R25世代と相対性理論「ハイファイ新書」


 相対性理論、というバンドのことは以前から知っていて、京都や高円寺によくいそうなひねくれた名前の人たちだなあ、たぶん同い年くらいなのだろうなあ、と思っていた。バンド名というのはとても大切で、わたしの定義によれば素直すぎてもひねくれすぎてもいけない。たとえば、「ミュージック・オブ・ラブ」みたいなバンド名はとてもいけない。壮大すぎて底の浅い人たちのように思われてしまう。かと言って、「個人的経験と思索に基づいた五線譜の調べ及び日常的な断片の数々」といったバンド名だと、今度は売れる気がないやつらだと思われすぎて困る。

 そういう意味で、「相対性理論」というバンド名はとてもいいなあと思っていた。「シフォン主義」「ハイファイ新書」というアルバムタイトルもいい。尖り、世の中を馬鹿にしているように見せかけておいて、その実しなやかさがある。良くも悪くも小賢しく、確信犯的で、何かを問われれば「何も考えていませんよ」とさらっと流してしまいそうな得体の知れなさがある。そして、視聴した音もそんなふうに聴こえた。

 チャットモンチーにしろ、9mmにしろ、最近売れているバンドを聴いて思うのは、彼らは(彼女らは)紛れもなくスーパーカーや、ナンバーガールや、くるりと聴いて育ったのだろうということだ。熱心に聴いていたかどうかは問題ではなく、そういう音が溢れるなかで育ってきた。R25世代であり、わたしの、わたしたちの世代のバンドだということだ。

 スーパーカーナンバーガールは、そういった名前に代表されるすこし上の世代のバンドたちは、ロックやポップスという枠を柔軟に行き来する日本の、日本ならではの現代的な音楽を確立させた。ジャズもテクノもパンクもクラシックも、ジャンルの区分にもはや重要性は残されていない。何よりもかっこいいのはそういうものをすべて網羅するような姿勢であり、良いものはすべて自分の意思で取り入れることであり、必然的に、わたしたちの世代の“音楽好き”は、“音楽マニア”であるか、もしくは“好きなものしか聴かない=好きなものならジャンルを問わず聴く”という先天的な柔軟性をもっていた。ロックファン、パンクファン、といった言葉は、上の世代ほどには意味をなしていなかったし、意味がなくて当然だと思われていたような気がする。

 相対性理論は、たぶんベースとドラムが音楽マニアなのだと思う。上の世代から自分たちの好きなエッセンスを取り出し、技巧的に練り上げていくオタク的感性がある。ボーカルの女の子はどちらなのかまだよくわからない。天然の素材をリズム隊が見出したのかもしれないし、ある程度確信犯的にああいうことをしているのかもしれない。でも、彼女の声や、歌はとても“萌え”だし、サブカル的だ。Perfumeと同じライン上に位置する、オタクのなかで輝くアイドルだ。それは、すでに、バンドがモテる外交的な趣味ではなく、内向きに進化しきってしまったこと(もしくは、内向きに進化する人たちが上の世代にくらべて圧倒的に多いという“相対性”)を意味する。相対性理論は、こうした文脈のなかで圧倒的な完成度を誇る、世代を代表するバンドなのだと思う。

 上の世代にユニコーンがいたように、くるりがいたように、わたしたちの世代には相対性理論がいる。でも、このバンドが好きだというのはわたしたちよりもうすこし下の世代だろう。高校生かもしれないし、中学生かもしれない。文化の同時代性は、むしろ低年齢層にこそ共感される。きっと今後、全国のいろんなところでコピーバンドが生まれ、「あたしがやくしまるえつこをやるわ!」「いいえあたしよ!」というような争いが繰りひろげられたり、ボーカルとベースとドラムで三角関係(ボーカルはおれの彼女なのにドラムのやつとも寝たなんて!)が巻き起こったりするのだと思う。わたしたちがスーパーカーナンバーガールでそうしてきたように。

 相対性理論が世に出てしまったことで、もう出られなくなってしまった同世代のバンドもたくさんいるんだろうなあと思う。実際に、わたしは、同じようなことを低いクオリティで奏でているバンドをいくつか見てきた。だからこそ、世代を代表するバンドなのだとも思う。もちろん、まだまだ未熟なところはあって、期待されるのはおそらくこれからの活躍なので、妊娠したり解散したりしないで頑張ってほしい。女の子がいると、なんだか、いろいろめんどくさいことになったりするしね。

ハイファイ新書

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