仮設住宅での支援
今日の仙台は33度との天気予報。実際かなり暑かったようです。私は暑いのが得意なのでむしろこのくらいでいいのですが。
、アウトリーチについてはまとめて後日クリニックに送ってくれれば今後検討、必要に応じてするとのことでした。
主治医へ報告
午前中は仮設住宅へ。昨日も紹介した方のお宅にドクターと心理士さんと一緒に伺いました。 朝、日精診の被災地支援をこーディネートしてくださっているさいとうクリニックの斎藤院長よりお電話をいただき、問題となっているケース(毎日業務報告をメールで送信している)については、訪問看護だけではなく主治医へ報告するようにと言われました。国立の医療センターにおかかり*1の方だったので、報告をためらっていたのですが、やはり必要ですね。というわけで、再度午前中支援に来てくださっているドクターと訪問、もし可能であれば診察していただき、その上で状態を報告することにしました。
家族からの暴言・暴力「前はなかったけれど」
その方のお宅に伺ったところ、意外にも今日はお部屋まで迎え入れてくださいました。そして、私たちの顔をみて、「昨日はすみませんでした」と何回か言われました。*2。
ぺしゃんと座って、背中を丸めて、こうべを垂れて、その方がかすれるような声で言われたことをまとめると、
家族みんなが怖い。人が怖い。一人でいても安心できない。家族がひどいことをする。殴ったりする。夜、家の外で寝ろと言う。前はそんなことはなかったのに。
眠れない。寝てもすぐ目が覚めてしまう。朝何時に起きたか、夜何時に寝たのかよくわからない。死にたい。生きていたくない。
ということでした。
このような問診の結果をふまえ、ドクターが主治医に連絡をとってくださったところ、主治医も心配されており、早めに受診してほしいと思っているとのことでした。
良かったいろいろ話してくれた、つらい状況はかわらないけれど、少し状態が良くなったかなあと安心したのもつかの間。お一人忘れ物をしたということで、その方のところに戻ったら、ものすごく機嫌が悪かったそうです。やはり不安定な状態ですし、早めの受診と家族対応が必要だということになりました。
家族対応をどこが行うか。それも課題なのですが、それは今後現地スタッフと保健所で相談していただいて決まっていくことでしょう。マネジメントをきっちりすれば、ある程度良くなりそうなのだけれども、今はどの機関も手一杯です*3。もう少しいろいろなケースが出てきたところで、本格的にどこかが動き出すのでしょうか。
みんながつらい
この方の場合、ご家族はご家族で相当苦労されているのだと思われます。避難所では夜間の徘徊がみられたとの記録もあります。仮設での夜間徘徊があるかは現時点でわかりませんが、夜外で寝ろと言われるのは、夜間ご家族が十分休息できないからだとも思われます。詳細は記せないのですが、いろいろな家族歴もあり、ご家族はご家族でストレスを抱えていることでしょう。
そしてこの震災。
家を失い、財産を失い、人によっては家族や大切な人を喪い、職など重要な役割や生きがいを失い、避難所で不自由な生活を強いられ、それらを経てこの狭くて殺風景な仮設での生活。それに加えて空間の密室性だけは備わっています(音はきこえそうですが)。震災をめぐる多大なストレスが弱い人に向かうのは、必然といっては言いすぎでしょうか。
震災で、みんながつらい思いをしています。
仮設住宅への支援はまだ始まったばかりです。まだまだ長い復興への道のりです。
全国のみなさんの支援はまだまだ必要だと感じました。
津波に襲われた地域にて
午後は、保健所が現在実施している全戸調査のお手伝いを行いました。京都市、さいたま市の保健師さんと一緒です。保健師さんのアウトリーチ活動に同行でき、とても良い勉強になりました。
一戸一戸まわり、住宅地図に印をつけていきます。
迅速な決定を!
今日まわったところは、津波が襲い家が壊れながらも、どうにか持ちこたえており、補修をして暮らそうと思っている方がいる地域としては最南端の地域です。これよりも南では家はほぼ全壊、新築する以外は暮らせません。しかし、復興特区とか復興構想のデザインがまだはっきりしておらず、新築して良いのか、補修して良いのか、補修したらお金がでるのかがわかりません。なので、みなさん宙ぶらりんの状態で困っていらっしゃいました。とある方が、
行政レベルが立ち上がってくるまで待っていると全てがダメになってしまう
と言われていました。悲しいけれども、本当にそうなんです。仙台も梅雨の時期に入りました。行政が決めてくれるまで待っていては、壊れて補修の必要な家はどんどんダメになってしまう。一刻も早く決めてほしいというのが、この地域の方の切実な願いでした。
「決定的写真!」は撮れません
地域の方が補修している中で、写真は撮れません。そんな無神経なことはできません。
人がいないところで、ほんのちょっと、携帯のデジカメで撮る程度です。
腕がよくないのもあるけれども、撮りたい光景こそ撮れません。
関係性で成り立っている職業です。仕方ないですね。
写真をクリックすると、多少拡大してみえます。ご覧になっていただければと思います。
がれきと家と。建築によって被害は全く異なります。かなり南の地域でも残っている家があれば、がれきと化した家もあります。新しい家は比較的強いです。でも、津波が怖いからと、新築の家を離れる決心をしたところもあるそうです。若い人はそういう傾向にあり、ずっと長く暮らしてきたお年寄りは戻りたいと思う人が多いそうです。
ボランティアの学生さん。がれきの片付、泥をすくう、家をきれいにする。ボランティアのお仕事でどんなに助かったか!とたくさんの方がおっしゃっていました。若い学生さんを目にすると、こちらもほっとします。
がれきの山を前に生活するのってさぞつらいことだと思います。だって、そこは前は青々とした田んぼと南の集落があった土地なのですから。
3月14日には自衛隊の「検索」が終了との貼り紙。このお宅は無人でした。
車窓から。プレハブ住宅や車が流されて傾いているのがわかるでしょうか。ちょうど小川の堤防があって高くなっており、水がひいたときにあの地点でとどまったのだと思います。
古いお宅の被害は甚大です。ここももう住めません。
そして最後の写真。がれきの奥に松林が見えます。かろうじて津波に耐えた松。あの奥が海です。
「がれき」って書いてしまったけれども、そのがれきの破片の一つ一つに、人の暮らしと人の希望がつまっていたはずです。その破片一つ一つが、それを使っていた人たちのさまざまな姿を目撃していたはずです。
何が起こってしまったんだろう・・・。
わかったようで、わからなくなってしまいました。
住みなれた地域で暮らしたい!!
長くなってしまいました。書き続けるのが申し訳ないのですが、どうしても伝えなければいけないことがあるのです。まあ、いつでもいいので読んでください。
それは、
「住みなれた土地で 自分らしく暮らしたいという気持ち」
という気持ちが、いかに強いか、そしてその気持ちがいかに人を支えてくれるかといことです。
今紹介したように、この地域は家で暮らすことが可能なところとしては最も海に近い地域です*1。津波の脅威にさらされ、家が壊れ家財道具が流され、亡くなった方もいらっしゃいます。
それでも、120くらいある世帯のうち、3分の1程度は、家を補修してまたここに住みたいと言っています*2。「補修」といってもさまざまですが、中には私の身長よりも高いところまで水に浸かってしまったお宅まであります。被災直後は畳も家財道具も水につかり使い物にならず、床は破れドアは壊れ窓ガラスは割れ、泥やがれきで埋まってしまったような状態です。今でも壁に線を描いたように、水につかった跡が茶色くくっきりと残っているお宅もありました。
でも、それでもみなさんおっしゃいます。
住みなれた土地なんだよ。ここでずっと暮らしてきたんだよ。今さら他では住めないよ。
と。
そして、住みなれた土地で、この家で暮らしたいという思いが、家を掃除し家を直し、近所のみなさんと頑張るエネルギーを生んでいるのです。この地域をもう一度再生しようという強い力を各コミュニティに与えてくれています。
人にとって、住む家とは、地域とは、こんなにも大切なんだ、こんなにも力を与えてくれるものなんだということに心を打たれました。
と、同時に。
私たち、医療・福祉関係者は、厳しく反省しなくてはいけないのではないでしょうか。
人にとって、住みなれた地域から、家から離されることが、いかに過酷なことなのか、希望しない場におかれることが、人にとっていかに理不尽なことか。
私の背丈よりも高く浸かった水の跡を記す線。その茶色い線の横で、「ここに住みたいんだよ」と語るおじさんの顔を、一生忘れたくありません。意にそわない入所・入院は可能な限り防ぎたい。そうでなければ、私がここに来た意味がない。
そう強く、強く、思います。