中国唐代末期の禅僧。諱は義玄。 曹州南華(現在の山東省)出身。生年不明。866年没。(867年とも) 黄檗希運に師事し、その禅風を受け嗣いだ。
『臨済録』は臨済義玄の言行録であり、弟子の三聖慧然が編集し、興化存奨が校訂したとされる。
中国禅宗五家七宗の一。臨済義玄を開祖とする。宋代に栄えた。
鎌倉期に日本に広まった禅宗の一。栄西を開祖とする。 栄西は2度入宋して黄竜派7世虚庵懐敞の元で臨済禅を学んだ後、帰国して禅宗の定着に努めた。また、鎌倉幕府の帰依を受けたことから、日本臨済宗は武士階級に普及していった。
「此蓄生」たった三文字の賛が付されてある。 この季節の拙宅内はつねに寒く、私はたいてい鼻風邪を引いている。熱は出ない。躰が怠いということも、節ぶしが痛むということもない。ただのべつ幕なしに鼻水が出続ける。凄い量で、毎分ごとに鼻をかまねばならない。なにをするにも面倒だから、いきおいティッシュペイパーを小さく丸めて、鼻栓をして過すようになる。ポケットにタオルは必須となる。近所への買物くらいであれば、鼻栓の上からマスクをかけて出かけてしまう。 アッ来るな、という予兆は感知できる。やっぱり来たか、という自覚症状も明瞭だ。峠を越えるとやたらにクシャミが出て、症状が薄らいでゆく。その間五日ていどで、丸一週…
こんにちは、暖淡堂です。 別ブログ「散木の小屋」で「臨済録」原文全文と現代語訳を紹介しています。 今回は以下の記事を作成した時に考えたことを書きたいと思います。 sanboku.blogspot.com 臨済が修行をし、また多くの修行僧たちを指導した時代は唐の末期。 安史の乱の後の、混乱した状態の唐の国の大体黄河下流域を活動の場としていました。 その頃、その地域を治めていたのが軍閥。 臨在は、その軍閥の有力者のところに説教にいっていたことが、「臨済録」の記述からうかがえます。 そこで考えたのが、「臨済宗」の日本での受け入れられ方。 日本に「臨済宗」の教えが伝えられたのは、宋の頃に中国に渡った栄…
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」示衆から。 原文:師晚參示衆云 現代語訳:師は晚參の時、衆に対して言った 「臨済録」示衆の部分、分量があります。 ここでは臨済の示した考え方について、修行僧たちから質問されます。 それに対して臨済は丁寧に答えていきます。 初めの部分が「臨在の四料揀」と呼ばれているもの。 臨済の教えのエッセンスともいえる部分です。 臨済は、自分の前に現れた人の、その人自身と、その人の現状を作り出している環境と、それぞれに対して働きかけます。 そしてその人を導きます。 それらの方法について説明されている部分ですね。 詩的に表現されているところもあります。 とても学ぶところが多い…
平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて、武士や庶民に仏教の教えが広まりました。 それまでの仏教は教義が難しく庶民には理解しにくいものでした。 また、戦乱で命のやりとりをする武士にとって求められているものに十分に応えられているものでもありませんでした。 そんな状況を受けて、幕府の開かれた鎌倉を中心に広まったのが鎌倉仏教と呼ばれるもの。 浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が鎌倉仏教に数えられています。 このうちの臨済宗は、北条氏の保護を得て発展しました。 臨済宗とは 唐の末期、軍閥が割拠して国としてのまとまりが無くなっていた頃の僧、臨済を祖とする宗派です。 臨済とは、臨済自身が住職とな…
今日 お教えていただいた、禅の言葉。 踞地金毛(こじきんもう)の獅子(しし) 「臨済の四喝」(りんざいのしかつ)という公案 臨済宗の臨済禅師は、弟子を指導するときに、「かぁぁぁっつ!」と喝をいれる。臨済の喝、徳山の棒(りんざいのかつ、とくざんのぼう)の喝の方の話。 megureca.hatenablog.com その、臨済の喝には、4つ使い道がある。 ある時の一喝は、金剛王宝剣の如く、 (金剛王さんの、剣のように。すばらしい名刀のこと。なんでもスパスパきれる名刀みたいに。) ある時の一喝は、踞地(こじ)金毛の獅子の如く、 (「踞地」とは、大地にうずくまること、「獅子」とは、ライオンのこと。坐禅…
今日の坐禅会の後の言葉。 「四料揀」 (しりょうけん) 臨済禅師の語録。 私は、決して臨済宗の人ではない。 禅を達観した人でもない。 ただの、一般人であり、煩悩の塊であり、神も仏も信じていないような、信じているような。。。 坐禅を続けていると、そのうち何か見えてくるものがあるのかもしれないという煩悩に駆られて、時々坐禅をしている。坐禅をしているというより、黙って考え事になってしまったり、半分寝てしまったり、、、。 そんな、ただの一般人として、「四料揀」をどう感じたかを覚書。 「四料揀」とは、臨済禅師の語録から。 悟りの4段階を表した言葉。 1 奪人不奪境(だつにんふだっきょう) 2 奪境不奪人…
hiruandon-desu.hatenablog.com 西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』は晩年、特に「絶対矛盾的」部分を強調した『逆対応』、及び「自己同一」部分を強調した『平常底』に分節化される形で表現されるようになります。『逆対応』というのは絶対(神仏=弁証法的一般者)と相対(人間=個物)が相互に自己否定的に対応(作用)し合っていることを示します。西田が強い共感を示したセーレン・キルケゴールの思想も参考になっていると思われ、浄土仏教(特に浄土真宗)の信仰を理論的にしたと言われています。もう一方の『平常底』とは禅仏教の思想に由来しているとされ、最終的に我々の自己が、逆対応的に接している神…
「桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、この児(ちご)さめざめと泣きける」。さめざめ、とは止まらぬ涙をこぼして泣くということ。この稚児は片田舎からひとり比叡山に預けられ、修行していた。「これも今は昔、田舎の児(ちご)の比叡の山へ登りたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、この児さめざめと泣きけるを見て、僧のやはら寄りて、「などかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを、惜しう覚えさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候ふなり。されども、さのみぞ候ふ」と慰めければ、「桜の散らんは、あながちにいかがせん、苦しからず。わが父(てて)の作りたる麦の花…
奉魯愚(ブログ)に【スマホに囚われた幽霊もどきになるな】・・と書いただけで、提唱する「3分間独りイス坐禅」紹介blogの閲覧がパタリとなくなった。 どうやら・・スマホのゲーム・情報のやり取りは、知らぬ間に「中毒」となる。本や活字文化を大事にする人だけが、禅に近づける・・禅ニヨル生活ができるのである。 禅を世界に広めた「禅者」であり、仏教学者であった故・鈴木大拙は「禅の見方と行ひ方」昭和16年4/20発行 大東出版社の中で‥知的感性・好奇心の高い人だけが、欣求宗教でない禅に関心を持つ。たとえば感情(性)、愛情、罪悪感の強い人は知的直観の働きなど、耳を傾ける余裕はない。禅の「無・空」の霊性を他人事…
私が意訳しようといる禅本「碧巌録」・「無門関」にしても、以下、臨済録も「佛」の字は、すべて「禅」の文字に置き換えて読まれるよう推奨します。 現代人には「佛」の字は、仏教とか、教祖=釈迦牟尼仏とか、ずいぶんと宗教めいたイメージに束縛されて、純禅とは程遠い言葉だからです。 禅が中国にもたらされたのは、菩提だるま(約1500年ほど前)のこと。佛心宗として寺僧の揺籃を得て、日本に伝えられました。欣求(ごんぐ)宗教の1派として成立しましたが、教外別伝・不立文字・・文字に書けない、仏陀の教え(仏教)の別のこととしてでした。別段、経典もなく、釈尊(仏像)に祈願することもなく、ひたすら面壁9年の達磨さん(坐禅…
aienさん 何の価値なき(無功徳)のイス坐禅です。 10秒程度の呼吸、数息18回。半眼にして、立とうが・・寝ようが・・戦場だろう・・が 出産途中だろう・・が、1ニチ1カイデ、ジュウブンデス! 毎日 続けることだけが、坐禅のテーマです。 毎日、続けられたら、貴方は悟りの是非など関係なく「禅者(羅漢)」と呼びましょう。 この奉魯愚(ブログ)でご紹介している無門関や碧巌録の公案が、どうにか自分なりに納得できれば‥鈴木大拙翁の道(い)う「禅による生活」になれば‥禅問答は、太陽下のローソク(労息)にすぎません。 私は齢82歳‥禅書(出版)の意欲がなえてきました。何とか編集途上 ソノママでも電子…
坐禅と言うと禅宗であり、 禅宗は中国で誕生した宗派である。 インドから渡来した達磨大師を祖とする…とされているが、 実際は北魏から唐・後周にかけての時代 三武一宗の法難の結果、 寺も仏像も経文もなくてもできる仏教と言うコンセプトでつくられた宗派である。 唐末の武宗の孫の時代…臨済義玄の時代には それなりに復興しているようであり …寺院で棒で殴りあっていたが… 逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母… (仏に逢ったら仏を殺し、祖に逢ったら祖を殺し、 羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺す) ここだけ見ればどういう宗教だよと… もっとも坐禅自体は禅宗によらずもともとヨガ(瑜伽)…