panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

二日休んだのにいまいち


  もう5時半近い。今日は車も時間がかかったし、面接を一つ終え、おしゃべりを三局面経ると、もう疲労が襲ってきて、若干調子が悪い。懸案の事務仕事?が来週だからではなかいと思うが、また一つ変な事態も出来しているし、こんなサラリーマンみたいな仕事はやめたい。
  西部邁の自殺幇助という問題が浮上してきた。郷里の幼友達、学生時代の反体制的な市井の友人、保守論壇にいたときの裏街道の人びとなど、手を貸す人には事欠かなかったのではないかと思う。学者や有名人に頼るとは思えない。そういう人間を嫌っていたはずだから。信用していなかったはずだ。そもそも、そういうものを嫌うところの出身だからなあ。
  冷たく言えば、辺境北海道の長万部あたりに生を受けた人間が、その頭脳ひとつでのし上がったのだから、その達成した境涯に違和感だらけだったろう。でも何か上へ上への勢いは時代の趨勢だったし、やってみたらあっけなく日本の言論界の代表的な一人となって、何かやるせなさとか不満とか、憤懣(ふんまん)とかが累積したにちがいない。上のほうへ行ってみたかったというのはあるだろう。でもこんなものかと、最初から、その上の方なるものを否定するために上をめざすという独特の上昇人間にありがちの心理と論理があったと思う。お前らはほんとにアホだ、つまらないやつらだと一言いうために、何十年も努力するということを宿命とする人間というのが、いるのだ。
  それにしては、西部先生はあくまでエリートであったところに独特の屈折があった。試験では北海道一の優等生だったわけで。もっとはやく人びとの視界から消えていれば、もっと幸せに死ねたかもしれない。しかしそういうわけにはいかないのが、下からあがってきた人間なのだなあ。つくづくそう思うのだが、この辺には共感はないかもしれない。
  やるだけやったのだし、かきまわして散っていったわけなのだから、本望だったのじゃないか。と、同郷の人間としては思う。と、ある若人に言っておこう。人というのは、何から何まで実現して幸せに死んで行けるわけではないのだ。
  やはり同郷の誉、北島三郎先生が、キタサンブラック天皇賞をとって喜んでいたのも束の間、二ヶ月後には、50過ぎたこどもをなくしてむせび泣くことになったのはその一例なんだろう。諸行無常、、、合掌。ついでにいまはモツ君のレクイエムをアーノンクールで聴いているから、合唱でもある。