君台觀左右帳記研究9

中絵より、高然暉のミステリー。

高然暉の名は君臺觀左右帳記にのみ記載せられ殆んど其傳記を知ることが出來ない。
(略)
実に高然暉なる山水畫家は支那畫界に存在しないと言はざるを得ないのである。
彼は獨り東山義政に見出されて其名を君臺觀左右帳記に留めたる謎の大家である。
(略)
彼の如き逸妙なる山水畫家なれば若し彼れにして元朝支那畫家なりしならんには必ずや元の畫家列傳に其名を遺さなければならぬ筈である。

高然暉という画家の作品は、日本に複数存在するが、中国には名が残っていないと言う。
名もない作家の作品をわざわざ将来したのは何故なんだろうか?

この件に関しては通説があるらしい:

茲に於て我邦の識者風雅人士間に於ては高然暉を高彦敬(克恭房山)なりと推定するに至つた。即ち其主張する處は左の通りである。

一 高然暉の山水畫は大家の筆墨である斯る大家にして其畫名の揚らざる筈はない。
君臺觀左右帳記は其本名判明せざりし為め當時将來せる人の稱したる高エンヒを漢字に直し高然暉と記したに過ぎない。
一 元の山水畫界に於ける大家高克恭は字を彦敬、號を房山と稱したのである。
支那人は一般に高彦敬と呼び其彦敬は浙江音にてエンヒなるが故に高エンヒとして我邦に其山水畫を将來したのであらうと思ふ。
(略)


つまり別の作家の名前の聞き違えで、元の大家の名が誤って伝わったのだと言う。

如上の所説は一應首肯せられざるにあらざるも頗る牽強附會の説を免れない。
(略)
浙江音に於ける彦敬はエンヒにあらずしてエンチインである。
況んや漢字もあらうに然暉の二字を以てしたるが如き實に以ての外の譯語である。
當時多數の宋元明畫の将來せられたるは事實にして而も凡ての繪畫は其畫家の氏名字號を有し無款の物は其畫家の氏名其他を明かにし居れるは疑ふ可からざる事實である。
然るに獨り元の大家高克恭のみ其氏名を明かにせず高エンヒとして将來せられたるが如き實に有り得可かざる事態である。

でも著者は「んなわけないじゃん」と言う。

そもそも、将来してくれた人に、字を書いてもらえば一発だったんじゃない?山水画のブローカーだけど文盲、みたいな事有り得ないだろうし。

果して然らば高然暉は如何なる人であるか。高然暉は朝鮮畫家である。高麗朝末期に於ける畫家の一人である。
(略)
朝鮮は支那よりも更らに官尊民卑の國柄であつた。高麗朝の畫家列傳を見るも其畫家中に高然暉の名を見出すことが出來ない。所謂兩班出身にあらずんば人にして人にあらずと言はれたる朝鮮である。
斯る國柄の畫界に其畫名を揚けんとするは單に畫筆の優秀のみを以てして到底出來得可からざる事態である。
彼高然暉は如き或は大家の畫筆を有しながら高麗朝の兩班出身にあらざりし為め空しく不遇の畫家たらざるを得なかつたと思ふ。

まぁありそうな話ではある。これとて推測でしかないが。

でも、それにしても名もない作家の作品をわざわざ将来したのは何故なのか?という事に関し結論が出ていない。
案外国産だったりするかもしんないぜ?