映画の誘惑とシステム/黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』(感想・ネタバレあり)

黒沢清クリーピー 偽りの隣人』を見た。(ネタバレ=物語・展開についても触れています)

クリーピー 偽りの隣人』初日に行ってきた。『リアル〜完全なる首長竜の日〜』、『岸辺の旅』とテン年代に入ってからの黒沢清長編映画はどうもしっくりきていなかったのだが、『クリーピー』は最近でいちばんいいと思う。ただ、どうも『CURE』や『トウキョウソナタ』のような完全無欠の傑作と比べると、役者のありように「一癖あるな」という感覚がぬぐえなかったのだが、それは黒沢清が映画が「劇映画(フィクション)」であることを、誰よりも自覚しているからこそ起きることなのではないかとも思える。『クリーピー』の出演者たちはどこか心がスッポリと抜け切ったかのように行動したり、行動しなかったりする。

「映画における“リアル”って、ただの“安心”なんですよ」ーー黒沢清監督『クリーピー 偽りの隣人』インタビュー|Real Sound|リアルサウンド 映画部

黒沢清はよく役者に演技をつけられないと語っているが、『クリーピー』は極端に演技をつけない方向に振り切っているように感じられた。その理由はなんだろう?と思いながら、インタビューの「ダークファンタジー」といった言葉を見かけ、なんとなく腑に落ちた。彼のフィルモグラフィーのなかで「ダークファンタジー」といえば『スウィート・ホーム』だろうか。テレビの取材班が亡くなったある画家の屋敷で、番組を作っていると怪奇現象が起こり次々に取材班が殺されていく物語だ。すでに”怪奇現象”と言っている時点で、『クリーピー』と比べると明らかにフィクション性が強い作品である。ただ「一度関わったら死んでしまう」といったホラー映画特有のシステムのようなものが、『クリーピー』にも存在した。「隣の家の住人が実は…」と聞くと、どうも現実的な物語に聞こえるが、この映画はシステムを上手く機能させることで「寓話」に昇華したのである。

  • カーテンの「誘惑」

黒沢清の映画には「光と影」や「彼岸と此岸」といったように、2つの世界を意識させる演出が目立つ。その2つの世界を区切るのは、カーテンがその役目をすることが多い。『CURE』のクライマックスの廃屋での役所広司萩原聖人のシーンの前に、役所広司が透明なカーテンの先に怪しい人影を発見し、カーテンを開けるシーンがある。そこには人影はなく、のっぺらぼうのような写真が飾られている。「境界」を区切るものとして、存在するカーテン。正体を掴みたい「見るもの」と、すでにその世界のものではないのに、”現象”として存在したい矛盾を抱える「見られるもの」の目的の一致によって境界を区切るカーテンが機能する。

クリーピー』の冒頭、西島が連続殺人犯に刺されたシーンの後、妻の竹内結子と一緒に引っ越し先の挨拶のため、近所をめぐることになる。ここでいかにも怪しい雰囲気を匂わせる香川照之と初めて接触する。ここで注目すべきは「家」自体である。香川照之の家には庭の前に柵があり、少し庭を歩いて玄関につながるような構造であるが、柵の少し斜め後ろ付近に物置なのか何か空間があり、そこに目隠し用の「カーテン」が存在する。この映画でカメラは決してそのカーテンの奥を映すことはないが、何度も映し出される揺らめくカーテンはこの家に近づく人たちを「誘惑」しているように見える。竹内結子がそのカーテンを気にしているシーンがあるように、竹内結子はすぐにこの「誘惑」に魅せられてしまう。

その証拠に竹内結子は、いかに香川照之に皮肉を言われて酷い扱いを受けたとしても、シチューを作って香川の家に運んだり、香川を家に招いたりする。その行動にいささか疑問を持つかもしれないが、これが誘惑に負けたものであり、映画のシステムにまんまと組み込まれてしまっているのだ。清水崇の『呪怨』で呪われた家に入ったものは抵抗虚しく伽椰子に呪い殺されてしまう。これは呪われた家に入る(関係性を持つ)ことで、遊園地のジェットコースターではないが、終わるまで決して「呪い」から逃れることができないのである。『呪怨』の終わりは「死」を意味している。『クリーピー』に置いて「ジェットコースター乗るか乗らないか?」の選択は、「柵」を超えることに変換される。竹内結子香川照之のトンネルでのシーンを思い浮かべればよくわかるように、1度その「柵」を超えてしまったものは、そこから2度と抜け出せないのである。(竹内結子香川照之の握手)

  • 捜査(トラウマ)の「誘惑」

前項では主に竹内結子が「誘惑」される様について書いたが、西島秀俊も同じく「誘惑」されている。ただしそれはカーテンではない。まだ観客が映画に慣れていない映画ワンシーン目、柵越しのガラス窓が映される。会話から推測するに何やら連続殺人犯の犯罪心理に興味を持った刑事の西島が尋問しているようなのである。彼は自信家で犯人がその部屋から脱走し、一般市民を人質にしても恐れることなく犯人に近づく。しかし予期せぬ行動をとった犯人は西島を刺し人質も殺してしまう。その事件から刑事を辞職した西島は大学教授となり、犯罪心理学を教えている。しかしどこか心に引っかかりがあるのか、ひょんなことから未解決事件の情報を手に入れ現場検証をしにいってしまう。

そうこれは西島自身の中に存在する「事件(=トラウマ)」の誘惑である。彼は自分の失態から人質を殺されてしまった(というか自分が太刀打ちできない敵がいた)ことに対して負い目があり、まるで『CURE』の役所広司のように事件にのめり込んでしまう。事件にのめり込む瀬戸際に、やはりここでも「柵」という境界が存在する。初めて事件現場に来た時、柵の誘惑をなんとか理性で抑え込もうとする。ただ1度火のついたその誘惑に対しては、竹内結子同様に打ち勝つことはできない。事件現場の家でカメラが妙な上昇運動*1を始め極端な俯瞰に移ったとき、彼はもうシステムに組み込まれてしまっているのである。

この『呪怨』さながらの「関係性」で、過去に黒沢清はこのようなことを発言している。

「その後の映画のなかでは、ホラー映画じゃなくても、類似のイメージが再現されることがあります。機械がガタガタと動いていくっていう、あの感触ね。映画のなかでしかああいうことは起こらないし、機械が一回動き出すともう…運命の歯車がそちらに回った。そうなると人間は絶望して見ているしかない。そこに次々と死が現れてくるっていう。」−『黒沢清の恐怖の映画史』

私は「関係性(関わる)」と書いているが、黒沢清は言葉のチョイスが絶妙にかっこいい。確かに「歯車」が回りだすと、その回転を止めることはなかなか難しい。平山秀幸の『学校の階段2』でも時計の歯車が、怪奇現象の狼煙をあげるのである。

  • 記憶喪失の女

黒沢清の映画では「記憶」に対して曖昧な人物が数多く見られる。『CURE』の萩原聖人や、『叫』役所広司。その他にも「記憶」が映画の断続(編集)と結びつき奇妙な感覚を持つ作品が多い。西島が惹かれてしまう未解決事件では、『クリーピー』一家3人が行方不明になり娘(川口春奈)だけが取り残され、取り残された娘に尋問をしているうちに証言がコロコロと変わったという。実際に西島に出会うとき、記憶を戻しかけていた。この川口春奈が演じる早紀は『クリーピー』の寓話性をギリギリのラインで保つための説得力を示す存在である。

彼女は事件の前後ほとんどの記憶をなくしてしまい、数年経った今少しずつ記憶を回復しているという。彼女と西島とのシーンは奇妙なシーンが多く、彼女の尋問をしている間、まるで記憶の深淵を覗いているように照明が徐々に絞られ「暗闇」へ移行する。彼女はなぜか歩きながら記憶を思い出し、べちゃくちゃとしゃべりだす。黒沢清の映画ではキャラクターが部屋をあちこち移動しながら会話する…といったことはよくあるが、近年の作品はさらに複雑な動線設計で、まるで「見ているもの」を映画に誘惑しているかのようである。川口春奈は西島の尋問に嫌気が差し帰ってしまうが、記憶の「誘惑」に勝てることなく、また西島の元で話をすることになる。

この映画がダークファンタジーとすると、まさに川口春奈西島秀俊が対峙するシーンがダークファンタジーに見えてくる。この映画のなかでもずば抜けて奇妙なシーンであり、その他の論理的説明のつかない奇妙なシーンのハードルが下がり、「この映画は寓話だったんだ」と認識することができる。(というかそう理解した)

  • 仮装のいけにえ

黒沢清はトビーフーパーのファンであり、彼の映画評でも何度も言及がされている。『DOORIII』の鉄扉はまるで『悪魔のいけにえ』のようであり、今回の『クリーピー』でも『悪魔のいけにえ』のような鉄扉。そして、あの殺人一家のような家族が現れる。しかし『悪魔のいけにえ』にはダークファンタジーの匂いはしない。『クリーピー』の面白いところは「隣に住んでいた家族が本当の家族ではなかった。」ということだろう。香川照之の娘として自然に振る舞う藤野涼子は、ある日「お父さんじゃありません。」と西島に告白する。それまで自然すぎるほど自然に”振舞っていた”ように見えた藤野涼子であったが、娘を演じていたのである。そして『DOORIII』でも登場した鉄扉を越えた先では「お父さん」と呼ばずに「おじさん」と呼んでいる。「仮装・西野一家」のなかでの彼女の”振る舞い”が、この映画の違和感だった人物描写に説得力をもたせていると感じた。

西島は過去の事件のトラウマからか、自信たっぷりの犯罪心理から離れて他人を追い詰めるような攻撃的な取調をするようになる。彼も自分の深淵に眠るトラウマを大学教授を”演じる”ことで隠していたが、事件に関わることで理性で隠す(演じる)ことができなくなった。結局のところ劇映画(フィクション)であれ、役者が他人を演じている。『クリーピー』ではあえて人物を馬鹿馬鹿しく見せることで、この映画の”演じる”者たちの「仮装性」を印象深くするのだ。

  • 「解放」の産声

黒沢清は「人生にかかわる怖さ」をホラー映画だと語っている。例えば、『ジョーズ』がいくら怖くてもサメを殺してしまえばその恐怖からは逃れられるといったように、解決方法があればホラーではないといったことになるが、同時に「全ての映画はつまりホラー映画なのだ。」といっているように、なかなか難しいことをいっているように聞こえる。

さて『クリーピー』ではどうだったろうか?香川によってシャブ中にされた竹内結子西島秀俊を裏切り、まるで『CURE』のバスのように空を飛ぶ車を運転する。一旦、香川は廃屋で次の計画を話すが、犬が邪魔になり殺そうとする。西島は黒沢清のいう「歯車」にガタがあることに気づいている。それは香川が自分の手で犯罪を犯そうとしないこと。香川は拳銃を西島に渡し犬を殺せと命じるが、西島は「これがお前の落とし穴だ」と香川を撃ち殺してしまう。何を隠そうこの香川の生み出すシステムは「完璧」ではない。むしろ欠陥だらけだったのだ。そういった落とし穴を補うために寓話性をもたせたのではないか?と。

そして解放された竹内結子は狂ったように号泣する。そのまま映画は終わっていくのだが、この泣き声どうもエフェクトがかけられているのか、徐々に赤ちゃんの「産声」のように聞こえてくる。つまり「解放」を「誕生」をかけて「境界」を突破した意味合いに見せたのではないかと考えられる。いつ殺されるかわからない、「生と死」の狭間で生きていたわけなのだ。*2

解放されたように見えるが、その後、彼女らが解放され幸せな生活をしたかというと少し疑問も残る。『CURE』のようにあの異空間を運転してきた竹内結子は帰り道もわかっているのだろうか。映画が終わっても尚、そういった怖さのようなものを感じてしまった。

  • 最後に

役者の馬鹿馬鹿しさに対して紙一重のバランスでフィクションとして保たれているように書いたが、SNSなどで感想を見ているとこの部分についてかなり指摘が多かった。起こることの事象については映画だから、フィクションだから、問題はないのかもしれないが、人物に迫ったときに黒沢清は違和感を処理することはできないのだろうかと感じる。というか、おそらくそこには興味がないから今後も変わりようがない気もするのだが。考えてみると黒沢清のVシネ時代の作品に出演した哀川翔は本当に天才的な役者だったのかもしれない。あれだけ黒沢清の世界観に馴染みながらも、役者自体の生々しい魅力を獲得していた。西島秀俊香川照之も悪くはないのだが、黒沢清に対立するような魅力を発揮していないような気もする。最近、監督と役者は殴り合って(表現として)、いい作品ができるような気がしていて、西島や香川に関しては黒沢清(その世界観)にコントロールされすぎているのかもしれない。それが故、役所広司萩原聖人の存在感が際立った『CURE』とは果てしない差が開いているように感じる。映画は戦いであり、戦場でもあるような、そんな風に感じられるのだ。

クリーピー (光文社文庫)

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映画はおそろしい

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黒沢清の恐怖の映画史

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黒沢清と“断続”の映画

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CURE [DVD]

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*1:ドローンによる撮影らしい

*2:最近だと『傷物語』でキスショットが死ぬ直前に泣き声(こちらは産声も再生された)を出すが、生と死といった境界であり、同じような使い方ではないかと思った。