無常迅速

露眺むる人夜風に時の音を聞く ぞうりむし
〜〜〜〜〜〜〜
名古屋の玄関である、名古屋駅のツインタワー。
日も落ちた夜7時、私はその玄関をくぐり、名古屋の街へと繰り出した。

駅の正面から市街地を横に貫いているのが桜通り。
その通り沿いに暫し歩いていると、周囲の建物よりひときわ輝いている建物が目に入った。

DIAMOND WAY

私は、この建物を見た瞬間、直感的にシャッターを切る体勢に入った。
なぜだろう。この時の直感はどこから湧き出てきたのだろう。

私の覚えている限り、一目見て印象的だったのは、光だったように思う。
DIAMONDを名に冠するとおり、ダイヤモンドをふんだんに散りばめたような洒落た外観。
建物内の照明具合のためであろうか、その光はシャンデリアのようにも見えてくる。

しかし、本当に私は光だけに魅了されたのか。いや、違う。
他にも何かがあったはずだ。

ガラス張りの外観に走る、幾筋もの黒い影。
この影があるからこそ、ダイヤモンドの輝きが引き立っているのだ。
とりわけ印象的なのが、建物の角を縦に貫いている部分。
その濃い黒色は、白黒写真にしてみると、夜空と一体化しているようにも見えてくる。

シャンデリアのようなダイヤモンドの鋭い光と、夜空へと続く真っ黒な影の筋。
まさしく、DIAMOND WAY

すきっぱら
〜〜〜〜〜〜〜
俳諧始末

「露眺むる人」というのは、端的に言って風流を解する者のことだ。
伝統が後景に退いたこの現代に「露」を眺め、もの思う(「ながめ」のもう一つの意味)のは、教養ある風流人以外にはありえない。
露は古来宝石のようなものに喩えられてきた。
たとえば、『和漢朗詠集』巻上、秋の条には、「露」の題で三つの歌例が収められており、ここでは露が真珠、寒玉(冷え冷えと透き通った玉)、白玉(原文:珠)に喩えられている。白楽天の文例を引く。

可憐九月初三夜 露似真珠月似弓 白

憐れぶべし九月の初三の夜 露は真珠に似たり月は弓に似たり 白

なぜ私がすきっぱらの写真に対して露などという季題を選んだかというと、写真の主題となるDIAMOND WAYに関わりがある。
ダイヤモンドは、その漢名を金剛とも言うが、いかにしてそれを秋の季題に結びつけるか。
写真に表現された光と影の交錯するイメージ、それを見失うことなく、哀切漂う秋の舞台にどうやって表現するか。
この写真が冬のものであれば、話はもっと簡単である。
冬の澄んだ空気、そこに輝く街路の光、そしてダイヤモンドのごときビル。
こうした題材は、季題としていかにも表現しやすい。
ところが、今は秋である。
秋と金剛(ダイヤモンド)ということで私が思い出したのは、川端茅舎の

金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎

という句であった。
金剛といい、石の上といい、これらは禅機を感じさせる文言であって、京都の東福寺臨済禅にも通じていた俳人でなければまず書けなかった句である。
臨済禅、漢詩、そして俳ということであれば、まず芭蕉の名が思い浮かぶ。
現代文明が創り出した芸術(DIAMOND WAY+写真)から翻って、伝統(露、金剛、句)へ問いかけるという困難な課題に光明を示してくれたのが

猿を聞く人捨て子に秋の風いかに はせを

の句であった。
漢詩の哀猿を、(当時の)日本の現実である捨て子へと翻した骨法を応用させてもらった。
そして、写真に見る光と影の交差については、「時」の語を別様に言い換えれば見えてくる。
先人たちは、時間を光陰と呼んでいた。
秋に露を眺める好事家(こうずか)なら、当然「時」という語から「光陰」の語を連想する。
そうした読み筋を辿ることさえできれば、必然的に、季節を告げる「風の音」に、時そのものを表す「光と影の交錯」を重ねることに通じる。「夜風に時の音を聞く」のである。それは、写真の心にも適ったものではあるまいか。

ぞうりむし