないか。こうまで行動を、結婚後は拘束されるということになれば、誰もおいそれとは結婚しまい。あるいは結婚してもすぐ離婚してしまう確率も増えるだろう。
  他人の私生活における愚行をとがめる権利などない。という基本を守りたい。もはや不倫をめぐる狂信化は雑誌販売の経済効果なんて問題をこえているのではないか。
  なおリベラルとは、山口女史の定義では、あらゆる平等を追求することである。
  そして東京という病とは、東京しか知らない、一つの世界で生きている連中が別の世界もあるということを忘れて、ただひたすら己の信条だけを正当化する病のことである。