近代日本人の性倫理の系譜 日本人の純愛主義と男根主義

性に寛容な日本人とキリスト教性倫理


西洋文化は、資本主義、民主主義を世界に拡散した訳だけど、それとともにキリスト教の性倫理という特殊な文化を広めた。キリスト教の性倫理はとても厳しくて、基本的には性関係そのものを禁止する。そうすると子孫が残せないので、生涯を添い遂げる夫婦においてのみ許した。それでも厳しい戒律では性行はもちろん、自慰さえも悪として禁止した。

この厳しい性倫理は、近代の西洋理性主義を結びついて、近代人なら当然守るべき倫理であり、それが守れない民族は野蛮人として、対等に見なされなかった。そのために日本も明治において、この厳しい性倫理を社会に浸透させるのに苦労した。

そもそも農耕を中心とする文化では、性関係は作物の受精をイメージして、めでたいものだった。キリスト教圏外では、性関係は大らかであることが一般的で、日本もそうだった。日本でも、江戸時代に春画が流行って、一般に売られていたが、当然、エロを楽しむためでもあるが、豊作を願うお守りでもあったと言われる。

江戸時代の性倫理は、儒教の厳しい武士以外は、大らかだった・農民は土地に固定して生活していたので、村は生まれたときからの知り合いだし、性行は夜這いとか、盆踊りという乱交とか共同体を結びつける娯楽の一つだった。言ってしまえば、生まれたのが誰の子供かも、いわば村の子供なわけだ。

避妊はなかったが、現代が妊娠して3ヶ月内はまだ人間ではないので、中絶しても殺人罪に問われないルールに対して、江戸時代は、生まれてすぐに親が育てると決めるまでは人間ではなく、労働力になる男子か確認して決めるなど、間引きが一般的だった。避妊術のない時代は、間引きは世界的にも一般的だった。




日本人の純愛主義と男根主義


日本も、近代にキリスト教の厳しい性倫理が求められた。特に最初は女性に行使された。結婚するまで処女を守る、妻は浮気をしない貞操をまもる。一生一人の男に尽くす純愛主義。そこから白馬の王子様を待つ夢見る少女趣味な神話が生まれる。

その裏で、男には合法的な売春は認められた。それが戦後、売春が違法になってから、男子にも、純愛主義とともに運命の女性を待つ少女趣味が広がる。いまでは、運営の女性を求めて、童貞が増えているという。リア充というのは純愛を達成した勝ち組で、彼女ができないのは負け組、さらに風俗に行くのは純愛からの逃避で負け組という。西洋にもないような、屈折した性倫理に発展している。

そもそも性体験が純愛から始まるなんてものは、限られたものだった。昔は村に性体験の機能があって、青年になると、村の後家さんとか、誰かが相手して上げていた。都市化すると、売春商売がその機能を果たした。純愛という男女の合意は偶然に作用されて確率論的にも難しいだろう。

さらに、日本の近代の性倫理では、キリスト教が導入されるとともに、儒教的な禁欲主義も混ざり、男尊女卑の強い純愛主義になっている。儒教の影響から男根主義的で、男性の社会的な責任感が伴う面が強い。さらに高度成長期の終身雇用によって、男は働いて一生女性を養うという理想像が出来上がってしまう。

そして高度成長期を終えた80年代ごろから、若い男性がそこから逃避し始める。オタクの萌えという幼児の純粋性への傾倒は、キリスト教的な純愛主義をベースにしていることが確かだが、男根主義の社会的重圧からの逃避の面が強い。本来、日本人の寛容な性文化としては、幼児性へ向かうことは許容されるだろうが、キリスト教の厳しい性倫理を基準にするから、後ろめたくなる。




個人の自由とキリスト教性倫理


近代西洋でもキリスト教の厳しい性倫理に対して、人権、個人の自由との戦いがあった。キリスト教の厳しい性倫理では、一生に一度の男女の純愛のみが許されたが、純愛の幅も広がり、一生添い遂げる、結婚まで貞操を守るなどは緩和されて、成人同士の恋愛の自由度も広がる。さらに同性愛は犯罪者であり病気なので、法に触れて、強制的な薬物治療が行われたが、戦後の闘争によって、同性愛は市民権を獲得しつつある。成人が性的興奮を覚えるのは医学的にも仕方が無いので、年齢制限によって、見ることができる性表現を決めよう。売春も大人の男性が楽しむことは許し、場所をきちんと区切ることが求められる。

いまも厳しいのは、成人以外を性の対象とすること、子供には性欲がないので性の対象として扱うのは、大人の暴力でしかない。幼児性愛は犯罪で、治療が必要だ。親子であっても親密すぎるのは問題にされる。

だから、日本で電車という子供もいるような公共の場で、グラビアが見られたり、オタクの萌えマンガが読まれるとか、西洋人はこの異常な状況が許せない。要するに、日本人は西洋では性表現が日本よりオープンと勘違いしているが、キリスト教の厳しい性倫理から、日本よりも厳しく管理されている。個人の自由との調整で、表現のランクにより、年齢や、場所、時間などを管理する方法をとった。有名なものが年齢別に区切られた映画のR指定だ。だから成人が個人的な場所でなら、日本以上の過激な表現が許されたりすることを、日本人は性関係がオープンと勘違いしてしまう。日本は、管理なく、日常に氾濫していることが、西洋人には許せない。