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悠久バプテスマ このページをアンテナに追加 RSSフィード

思考をそのまま文章としてアウトプットする実験、あるいは普通の雑記

2016年09月15日(木)

[]プログラミング必修化検討について

 小学生の段階でプログラミングが必修化することを検討とかなんとかいう話を聞いて、いろいろ考えてみると、他の数多の制度に比べて、思ったより一長一短あったので、驚いた。所得税が下がるとうれしいし、消費税が上がると悲しいし、介護士の給料が上がってもうれしくも悲しくもない、などと、ほとんどの決まり事は、俺の立場では損得がはっきりしているのだが、非天才的中堅プログラマである俺の立場では、メリットだと感じる点が想像より大きかった時や、デメリットだと感じるそれが同様だった時に、インパクトが大きいなと思った。

 例えば、プログラミングが必修化すれば、日本のプログラマの数は今より増えるだろう。それを職業にする、できる人が増えるのは間違いない。一方、プログラマを必要とする仕事の数は、プログラマがそうやって増えることとは独立……とまでは言わないがそんなに関係ない。むしろデバイスのヒットやブームの方が影響が大きい。ポーカーなどの競技では、レベルの高いプレイヤーにとって、人口が増えることは、ほぼプラスにしか働かない。賞金額は上がるだろうし、教えたりする相手も増える。しかし、それはプレイヤーという存在が、需要と供給を同時に満たすからだ。プログラマの場合は、プログラマが増えてもプログラミングの仕事の数が即座に増えるわけではない。供給過多になり、プログラマの価格が下がる。価格が下がるのは困る。需要が供給に対して割合で変化しないならば、自分の供給における相対的なレベルよりも、需要に対する相対的なレベルが問題になる。つまり、プログラマ募集が100枠あったとして、自分のプログラマ能力がちょうど平均だったとする。プログラマが世に10人しかいなければ、5位の自分は引っ張りだこで厚遇だろうが、200人もいたら、ギリギリ仕事があるくらい、1000人にまで増えてしまうと、もう相当レベルを上げないとまともな職はないほどになってしまう。Fランから北大ぐらいにまでハードルが上がるのだ。まあもちろん、特に必修ではなかった時にプログラミングに関心を持って取り組んでいるぐらいの素養はあったのだから、単純に無作為な人が市場に参入してきた場合にも、自分の相対位置がそのままであるとは考えにくいなどのことはあるが、大筋としては今言ったような状態に向かうだろう。日本の絵師市場は既にそうなっているように感じる。損だ。

 しかし、メリットがないわけもない。例えば、もしプログラマでなければ、プログラミングを必要とする分野の層が厚くなることはよいことだろう。発注するコストも下がるし、品質も上がる。もはやコンピュータを介したコンテンツやサービスの受益なしには過ごせない我々にとって、それはよいことに違いない。それに、プログラマであってもいいことはある。プログラマの数が増えれば、便利なフレームワークモジュール、言語が発明される可能性は上がるだろう。もし、プログラマとしての相対的な位置に興味がなく、自分の作りたいソフトウェアをこの世に受肉させるためだけに用いたいだけの人にとっては、そうした状況は得でしかない。実装コストが下がるからだ。レベルの高い人の数が増えれば、自分が教われるような人の数も増えるだろう。単純に考えて、任意の人が自分よりすごい確率は(人間がプログラマである確率)×(自分の相対的位置%)になるが、この「人間がプログラマである確率」が上がれば、当然、自分よりすごい確率も上がる(もちろん、プログラマとして学べることがあるかどうかは、そんな数直線的な単一指標によって決まらないが)。俺は割とそういう場の盛り上がりを重視するタチなので、このメリットはなかなか無視できない。

 あとは、どちらともいえない話なのだが、小学校で必修化した程度で、そんなにプログラマの人数が増えるとも限らない、という予想もある。旧帝大工学部出身の知り合いによると、同じ学部に進学した7、8割がたの学生は、"Hello, world."と出力するプログラムだけを書き残し、その方法を忘れながら巣立っていくそうだ。音楽の授業がおこなわれたからといって、演奏家作曲家が世にあふれるわけでもないのと同様に、プログラミングと出会うべき人に出会う機会を増やすという役割を果たすだけかもしれない。その場合は、先述したメリットもデメリットも復活してくる。

 また「仮にそれでプログラマ人口が爆発したとしても、いま能力があって相対的上位をキープしていれば、IT土方量産デフレになど巻き込まれることなどない、巻き込まれてしまうやつなどハナからIT土方になる運命だったんだよ!」という論調はいかにもありそうだ。俺としては、世の中に「デキるやつ」「デキないやつ」という明確なボーダーはなく、何らかの単一の能力を見た時、それは概ね正規分布に近い連続的なものだと思うから、相対的レベルのどこに位置していようと影響はあると思うし、IT土方になる運命とか超越者は定めてないと思うし、デフレを食らうやつの生活を捨象してるのは主張として欠陥がありすぎると思う。

 このメリット・デメリットは、どっちも極端な形であらわれるかもしれないと思うと、ただごとじゃないなと思う。それほど教育って人間というか文化にとって影響が大きいと実感する。余談になるけど、俺が学生時代に使っていた国語の教科書には、エーミールってやつが出てくるヘルマン・ヘッセの小説「少年の日の思い出」が掲載されていたことがなかった。だから、エーミールってやつのおもしろエピソードとか、その人名についてさえも、ずいぶん長い間、耳にしたことさえなかった。それがある時、ニコ動で動画を見ていたら、すげー連呼されてて、ナツカシス、みたいなコメントがいっぱいあった。全然知らないのに、国語の教科書に載ってただけで、ドラえもんみてえな知名度してる。教育においてその帯域を占めたものって、すげえんだなと思った。しみじみ、教育の重要性を感じる。だから、教育に、それも義務教育プログラミングが組み込まれるっていうのは、プログラマにとっては相当にインパクト大きいだろうなと思う。

2016年03月30日(水)

[]やよい

 言葉を紡ぐことこそが前に進むことだ。デスクワーク風情の者からしたらそう言うほかない。生命体の大きな目的、それはやはり自身の情報の伝達だと思うんです。子孫を残すというのは、自分の形を、有限時間後に少し残すこと。so-fiが言うように、100年後の化石の中に残るのは、今日焼いたサンマの骨なんでしょうね。そうしたって、俺のような者が残せるものは、子孫じゃないですよ。そういう磁場にいないから。だったら何だって言ったら、マジで今日焼いたサンマの骨ぐらいしかないわけですよ。俺が食んだっていう、その程度の爪跡しか残せない。これが偉大な政治家だったら、そいつの創った制度とかが、すげー長い歴史の上をわたりあるいて、まんまと遺る。たとえば消費税を導入した元首の爪跡は今も色濃く残っている。忘我の民にああだこおだ言われて、存続している。それが有限時間内でしかないから、その有限時間+1以降には結局、爪跡消失。という議論はいいんだ。そいつの知覚は、さらに短い有限時間内であるところの、そいつの生涯に閉じているから。噛み砕いて言うと、そいつが持つ煩悩のひとつ、「何かを遺したい欲望」。その欲望が満ちるのは、そいつが生きている間に、「ああ、これで、未来永劫に等しいくらいに俺の意図が、俺の行動が、世界に遺る」と確信する時。でもそれを知覚するのは、そいつの生涯において、そいつの生涯からせいぜい想像できるスケールの「未来永劫」の間。それは決して永遠じゃない。無限じゃない。人間は、無限という概念を定義することはできても、体感することはできん。だから、そいつが未来永劫だと思っても、それはそいつのちっせえ物差しで、永劫を誤認したに過ぎない。だから無限じゃないじゃん。という議論は俺は却下したいということ。人間なりのスケールで、そいつなりのスケールで、そいつの心が満ちればいいのである。だって無限はないからさ。永劫はないからさ。実質。要はクスリでパッパラピーになれば、ぜんぶ解決なんだよなあ。酔ってるんですけど、大丈夫すか? 俺はいつもクリアサのロング缶3本ですべての酒宴を終えるのですが、今日はさらに追加のウイスキーまで行って、なお、眠気が来ないので、いつものように管巻きバプスススですよ。ブログのタイトル、忘れちゃったい。酔った時にしかしないこと。掃き溜めみてえになっちゃってっけどよ。こういうシーンは、必要だと思うんだよ。だって、言葉を紡ぐことでしか俺は、遺せないんだもんよ。

 ふと、自分と何の接続もないような、匿名の媒体で、こういうことをしてみようって思うことはある。つまりそれは、はてな匿名ダイアリーのような欲望だ。俺は、はてな匿名ダイアリーを軽蔑している。記名せず、あえて記名せず、ネットのハンドルさえも記名せず、放言する、そんな空間が、尊いわけがない。塵芥。消えろ。という感情を、俺は厳然と持っている。しかし、その欲望も十分に理解できるんだ。それを知った。俺は、その軽蔑の気持ちから、自分の情報を過剰にネット上のアドレスに接続している。自分の実名は出さずとも、自分の時間を十分に、リアルよりも深くコミットさせて構築した自分の仮想人格は、何より確かだし、そこにすべてを集約することを、覚悟としてきた。噛み砕いて言うと、俺にはネットでやってること以上のリアルなんてほとんどないし、そこに「Revin」という名前を用いてすべて接続することで、矜持を保っている。逃げも隠れもしないぞと。それは、実名とか住所という、それがバレたら、いやがらせを全通しするだけのセキュリティホールみてえなレイヤー以外のすべてを賭けているという矜持だ。しかし、それが肥大しすぎていて、俺は家庭環境やら学歴やら職歴やらもほとんどみんな公開情報になってしまっている。けっこう生臭いレベルで明らかになっている。そしてそこからいろいろと実益を得ている。たとえば、暇な時にゲームやってりゃ、誰か寄ってくるような、ブロードキャスト環境が常に横にあるとか。たとえば、ささやかなアフィリエイト収入やら。欲しいものリスト経由の贈与や、仕事や、生きがいや。これは、どうしても、ブランドイメージみたいなものはあって、たとえば俺がリアルに前科あるとするじゃないですか。それを開陳したとしたら、どうですか。前述したどれか、おかしなことになるでしょ。今んとこ前科ねえけどね? 念のため。そういう、享受してるもんと、あんまり接続したくねえってものは、どうしてもやっぱ出てくるんだよなあ。でも、そういう込み入った事情をつぶさに書きてえって欲望が掻き立てられる瞬間ってのもあるよ。やんねえけど。匿名ダイアリーってのは、そういうところに寄生してるんだろうねえ。その欲望は理解できてしまうんだよなあ。

 で、この欲望ってのが根ざすところはね、1行目の話にも関わってくるんだよ。これ、今、まだ3行目だってよ。つまり2つ前の段落で巻いた話のことね。遺したいもの。俺は、作家志望なんて揶揄されたこともあって、今でいうところのワナビ、という状態で20代前半を過ごした経緯がありましてね。それで、売文に憧れたこともありながら今はナリを潜めましたが、というか、自分の生涯のこうした懊悩には、「注目されるべき価値がある」、という風に考えていたんですよ。つまり、俺が感じている悲しさとか、喪失感とか、無念とかは、純文学よろしく、注目してもらえばきっと面白くて、討論されてしかるべきであり、それを小説やら何やらで形にして、上梓すれば、間違いなく重要であると、思い込んでいたことがあったんです。で、それは歳をそれなりに減ると、俺のそのブースは、別に傑作を出し物にしてないし、例えば苦境感ではブラック企業に勤めて自殺に至る人とは比べものにならないぐらい平穏としているし、親がギャンブル狂で離婚してDVで、みてえな家庭に比べればいくぶんまだマシな環境で生育してきているし、そんなに大したことないわけですよ。んでもって、別に俺より知能が高い人はけっこうな数いるから、例えば俺が考えつくようなことって、ほとんどがどっかの人が既に考えついてるわけっすよ。俺とかより、レディ・ガガの方が面白いんすよ。でもレディ・ガガにあんまり傾倒せずに、今の俺に傾倒してる人って、すげー低確率を撃ちぬいて、数奇にここにいるんすよ……。なんかよー分からん確率を引いたんです、あなたがたは。

 そういう意識になっちゃってしまうと、もう別に何も吟じないですよ。なんかよーわからん俺という落とし穴にハマった人が、抜け出せずにいるだけで、そのことを俺自身が分かってしまったら、まあ、ゆるくレディ・ガガみたいな人を軽く指差して、あっちでもいいんじゃないの……? みたいなことを小声でつぶやきながら、それでもアンタ、ここにいるんなら、演るけど。ぐらいのモチベーションで、事を成しているだけですよ。日陰だから、そんなもんですよ。

 まあ……。ほんと、どうでもいいっすよ。死ぬほど物食うし。酒飲んでる時、死ぬほど物食うし。太ったらええねん。見た目など知ったことかよ。糖質なんざ1日1kgに制限じゃい! んで別に死期が迫ったらそれでええやないか。俺の意識以外、何もないんじゃ。ボケが。ほら、これで俺が出会ってなんかいないことが証明されたでしょ? そんなことになってないから。これ、俺の真に迫ってる感じで、完全に確信してほしい。お前ら、なんか配信とかニコ生とかやってるやつなんか、裏であんじょうやってるんやろ、みたいなことを信じてやまないやろ? そんな面従腹背のベロ出してるやつに、こんな言葉、紡げます? 俺だけは本物であると、確信しなければならないだろ!

 はよiphone se届けや!

2016年02月01日(月)

[][]酔

 管巻きバプテスマ。この深刻さをどうやって解決するのか。というのも、俺が青春のうちに設立したはずのこのブログが、酔っ払った時に書き込むだけのしょうむない空間と化している事実。こんなはずではなかった。かつての自分への贖罪。どれだけ落ちぶれても精神世界同然にこの世の中を扱えて、酒や麻薬などの力で自分の実存が揺るがされるなどと想像だにしなかった時代がありました。もっぱら、今は酒の力によってしか、この程度のまとまった文章を書けなくなっている、むしろ、書くモチベーションを維持できずにいる。どうだっていい。本当に、この管巻き、どうだっていい。まさに、「しょくざい」を入力するのにお前はどれだけかかったんだ? 手元がおぼつかなく、入力したいキーをひとつ入力するたびに、体感では、2回に1回のペースで、余計な衍字を繰り出している始末。入力の衝動と、入力の実現性、もしくは正確性、をトレードオフにして、俺はこのブログを書いている。情けないといえば情けない。脳に身体がついていかない。脳の陽気さが、身体を操って、その陽気さに任せて、いろいろなことをここに記述しようとしているが、その陽気さを産んだ脳はいいが、身体に対して、アルコールが為した所業は、かなりの手もとのおぼつかなさであり、このトレードオフは原始時代を彷彿する。なんでだ。平易な言葉で表現するなら、酔っぱらいでもしなければこれほどの長文を書く気はしないということだ。なぜか。むしろ、なぜ、昔は無償の長文をここに綴ったか。それは、パトスによるものである。パトスでのみ、衝き動かされる時代というものがあった。思いのままに行動し、それに殉じる覚悟を常に持っていた時代があった。ああ、タイプミスが著しい。キーボードで入力をおこなうことが必然である時代に生を受けたことが少し口惜しい。この機会の喪失に乗じて、より有用なことを言えればよかったのに。ノイズ。思いのままに行動し、それを公表し、安定していた時代があった。フェイズが変わったのだろうか。うーん、なんか前に提起したような気がする問題なので、この辺で終わっておく。酩酊状態にあっての入力が困難であることが、文量の現象に繋がったことはテクノロジーの敗北を予感する。特に諸君らに共有しない。

2016年01月28日(木)

[]権威

 たかがゲームで、たかがゲーム実況で、たかがまとめで、金が稼げることを「ずるい」と感じるのは、単純に権威がないだけであり、その権威は、自然発生したものとマーケティングによって人為発生したものの区別は、表面的にはつかないもんだなあ。将棋ポーカーもたかがゲームだが、権威がある。将棋棋譜格ゲーもフレームごとに区切ればローグライクみたいなもんだから棋譜として書けるし、小説も文字の組み合わせで紡がれている。ならどれも無限の猿定理で再現可能なわけだが、その会心の組み合わせをなんかよく出してくるのがトッププレイヤーで、そのすごさを支えるのが権威。でもその権威には人々の感動が少なからず添えられないと、すぐに破綻する。また、実際にすごくなれる、つまり、ある特定の資質を備えた人物でないとその組み合わせを軽々には、あるいは有限時間内には繰り出せないという制約も必要で、例えばスロットや宝くじで引きがすごくても尊敬されない。まとめブログに権威が宿らない(叩かれる対象になる)のは、プレイヤーがそれぞれの損得に基づいて行動しているばかりで、権威を保とうとするプレイヤー、あるいはデザイナーが存在しないからだと思う。もちろんポーカー将棋だって、PokerStarsなりカジノなり将棋連盟なり、そういう集権組織みたいなチューナーも、総体としては自らの立場に則って、より得になるように、プレイヤーじみて行動しているだけだと思うのだが、「そのロールを担っている」、いや、「そのロールを担うプレイヤーが存在する」というだけで、うまく権威を錬成する相互作用がはたらく。しかしまとめブログには、そういうロールを担うプレイヤーが自然発生しないし、しにくい。公務員がそれほどまでにいい目を見ていると思うなら、アンタも公務員になればいいじゃない、という論理と同じ構造で、まとめブログを作ることがそんなに楽して儲けてるだけなら、アンタもまとめブログを作ればいいじゃない。と言えるのに、なぜアナタは作らないの? 作らないんじゃなくて、作れないんだよね。ということは何らかの技能あるよね。というところで、まとめブログにも技能は必要であり、その結果金を稼いでいるわけで、偉大なる発明で金を稼ぐ偉人や企業と構造的には何も変わらないわけだが。という部分を時に人は「無視」する。この「無視」のされ具合が、権威を構成するといって差し支えないだろう。あなたは羽生善治のように将棋を指せない。あなたはまとめブログ作者のように記事をまとめて集客できない。この間にある受け取られ方の違いは、権威の存在に他ならない。と思う。何を言いたいわけではないが、なんかこの動画見てたらそんなことを思った。

D

2016年01月06日(水)

[][]少量

 はてなのヘッダ、いや、はてなダイアリーの一番上のヘッダのバーって、スクロールに追随して付いてきてなくないすか? という枕詞から始まりました、2016年一発目の悠久バプテスマ。遂にはここは、俺が酔っ払った時にくだを巻くだけの場となりつつありますな。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。ヘッダのバーの話をしたのは今回が最初じゃないような気がしないでもない。笑点の出演者は、間違えて同じ入りをやったことはないんだろうか? あんだけ長くやってると、一回ぐらいまったく同じことを言ったパターンとかありそうだけどな。

 業務的な修羅場を乗り越えて、やって参りました。新年。謹賀。年末にWindowsPCがぶっ壊れましてね。もう20年来ですかね、WindowsデスクトップPCと共にない年末というのは。速攻で注文しましたが、年末年始休暇の憂き目に遭いまして、もう1週間できかないほどMacBookAirで過ごしてますが、それもようやく今朝に、注文していたパソコンが届くようです。よかった。早くしてくれ。Gabage Collectionの新曲をアップロードしたいんだよ。あらゆることが制限されていて辛いです。ゲームもできないし。Windowsが強い理由のひとつですよ。Macじゃあ、フリーゲームのひとつもできやしない。Airなもんであんまり性能がよくないから、Flashゲームぐらいしかできやしませんよ。中に誰もいませんよ。文化的に縮小している感じがするよ俺は。やはりキーボードマウスと複数のディスプレイがないと、生きた心地がしない。相当のことをPCに依存していたんだなあ、俺は。もはや家にいてPCに触れ合っていない時間がほとんどないですからね。最近じゃあ、宮崎章夫のサーチエンジン・システムクラッシュという小説を久しぶりに読み返した時ぐらいですかねーコンピュータデバイスに触れていないの。あれはいい小説だ。雑談してる時に、話題が話題を呼んで、あれえ、もともと何の話をしてたんでしたっけ、みたいなノリで池袋をウロウロするだけの、リアルな小説だ。なんちゃらっていう喫茶店で待ち合わせしてたんだけど、どこにあるのかよくわかんなくて、104みたいなところに電話して、なんちゃらって喫茶店はどこにありますか、って聞いたら、なんか元の喫茶店の名前と似てるけど一文字違いの店の場所を教えられて、まあしょうがないから行くか、と思って行ってみたら、全然関係ない人たちがいて、そこでそれなりの出来事があって、元の待ち合わせ相手との話と関係なくなっていく……と思いきや、途中で関係があったりして、みたいな、ほんま雑談してる時の話題みたいに、あるいは、猫が目の前のものに飛びつくみてえな感覚に塗り潰された小説なんですけど、やっぱりいいねえ、こういうのは。世の中のランダム性を象徴してくれてるよ。こんなもんなんだよ、世の中とか。とどのつまりは。ミクロには。まあそれはいいとして、この辺にしとくね。明日は午前中にPCが届くからね。