坐禅をしている事実こそが仏祖であるとするとき、坐禅をするときに必要となってくる「坐蒲団」こそが仏祖を生み出すというメタファーはあって然るべきであろうと思う。今回はそのような教えを道元禅師の説法から学んでみたい。 上堂。 蒲団に坐して能く無量の諸仏を生ず、生、即ち無生なり。 禅板を拈じて能く清浄の法輪を転ず、転に所転無し。 直に、頭々無間に見仏して異なる相好無く、即ち真なり、 時々無間に経を聞いて声色に落ちず、方に妙なることを得たり。 然も是の如くなりと雖も、光影門頭了事底の漢、即ち得たり、祗、賓主未だ分たず、影像未だ判ぜざるが如きの時、如何が履践せん。 良久して云く、 鼻孔、開口を笑い、眼睛、…