サラサドウダン

 今日の東京は午前中は晴れ間も出たが、だんだん雲が多くなり、夕方には凄まじい雨で、雷も鳴る。

 鉢植えのサラサドウダンが咲き始めた。

 サツキも一輪だけ先走って開花。

 ゼラニウム。我が家ではなぜかゼラニウムがうまく育たないことが多く、これも去年は元気がなかったのだが、今年は植え替えたせいか、調子がよさそうだ。

(きょうの1曲)THE ENID / The Loved Ones


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ロックガーデンから大岳山へ

 5月5日に奥多摩の御岳山へ行った話の続き。標高929メートルの山頂のすぐ下から急斜面を下って七代の滝を見たところから。

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 七代の滝。

 七代の滝から岩場に架けられた鉄の階段や露出した木の根っこを足掛かりにして急斜面を登り、天狗岩に出る。巨岩の上に天狗が祀られている。

 この付近は個人的にはオオルリウォッチングのポイントになっていて、今回も期待していたのだが、声が全く聞こえない。さえずりがなければ探しようがないので、そのまま歩き続けるほかない。

 これは去年のオオルリ

 人が多い天狗岩は素通りして、再び下っていくと、七代の滝の上流部にあたるロックガーデンに出る。

 渓流と岩石、苔、木々の緑が織りなす天然の庭。ミソサザイが水音にも負けない大きな声で複雑な節回しの歌を聞かせてくれる。


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 ラショウモンカズラが咲いていた。

 深い海の底に堆積してできた岩盤が凄まじい地殻変動の結果、このような山奥に露出するまでの壮大な時間を考えると、地球の歴史の中で人類が存在する時間というのはほんの一瞬のようなものなのだろうと思ってしまう。

 我々が目にする大地の姿というのは、常に現在進行形で変化する途中経過でしかない。

 ロックガーデンの終点、綾広の滝までやってきた。山岳霊場の水行の場である。

 滝壺の傍らの岩の上に骨が一本。シカの脚の骨か。

 去年はここにミソサザイのつがいらしい2羽がいたのだが、今日は見当たらず。声も聞こえず。そういえば、去年はここでもオオルリの写真を撮ったが、今日はロックガーデンではオオルリキビタキの声をほとんど聞かなかった。そのかわりキセキレイが1羽飛んできた。

 綾広の滝から斜面を上り、御嶽神社からの道と出合う。ロックガーデンは過去に3回歩いたが、いずれもここから御嶽神社のほうへ戻った。逆方向へ行くと大岳山である。標高は1,200メートル以上あり、途中に岩場や鎖場もあるそうだが、まだ10時半を過ぎたところで、時間はたっぷりあるから今日は大岳山に登ってみよう。御前山、三頭山と並ぶ奥多摩三山のひとつに数えられ、独特の山容で都心から見ても、目立つ山である。古くは海上からも航海の目印となったという。

 多摩動物公園から見た大岳山。

 ということで、さらに奥地へと歩き出す。御嶽神社周辺の賑わいに比べると、ロックガーデンはだいぶ人が少なかったが、ここからはさらに人が少なくなる。ただ、これは時間帯のせいでもあるだろう。あと1、2時間もすれば、もっと人が増えるはずだ。

 沢を渡り、斜面につけられた山道を登っていくと、前方にガイドに引率された十数人のグループがいた。その後ろをゆっくり行けばいいな、と思ったのだが、ガイドさんが「ちょっと左に寄って道をあけてください」といって道を譲られてしまった。仕方なく一団を追い抜いて先へ行く。

 アオゲラの声に続いてドラミングを耳にしながら、ひたすら登って行くと、道標のある峠に出た。芥場峠というらしい。左に行けばサルギ尾根、上高岩山方面、右が大岳山からさらに鋸山、馬頭刈尾根方面だ。

 しばらくは比較的歩きやすい針葉樹林の道を行く。しかし、「この先滑落事故多発、岩場・鎖場あり」の看板があり、自分の体力や装備を考えて、引き返すなら今のうちですよ、というメッセージなのだろう。ゆっくりと慎重に歩くことにしよう。

 やがて、左は植林されたヒノキ、右は新緑の広葉樹となり、まもなく明るい新緑の尾根道に出た。風が心地よい。山桜の花びらが散っていて、タチツボスミレがわずかに咲き残っている。

 こういう道ならいくらでも歩けるな、と思ったが、少し行くと、いよいよ岩場が多くなり、鎖が張ってある場所も出てくる。ただ、それほど険しいというほどでもなく、鎖につかまらなくても歩ける。

 なかなか味わい深い標識だ。「滑落注意」。一歩一歩慎重に。

 道はだんだん険しさを増し、時に手すりや鎖、岩や木の根につかまりながら、ゆっくりと登り、やがて左下に廃屋らしき建物がある広場に出た。10人余りがベンチで休んでいる。

 この建物は大岳山荘といって、2008年まで営業していたそうだが、今はだいぶ荒れ果てて、屋根も歪んでいる。

 さて、ここには鳥居があり、石段を登れば大岳神社がある。

 祭神は大嶽大口眞神、つまりオオカミである。日本人はニホンオオカミを絶滅に追いやってしまったので、まだ神様がいるのかどうかはわからない。

 社殿の前には狛犬ではなく、狛狼。雄雌がはっきり分かるようになっている。こちらは雄。

 神社の脇からさらに登る。あと一息だが、ここからがまさに急登で、道は険しく、岩場、鎖場も本格的になる。両手両足で岩にしがみつくようによじ登る場所もあって、これは登るのも大変だが、下るのも怖いな、と思いながら登る。

 そして、ついに大岳山の山頂に到着。時刻は11時半頃。途中では遠くが見える場所はほとんどなかったが、ここで一気に視界が開ける。

 標高1266.4メートル。富士山もばっちり見える。

 さほど広くはない山頂には20人ほどはいただろうか。大岳山には御岳山からだけでなく、奥多摩方面からも檜原村方面からもルートがあるので、次々と到着し、みんな大岳山の標柱と富士山をバックに写真を撮り、周囲の風景をぐるりとスマホで動画撮影したりしている。外国人もいる。

 僕も御嶽駅から歩いて4時間半かけて登ってきたので、感慨もひとしおではあるが、ゆっくりと休むような場所もない。

 二等三角点。

 丹沢から奥多摩へと連なる山並みを見渡し、頭上の木々の新緑を眺め、正午前には下りにかかる。

 険しい岩場を慎重に下り、登ってきた同じ道を戻る。

 早朝から登っている人は登山用品の専門店でウエアから様々な装備までしっかり揃えた本格的な人が多いが、今ごろのんびり登ってくるのは気軽に山歩きを楽しむといった風の人たちで、アジア系の外国人の家族連れなども多くなってくる。その服装で大岳山の岩場は大丈夫か、と思うようなスカートの女性もいた。

 芥場峠を過ぎて、まもなく近くでオオルリの声が聞こえた。斜面の下に生えた木がちょうど目の高さに枝を広げていて、そのどこかに止まって、とても良い声でさえずっている。姿さえ見つかれば、ばっちり写真が撮れそうなのだが、見つけられない。

 一度飛んだので、一瞬だけ姿が見えたが、ますます見えにくい場所へ行ってしまったので、諦めて歩き出す。ほかにアオゲラやカケスが飛ぶ姿も見たが、今日は夏鳥ウォッチングという意味では大きな成果は得られず。

 御嶽神社

 奥の院(1,077m)の遥拝所。

 往路に御嶽神社に参拝しなかったので、帰りには石段を登ってお参りし、下りは14時半頃のケーブルカーで山を下り、そこからバスを使って御嶽駅まで。どちらも満員で立ちっぱなしで、歩くより楽という感じでもなかった。青梅線の電車も青梅までは座れず。

 自宅から自宅まで33,728歩。

 本格的な夏が来る前にもう一度ぐらいどこかの山に登りたい。

 

 

御岳山へ

 5月5日、新緑と夏鳥をめあてにどこか山へ行こうと考え、とりあえず御岳山へ行くことにした。

 朝4時半の月。

 4時前に目が覚めたので、小田急の始発で出かけ、南武線青梅線を乗り継ぎ、6時57分に御嶽駅に着いた。すでに登山客がたくさん乗っていて、御嶽でもかなりの下車客があった。

 御岳山へ行くには駅からバスとケーブルカーを乗り継いでいくのが普通だが、時間はたっぷりあるので、駅から歩く。

 御岳橋からの多摩川の清流が何とも気持ちがいい。

 街路灯の上でキセキレイがさえずり、ツバメが飛び交っている。ガビチョウの声も聞こえる。

 多摩川右岸の吉野街道を行くと、さっそくキビタキの声が聞こえてくるが、次々と走り去るクルマやバイクの音がそれをかき消してしまう。

 やがて、左手に火の見櫓が見えたので、ちょっと寄り道。その先にはお寺もある。

 心月院。弘法大師像が祀られているから真言宗だ。ウグイスの声を聞きながら、手を合わせる。

 参道沿いや境内に小さなお堂があり、石仏がある。

 観音菩薩地蔵菩薩

 庚申塔

 弘法大師像。

 街道に戻って、さらに歩く。ツバメがたくさん飛んでいて、ホオジロの声も聞こえる。

 街道から分かれ、赤い鳥居をくぐって御岳山への登山道路に入ると、山のほうからオオルリのさえずりも聞こえてきた。今年初めて聞く声だ。去年はここで実際にオオルリの姿を見たのだったが、今年は姿までは見つからず。ミソサザイの声も響いてきた。役者は揃っている。この先で姿を拝めるかどうか。

 寄り道も含めて40分ほどでケーブルカーの滝本駅に着く。バスで来た人たちが行列を作っているので、素通りして、この先も歩いて登る。

 滝本の由来となった小さな滝が傍らにある禊橋を渡り、「御嶽神社」の額がある石鳥居をくぐると、道の脇に大杉が聳えている。江戸初期に整備されたという表参道の杉並木で、樹齢は四百年近いのだろう。

 この道は去年も歩いたが、山上集落の居住者や通いの従業員、荷物や郵便の配送・配達のクルマやバイクが通れるように全区間舗装されている。ただ、道幅は狭く、かなりの急勾配。ヘアピンカーブが連続するので、車はカーブのたびに一度では曲がれず、切り返しをしなければならないようだった。

 滝本の標高がすでに400メートルを超えているが、神社がある御岳山頂は929メートルで、参道の長さは約3キロある。

 途中には「ろくろっ首」と呼ばれる旧道が残っていて、まさにろくろっ首のようにくねくねと曲がりくねっている。

 やがて、高いところからオオルリの声が聞こえたが、姿は見えず。ヒガラやキクイタダキの声も聞こえる。

 ケーブルカーに接近する地点では杉の木が何本か伐採されていて、丸太に腰かけて休憩している人がいた。

 斜面に生えた杉は根元の土が侵食されて、根がタコの足のように露出しているものが多く、だからといってすぐに倒れるわけではないだろうけれど、万が一倒れた杉の巨木がケーブルカーを直撃したら、大惨事は間違いなしである。そこで予防的に伐採したのかな、と思ったのだが、真相は不明。

(根っこが露出した杉が目につく)

 ところで、途中で気がついたのだが、杉の木には番号札が貼り付けられている。そして、進むにつれて、番号は小さくなっていくのだ。目の前にあるのは339と338である。スタート地点の杉が何番だったか確認しなかったが、あとで調べてみると784番であるらしい。伐採された木の番号は欠番になっていて、数字はどんどん減っていくので、これを励みに登ればいい。

 やがて、参道入口の禊橋と御師集落のほぼ中間地点で、かつては小さな茶屋があったという「仲見世」を過ぎ、ケーブルカーの高架をくぐる。ここまで滝本から27分。

 さらに少し行くと、団子堂。お地蔵さんを祀ったお堂があり、団子を供えたというので、この名がある。傍らにベンチがあるので、ちょっと休憩。今朝はまだ何も食べていないので、おにぎりを1個食べる。けっこう汗をかいた。滝本から表参道を歩いて登る人がいることは分かったが、御嶽駅からバスを使わずにずっと歩いてくる人というのはそんなにいないのではないか。それでも、昔の人は江戸からでも、どこからでも、自分の家からずっと歩いてきたわけだから、それに比べれば、電車で来ただけでも、相当楽をしているのは間違いない。

(ケーブルカーが登っていく)

 さて、歩くか。目の前の杉の番号は305番だ。

 しばらく上ると、キビタキのさえずりが聞こえ、ほとんど同時にツツドリの声も聞こえてきた。キビタキはかなり近い。姿を見つけられそうだ。杉と新緑の広葉樹が混交して、そのどこかにいる。絶好のチャンス。なんとか姿をカメラに収めたいと思うのだが、なかなか見つからない。しばらくピッコロのような声で弾むように歌うと、場所を移動するので、木から木へと飛ぶ姿は何度か確認できたのだが、見やすい場所には止まってくれずに、だんだん遠くへ行ってしまった。

  とりあえず音声だけでも、と動画撮影してみた(サムネイル画像は過去の撮影)。


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 これも過去に撮影したキビタキ。この場所で撮りました、と噓をついてもバレないかな?

 まだまだ粘れば撮影チャンスはありそうにも思えたが、後ろ髪を引かれる思いで歩き出すと、すぐにまたキビタキの声。ただ、今度の個体はまだ声が本調子ではないのか、いかにもメスにもてなさそうな歌声だった。

 杉の木の番号はどんどん減っていき、3、2、1。1番の杉はかつて黒門があったという場所にあり、さらに道は続いて、ケーブルカー御岳山駅からの参道に合流。急に人が増えて賑やかになった。ここからは宿坊が並ぶ御師集落を行く。ここまで滝本から1時間10分ほど。キビタキ探しで15分ぐらいは樹上を見上げていたので、歩いた時間は1時間弱か。

 すぐにビジターセンターがあるが、まだ9時前で開いていなかった。

 参道途中の宿坊の前の台上にラップでくるんだ手作りおにぎりがザルに盛ってあって、1個100円。ミニチュアの賽銭箱があり、そこにお金を入れるシステム。気まぐれおにぎり屋と書いてあり、前回もここを通った時に買わなかったけれど、記憶には残っていて、今日も売っていたら買ってみようと思っていたのだ。

 タケノコご飯と山椒味噌のおにぎりを買う。

 樹齢千年という神代欅。

 土産物屋が軒を連ねる通りを抜けると、御嶽神社の石段の前に出る。これを登り切ったところが山頂だ。

 しかし、僕は山頂までは行かず、心の中で神様を拝んで、随神門から脇道に逸れる。現在の時刻は9時07分。御嶽駅からここまで2時間ちょっと。けっこう疲れた。

 少し行くと、長尾平。ヘリポートのある展望台からの眺め。

 東側。クロツグミの声が聞こえた。

 西側。ひときわ高いのは御嶽神社奥の院

 長尾平の分岐からは養沢川の谷へ向かって急な下りを行く。段差が大きく、上りも辛そうだが、下りも足への負担が大きい。それでもどんどん下って、養沢川の七代の滝へ。

 昨年はここでミソサザイがさえずっていて、写真も撮ったのだが、今日は鳥の声が全く聞こえない。ただ水音だけ。去年はこの先でオオルリの写真も撮ったので、また期待しているのだが、ここで声が聞こえないということは、オオルリもこの近辺にはいないということか。ちょっとアテ外れだ。

 七代の滝の周辺には今から1億5千万年以上前のジュラ紀に深海の底に堆積したチャートの岩盤が露出していて、滑落死亡事故が発生したとの注意書きがある。確かに滑りやすそうなので、注意しながら滝を眺め、さらに進む。

 この先には渓谷美が素晴らしいロックガーデンがある。

 

 つづく








 

ホースショー

 JRA馬事公苑で今日から3日間、ホースショーが開かれる。第46回ということだが、長らく休苑していたので、ホースショーも久しぶりだ。2016年以来か。

 キッチンカーや乗馬グッズの店などが出ていて、来場者も予想以上に多い。大変な盛況だ。

 メインアリーナでは馬術競技の大会が行われていた。以前はチームごとに様々な仮装をしての馬術競技があって、あれが楽しみだったのだが、今回はないようだ。

 東京五輪でも使用された花札障害。そして、この馬場で無観客で五輪の馬術競技が行われたのだ。

 昨年秋の再開苑後、馬術競技は何度か見たが、今回の135センチクラスは今までで一番高い。

 これも五輪で使われた歌舞伎障害。馬にはどう見えるのだろう?

 インドアアリーナも開放されている。

 パドックには引退競走馬が出ていた。

 ボールライトニング

 その隣は…。おっ、ダイワキャグニーだ。

 今日はとにかく馬がたくさん見られる。

 陽射しの下では暑いが、日陰に入ると、爽やかで、とても気持ちがいい。

 池にはカキツバタスイレンが咲いている。

 馬術競技の合間に馬とのふれあいタイム。

 ミニチュアホースのリキマルも登場。

 その間にインドアでは警視庁騎馬隊によるレプリーズ。馬によるマスゲームのことらしい。先ほどは閑散としていた会場が満席で、立ち見の人垣が何重にもできていた。

 そして、外ではまた馬術競技が始まる。

 スタンドは満席。

 以前のホースショーのほうがいろいろあって、面白かったような気はする。

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嘉陵紀行「南郊看花記」を辿る(その3)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)の江戸近郊散策日記『江戸近郊道しるべ』の「南郊看花記」のルートを辿っている。文政二年三月二十五日(1819年4月20日)、嘉陵が六十歳の春の記録である。

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 高輪・泉岳寺の南隣の如来寺で知り合った、ほぼ同世代の大日向民右衛門と一緒に歩き出した嘉陵は引き続き、いろいろと語り合いながら、二本榎から高台の尾根道を南へ下る。次にめざすのは江戸近郊の一大行楽地で桜の名所でもある品川の御殿山である。

 当時の二本榎にはその名の通り、2本の榎が聳えていたが、今は昭和八年落成の高輪消防署二本榎出張所の建物がランドマークである。かつては望楼から東京湾が望めただけでなく、東京市内が一望できたという。

「台の町をすぐにゆきはつれば、菜の畑をへだてて、向ひに御殿山、其西に大崎の松平出羽守殿のやしき棟をつらねて見ゆ」

 二本榎から700メートルほど行くと、新高輪プリンスホテルの角で道は左に折れ、そのまま「柘榴坂」の名のある坂を下ると品川駅前に出る。しかし、古道はすぐに高輪東武ホテルの角で左折して、再び南へ続く。

(「芝三田二本榎高輪辺絵図」部分)

 外国大使館などもある住宅街だが、当時は大名屋敷が並んでいたようだ。

(高輪四丁目のアイスランド大使館)

(左手の鬱蒼とした森は三菱グループの「開東閣」。旧岩崎家高輪別邸)

 やがて、道は港区と品川区の境界となって台地の縁を行き、右手の品川区側は目黒川の低地となる。

 まもなく「御殿山」の交差点で八ツ山通りを越える。この先、左手が御殿山である。そして、右側に松平出羽守の下屋敷が見えたようだ。今の北品川五丁目にあった。

 松平出羽守は出雲松江藩主で、当時は第八代・松平斉恒(1791-1822)。前年に亡くなった先代の治郷(1751-1818)は「不昧」(ふまい)と号する茶人として有名で、隠居後に当時の下大崎村の下屋敷に住み、高価な茶器を収集するなどして、藩の財政を傾けたとも言われる。

「今の侯の父の侯、退隠の後、不昧翁と称す、世にすぐれたる茶の道すき給ひて、ここに住給ひ、庭より茶亭まで、ものすきて作りなし、いまだ其経営全く備はらざるに、去年失給ふぞ本意なき、又庫(くら)をもあまた建つらねて、天下の茶器の名だたるものをあつめ貯へらる、没し給ふの今に至りては、ただ其器をのこし給ふのみにして、徳を称するものなし、古の人は道をもとむ、今の人は器を求む、と文中子(中国隋の儒学者・王通のこと)はいひし」

 嘉陵が昔の人に比べて今の政治家は・・・と批判的に捉えるのは、現代と変わらないが、松江市では不曖公は茶道だけでなく松江の豊かな芸術文化の礎を築いた人物としてそれなりに評価されているようだ。

 

 さて、嘉陵と民右衛門は御殿山までやってきた。太田道灌がこの景勝地に館を築いたことに由来すると言われ、徳川将軍も鷹狩や茶会などに利用する別邸「品川御殿」を築いた場所でもが、元禄十五(1702)年に焼失している。吉野桜が植えられ、桜の名所となり、江戸湾を望む絶景の行楽地として、大いに賑わい、浮世絵などにも多く描かれている。

歌川広重「江戸名所四季の詠・御殿山花見之図」)

 

「御殿山は天明のころ、伯母ぎみと来し事のありしも、みそとせばかりの昔にて、げに夢うつつのここちす、古木の花は其ころよりも猶のこりすくなに成て、はつかにかぞふばかりになん、余はみなわか木をうえつぎたり、かなたこなた民右衛門とふたり見ありく、むしろしきて、ここにやすみ給へと、うるさきまでにすすむ、花みる人あまたなれど、さすがろうがはしきまでにもなし」

 

 嘉陵は御殿山には天明の頃に伯母と一緒に来て以来だったのだろうか。三十年前に比べて、古木は少なくなって二十本ばかりとなり、ほかは若木を植え継いでいたようだ。民右衛門とあちこち見て歩いていると、蓆を敷いて、休んでいけとしつこく勧められたりして、花見をしている人は多いとはいえ、混雑というほどではなかったようだ。

 

 この御殿山は幕末には黒船の来航で、品川に砲台(台場)を造成するために埋め立て用の土砂の採取場となって、山が削られ、窪地ができてしまった。

 次の広重の「名所江戸百景・品川御殿やま」では地層が剥き出しになった崖を強調して描いているが、御殿山の変わり果てた姿への広重の悲嘆の気持ちが表れているようだ。

 その後、開国により、この御殿山にはイギリス公使館が建設されるが、文久二年十二月(1863年1月)、攘夷派の高杉晋作らによって焼き討ちに遭い、実行犯には後の初代総理大臣となる伊藤博文もいた。いずれも嘉陵にとっては予想もできない未来の話である。

 明治になると鉄道建設によって御殿山はさらに削られ、現在は山側から山手線、京浜東北線東海道線横須賀線東海道新幹線がそれぞれ複線で計10本の線路を電車がひっきりなしに走っている。

(左側が御殿山)

 山手線は御殿山の台地を縁取るように西へカーブして大崎へ向かう。線路の左手の丘はかつては御殿山とひと続きだったのだろう。

 御殿山の八重桜。往時は吉野桜が植えられていた。

 現代の御殿山は再開発され、御殿山トラストシティと称して高層のオフィスビルやホテル、レジデンスが立ち並ぶが、その一角は水と緑の庭園になっている。池のある窪地は台場築造のために土砂を採取して生まれたものだろうか。

 この御殿山で嘉陵たちがどの道を通ったのかは不明であるが、僕は八ツ山橋の御殿山交差点から直進する。その道際に「御成道」の説明版があるが、江戸時代に徳川家の「品川御殿」があったことから、後に御成道と名付けられたのではないか、とのこと。

 とにかく、その「御成道」を南下する。

 突き当りがミャンマー大使館。左折すると桜並木になって、御殿山の庭園上に出て、線路を渡る陸橋に通じている。

(正面がミャンマー大使館)

 跨線橋から西を見る。

 御殿山をあとにミャンマー大使館前まで戻り、大使館の先を左折する。この道は御殿山通りといい、南へ坂を下ると、目黒川の居木橋に出て、南へ行けば大井方面、西へ行けば目黒方面に通じる古道である。ただ、大井方面は途中区間がJRの総合車両センターによって消えている。

 御殿山の坂。この先、急坂になるが、昔に比べれば、勾配はだいぶ緩和されている。

 目黒川の低地まで一気に下って、山手通りに出る。右へ行けば居木橋だが、左へ行く。

「あくまでながめしつれば、山の尾を南へくだりて、東海寺のうち、ここかしこ見ありき、南門より出て、畑のほそみちをゆく」

 萬松山東海寺は寛永十五(1638)年、徳川家光が自らが帰依する沢庵宗彭和尚(1573-1646)のために創建した臨済宗大徳寺派の寺で、東海は沢庵の号であった。元禄七(1694)年に品川宿で発生した火災で全焼するも、徳川綱吉により再建されるなど、幕府の手厚い保護を受け、十七の塔頭を有する大寺院へと発展したが、明治になって新政府に寺域の多くを接収され、廃仏毀釈で破壊されるなど、寺は衰退する。現在はかつての塔頭・玄性院(下の絵図の赤枠で囲んだ場所)が東海寺を継承している。


(「芝三田二本榎高輪辺絵図」部分。画面右が北)

 ということで、嘉陵たちは東海寺の境内をあちこち見て歩いたようだが、今では東海寺の本体は失われているので、見るべきものも限られている。

 山手通りを東へ行き、山手線と横須賀線、新幹線のガードをくぐり、東海道線のガードの手前を左に入ると東海寺大山墓地で、ここに沢庵の墓がある。石柵に囲まれた丸い大きな自然石があるだけで、それ自体が禅の思想を表現しているように見える。


(沢庵の墓)

 さらに東海道線ガードをくぐると、左側に小中一貫の品川区立品川学園があるが、この敷地に昔は小堀遠州作の回遊式庭園があったという。

 その学校の先、右側に東海禅寺の石柱が立ち、その奥に東海寺がある。

 現在の東海寺境内には釈迦三尊像などを安置する仏殿(世尊殿)や元禄五(1692)年の梵鐘のある鐘楼などが並ぶが、なんとなく荒んだ雰囲気。

 嘉陵と民右衛門は東海寺の南門を出て、玄性院の西側の要津橋を渡り、さらに南へ向かった。

 

 つづく

 

 

カキツバタ

 昨夜の雨も明け方までには上がり、爽やかな青空。

 カキツバタが咲き始めた。

 このカキツバタは昔からある。株分けして鉢植えを睡蓮鉢に沈めたり、壊れた炊飯器の内釜に植えたりして育てている。

 毎度のことながら、写真だと本来の色がうまく出ない。もう少し紫色なのだが、このブルーも悪くはない。

 

 拾ってきたドングリから芽を出して、今年で16年目のクヌギ。セリアで買った青い鳥を止まらせてみた。

 毎年春に根を切り詰めて植え替え、小さく小さく育てている。

(きょうの1曲)佐藤正美/森のささやき


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2024年5月1日の新宿駅西口

 きょうから5月。東京は弱い雨が降り続き、気温も低め。

 新宿駅西口の小田急百貨店本館が建て替えのため、営業を終了したのは2022年10月2日のことだった(その後も隣接する小田急ハルクで規模を縮小して営業継続)。

 その後、多くの乗降客が利用する駅の真上で解体工事が始まり、現在、小田急百貨店のビルは完全に姿を消した。

 小田急線の新宿駅もホームの天井のパネルがはずされ、配線、配管が剥き出しになっていて、なんとなく荒んだ雰囲気になっている。

 この解体現場の下に今も大勢の人が往来し、電車が発着しているのだ。

 今までビルに遮られて見えなかった東口のルミネやアルタが西口から見えるようになった。

 「笑っていいとも」の収録が行われていたスタジオアルタも閉館するらしいね。

 跡地には高層ビルが建つことになっている。

(おまけ)オランウータンのホッピー(3歳♂)

 兄のアピ(9歳)と。

(きょうの1曲)あっぷるぱい/デイドリーミング


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