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「ガタ」

 元記事の「ガタ」はどちらかと言えば「遊び」、つまり事前計画として完全に織り込むことのできない経験的な不確定要素(ex.戦場でAK-47ライフルの隙間に入り込む土埃)に直面しても、なお全体の機能には支障が出ないような隙間をわざと作ってやるという点を強調する意味合いを持っています。むしろそのような隙間をギチギチに詰め込んで“効率化”すると、不確定要素に直面して事前計画どおりに行かなくなった時の悪影響がすぐに全体機能にまで波及して、かえって全体の順調な動作が損なわれるということです。

厳密を、単純に「いいこと」なんて断じると、AK-47はたぶん、砂粒一つ噛みこむだけでで動作を止める。「厳密に改良された」ライフルで戦って、兵士がみんな、動作不良で殺されたところで、努力の好きな人たちは、「やるべきことはやった。しかたがなかったのだ」なんて、満足そうに敗北をふり返る。自分たちのせいなのに。
うまく回ってた何かに「無駄」を見つけ出して、それを「改良」したとのたまって、むちゃくちゃになった現場からは目をそむけつつ、勝利宣言して尻まくる人たちって、幸せそうだなといつも思う。


ガタがあるからうまくいく

 一方、小飼さんの言及では「ガタ」の捉え方がやや異なっていて、こちらはむしろ「外部不経済」に近い意味合いで「ガタ」を捉えているようです。

トヨタの「カンバン方式」にしてから、あれはたぶん、「無駄とり」なんかじゃなくて、もっと別の理由があって、ああいうやりかたにたどり着いてる。

あれをつぶさに見れば、なぜガタに頼ってはいけないのかがよくわかる。
カンバン方式で動いている工場群の近くには、トラックの渋滞がよく見られる。そう。ガタだ。カンバン方式というのは、流通経路をガタ=バッファーにしてシステムを調和するメソッドだとも言える。
そのコストは、誰が出しているのだろうか。
トヨタが出しているわけじゃないよね。
トヨタに限らず、システムにガタが必要な場合、その費用は最も立場が弱い者に押し付けられる。いかに社員たちがガタとして機能させられ、その結果ガタガタになるのかは「トヨタの闇」に詳しい。日本の「ロバスト」な製造業で、期間工たちを「ガタ」に使っていないところはあるのだろうか。

無駄と余裕に、本質的な違いはないのかも知れない。無駄とは単に「帳尻が合わない」ガタで、余裕とは「帳尻が合う」ガタに過ぎないのかも知れない。余裕がなければ壊れやすい。しかし無駄があっては負けやすい。


ガタに頼ってるとガタが来る ─ 404 Blog Not Found 2009/11/6

 つまり、medtoolzさん(でいいのかな)が言っている「ガタ」は、全体システムの中に予測不可能な不確定要素を含んでも大丈夫な「遊び」を予め作っておくことであり、小飼さんが言っている「ガタ」は、予測不可能な不確定要素を全体システムの外延部でフィルタリングしてシステム内へと取り込ませないような設計を行なうことで、結果としてシステムの外に単独で取り残されてしまう不確定要素の悪影響(それはシステムの要請や行為に付随して起因したにも関わらずシステム自体は結果についていっさい責任を負わない)を指しているんだろうと思います。
 小飼さんの後段のパケットヘッダの話は、「費用」という表現が適切であるかどうかは別にして、人間はページを見る時にヘッダ情報つきのソースをいちいち全部見ているわけではなく、コンピュータが各種メタ情報を水面下で黙々と整理することで現われた“見やすい”情報のみを享受しているのだ、ということに当たると思います。ただ、ヘッダ情報は別に不確定要素なのではなく、単にページの中身だけを見たいページ閲覧者にとっては“ノイズ”に当たるというだけのことなので、システムの機能面にとってはむしろ必要不可欠な(でも使用者には直接それと気付かれない)内部機構の部品に相当すると考えた方がいいのではないでしょうか。銃で言えば隙間や部品の重さではなく、リコイルスプリングやシアーなどといった設計上ごく普通に必要と見なされるけど外から見て目立つわけではない部品の数々のほうが、パケットヘッダの立場にはむしろ近いように思います。
 medtoolzさんの「ガタ」は、そういった(個別)最適を目指す上で役立つ設計のうちにはまったく含まれない、むしろ設計上の機能連関のみで考えれば端的に“要らない”としか思えないような隙間にも、なお有意義なものがあるのだということでしょう。


 でも、端的に“要らない”ものって、個別行為者が自らの最適化・利益極大化を図る上ではまさしく“要らない”以外の何ものでもないので、もっぱら個別行為者の自由なイニシアティブによって社会が回っていく(べきだ)という発想の下では、そうした“要らない”隙間を保持しておくインセンティブはますます働かなくなります。

 ……問屋について考えているうちにもう一つ、問屋とともに失われつつある重要な機能に気付いたのである。流行の言い方をすれば、セーフティネット。零細事業主である作家や工房を資金的にサポートし、景気の緩衝材となる機能である。
 代々の仕事を引き継ぐある工房主の方が話しておられた。「昔は、問屋さんが折々に買ってくれたものです。季節とか景気とかによって売れる時期も売れない時期もあったと思いますが、なるべくコンスタントに仕入れて在庫してくれていたんです。だから、安心して仕事が続けられた」。けれど、問屋さんを通さない流通経路がどんどん太くなり、問屋自体もその機能を放棄しつつあるという。「最近は、買って問屋さんの方で在庫するということはやってくれなくなりました。それで、小売店から注文があったときだけ言ってくるんです。単なる仲介役になってしまっているんですね」。
(略)
 その問屋が仕事を失い、残った問屋もかつての資金的緩衝材としての機能を果たさなくなりつつあるとして、その役割を誰かが替わって果たし得るのだろうか。まっさきに候補として挙がるのは、資本の本山である金融機関。けれどもこの大不況が幕を開けたとき、彼らが中小企業に対して真っ先に何をしたかを考えれば、あまり期待できそうにない。大きな資本を保有する存在としては大企業も候補になるが、やはりあてにはならない。消費が細れば即座に下請けへの発注を止め、リアルタイムで市場環境に対応するのがステークホルダー重視の「正しい経営判断」とする風潮がビジネス界を覆っているからだ。


 ……かつては問屋に限らず社会全体が、大きな組織も小さな組織も身の程に緩衝材としての機能を果たしていたという話を聞いたことがある。例えば、「ツケ」という制度。米屋も乾物屋も支払いは盆暮の年2回だった。資金が底をついても、半年間は何とか食べるだけは食べていけたのである。……
(略)
 手付金などという、職人さんたちにはありがたい制度もかつてはあった。特に注文製作の場合は、必ず半金程度を発注時に支払うのが習慣になっていたのだという。それは「作ってもらったら必ず買うから」という保証金の意味もあるが、職人が製作のための材料を仕入れる大切な資金源になっていたようだ。
 そんな緩い制度が、ムダとリスクを嫌う今日的なビジネス環境にあって存続できるはずもない。こうしたものを切り捨てつつ、個々が「贅肉のない筋肉質」の組織を目指した結果として、実は「飢餓に耐えられない」脆弱な社会を作り上げてしまったのではないか。そんな気がしてならないのである。
 そこへ大不況という津波が襲いかかった。その結果と経緯は、みなさまご存知の通りである。


ムダと一緒に捨てたもの ─ 日経BP「Tech-On!」2009/4/10