「ものも見れないで、偉そうなことを言って…」
そんなことはなんぼでも言われたことはある。ましてやポリは資料に近いところでモノをいうことができないから、なおさらそんなリアクションばかりだ。だが。
そんな心情に、鐚一文負けてやる気はねー。
次に示すようにそこに新たな問いが出来する。いわば、
ネタなんだよ、そんなもんは。
「ものが分からない/見れないよりは、分かる/見れた方がいいに決まっている」????
何が「いい」のだ?「いい」のではなくて、「楽ちん」なだけの話だろ。逆になんで分かる/見れるようが「いい」などと自分は判断するのか?という問いは、置いてきぼりなのか? 先の「偉そう」だの「出来る」などと短絡する、ステロタイプな悪態も、2つの問いが出来していることがわかる。
- ものも見れないでモノを言うことがなぜえらそうなのか?
- 偉そうなつもりがこっちにないなら、なぜそのように「誤解」されるのか?
で、、、分かって言っているのかいな??
提出されている考え方そのものによってその問いが適切であるのかないのか、とおっしゃるなら、そういう危機感は一応はもっているのかな、と安心申し上げるべきか。しかし「いい」だの「偉そうと他者は思っている」と短絡するそぶりにはやや心許なさを払拭できない。
「許可」?「権限」?学問の話をしてるわけでしょ〜に
次のステップに進む許可が与えられる、という「制度」を否定しておきながら、(つうか、そんな制度ないっていってるだろが)他人にそうした条件を要求する心情には、自らが見れているのかどうか、その根拠がどれほどのものであるのか、自らにその権限あるのか、と、また別個の「制度」を導入する。ブレまくりじゃねえか。別種であろうが、権限などという「制度」を導入すれば、一方的な優劣関係、優先関係ではない、双方向的な、相互が支え合うような関係を想像するどころか、これじゃあ
緊張関係が出来するだろが!ゴルァァァ!!
(、、嘆息)分かっていってるのかね。意図的に前後関係をずらす、遠藤ミチロウのリリック読んでるみたいだよ、まったく。かあさんいい加減あんたの顔わすれました、みたいな。
こういうのを「ヲタの遠吠え」という。こういう言を吐く者がいない学問だと勘違いして考古学を学ぶことを志したことのある自分には、忸怩たるものがある。そんなに従来のヲタな王国を保ちたいということだろうか。案外、守旧の澱がぎっしりだあね。
どの程度、Aができれば、Bを行うことが許されるのか。
そんなもん知るか。分かんねえから、Aと目される対象だけでなくBとしているしろものも眺めてみるってことよ。ポリは、過日に示した甲野勇の論文からそういう態度に接したように思った。だから文献を示した。
縄文土器の研究史にみれば、山内清男らによって、縄文土器編年が確立されていく一方で、細別の粒度の不均衡や局所化など主観化傾向が問われ始め、ほぼ時を同じくして小林達雄から土器様式、岡本勇から型式群という一見、細別と逆行する思潮が現れた。これは、Aという思潮の方向性を再帰して出来したBとみることができる。本来なぜ編年をはじめたのか、生活の復原も期待していたのではなかったか、といった感じで彼らは再帰し発想していったのである。
そうそう、Bに基づき、Aを駆逐してBで定立するという「急ぎ働き」を働いた論文として、以下のものがある。
五十嵐彰2002.3「旧石器資料関係論」研究論集ⅩⅨ東京都埋蔵文化財センター
この方の教え子がこれを示し、「これで分類したい」と申し入れてきた。poliは、これを読後「勝手にしろ。知るか」ともう口も聞かずに一抜けした。その整理作業の成果は一応終わりをみたが、報告を見る分には、結局、この分類の適用を全うできなかったようだ。そりゃそうだろう。自称「完成」品をもって当たろうとは、現象に嘲笑われるのがオチである。予定調和も甚だしい。一度エポケーし、自分なりにあたるしかない。そのための参考文献というならまだしも、これで分類とは。