廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

セザンヌの懐疑3:視覚から制度化へ

(続き)
デフォルマシオンはまだ視覚的な問題にすぎなくて、セザンヌが表現しようとしたのはある意味世界全体なのだ」
「世界と言われても」
「じゃあ風景全体くらいにしておこう」
「こんどは全体主義ですか」
「ちがう。セザンヌのモチーフという概念の説明を読んでいてもよくわからないのは、一方で、セザンヌは「いまここ」で「なにかあるもの」が現れることを「モチーフを摑んだ」という。でも実際に彼が表現するのは、時間の流れのなかでうつろう風景全体のことでもある。この「部分と全体」「瞬間と持続」との関係がモチーフという言葉に含まれてしまっているのでわかりにくいのだ。」
「言葉はむずかしいけれど芸術家というのがだいたいそういうことをやっていることくらいは想像がつくよ」
「全体性とローカルな感覚の循環のうち、この全体性には五感だけでなく、雰囲気の感覚とか、重力感覚とか、さまざまな感覚が入りうる」
「共通感覚というやつかな」
「いや、むしろさまざまな感覚が競合して、飽和状態にあるといったほうがいいかも」
「そうするとデフォルマシオンは、そうした感覚の競合そのものということだね」
「だからたとえばセザンヌの林檎には、触覚のみならず色や匂いや味や、それが醸し出す雰囲気や光や、その他もろもろがつかのま凝縮されるわけだ」
「それがセザンヌの絵画のテクスチャ、光の勾配や肌理をかたちづくる、と」
「まあそうだ。しかし私はテクスチャーという言葉だけではダメだと思う」
「というと」
「テクスチャーとかhaptic(触知覚)だと、けっきょく「現れ」の次元にとどまる危険があるからだ。印象派の感覚の拡大だけになってしまう」
「なるほど、と言っておいてあげるよ」
「だから面倒な言い方だが、テクスチャーと構造の隙間というか差異とでも言うべき次元を主題化しなくちゃならない」
「なかなかそれは想像しにくいなあ」
「想像しやすいものって、けっきょく現れか概念のどちらかに吸収されてしまうぞ。」
「まあね、イメージトレーニング程度のものなら誰でもできるからね」
「イメージトレーニングだとしても、それが真に行動のモードを変えるには、さっきいった隙間における行為的なものが必要なのだ」
「行為のかたちが変わる場面だね」
「この隙間で身体は、ある「スタイル」を創発する。それを私は「身体の原創設」とか「根源的制度化」と呼んでいる」
「制度化、制度化っていつも言うのはそれか」
「身体それ自身にも現れないもの、感覚世界そのものを織りなすテクスチャそのものの成立過程を問うには、概念が足りないからね」