死刑・信頼・不安


 『少年をいかに罰するか』という藤井誠二との対談本の冒頭で、宮崎哲弥は<犯人を殺したいと思っている被害者やその代理人たる被害者遺族にとって、死刑廃止国家は「その野蛮な感情をコントロールせよ」「加害者を許せ」と命じる権力主体に他ならない>とし、死刑廃止論者を<権力の補完装置に堕している>と批判している(ただし宮崎自身も死刑廃止論者)。フーコーに依拠する宮崎に依れば、権力は元々「死なせる権力」だったが現代は「生かす権力」の作用が大きくなってきている。

<死の恐怖によって人々を従わしめていた古い権力から、健康な生を予め規格化し、それへの欲望を煽ることで管理やコントロールを強めていく新しい権力へと重心をシフトさせている>

 宮崎は、池田清彦の「権力は人々が動物としてあからさまな欲望をみだりに顕わにすることを欲しない」という言葉も引用しているのだが、ここで微妙に重なったのが、東浩紀が先日記していた「信頼ベース」「不安ベース」の議論。東は<信頼ベースの社会と不安ベースの社会だったら信頼ベースのほうがいいのは自明で、そして日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ>という議論の在り方を批判している。以下、http://www.hirokiazuma.com/archives/000394.htmlより引用。


<信頼ベースの社会も「信頼できる人間」と「信頼できない人間」をまず区別するはずです。つまりは、信頼ベースの社会というのは、基本的に信頼の適用範囲を限定した社会にならざるえません。そしてその境界にこそ、普通はナショナリズムだとかヨーロッパ中心主義だとかが入りこみます>
<不安ベースの社会は、「信頼できる人間」と「信頼できない人間」の区別などという曖昧なものは信頼せず、むしろ相手はつねに「信頼できない相手」だと考えて、その前提のうえでリスクを計算します。>
<不安ベースの社会は、人間を人間扱いしない、ぼく風の言い方をすれば「動物」扱いする社会です。だからひどい社会といえばひどい社会です。しかし、社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いするのであれば、それはそれで人間的な社会とも言えないことはない。最悪なのは、だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く権力です。>

 
 信頼ベースの社会の問題は、要するに「異教徒も人間か?」ということだ。あるいは、チベットは見るけれどダルフールは見ない、とか。
 一方、不安ベースの社会の問題は、東も指摘している<排除型権力の拡張>であり、監視社会化だ。


では、信頼ベースの社会では死刑はどのように現れるか。それは<だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く権力>が、「人間ではない」と決めたものを「死なせる」という形で現れる。裁判は、誰が人間か否か どれくらい人間的でどれくらい人間的でないか、を決める場。人間に対しては「生かす権力」の行使をする権力主体は、非人間的(!)な存在に対しては「死なせる権力」を行使する。さらに言えば、非人間的なものの存在こそが、「人間的であれ」「正しくあれ」と健康な生への欲望を生み出し続ける、「生かす権力」の補完装置にもなっているともいえる。そして、それが人間=被害者遺族を含む社会の構成員全体の感情回復、ひいては信頼醸成に寄与する場合もある。
 ただし、信頼ベースの社会を志向し死刑制度を存置する場合は、「だれが人間でだれが人間でないのか」の線引きが恣意的に行われることを受け入れなくてはならない。条件は常に可変。だから宮崎も麻原も造田も死刑に出来る。くわえて、より情報公開が進み、もし実際に人々がその眼で死刑の現場を見たとして、果たしてそれでも「彼は人間ではない」と本当に言えるのか、というのは(別次元で)疑問。そこはまだ人間を信頼したいような気もする。


 信頼ベースの社会では死刑廃止論はどのように現れるか。やはりそれも<だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く>もの。「吊るせ」と喚きたてるものを「動物」とし、「人間的であれ」「正しくあれ」と諭す。クジラを食べるなんて非人間的、という線のひき方も同様。
 というわけで、信頼ベースの社会を志向し死刑制度を廃止する場合は、どのような線引きで死刑を非人間的とするのか、が問題。キリスト教的、ヨーロッパ主義的な価値観で線を引くべきか、否か。宮崎哲弥の批判は、その辺に思考が回らない素朴な人権主義者に対して向けられている。また宗教がない日本の現状で、社会の構成員全体の感情回復をどのように行うか、制度整備も必要。「愛国教育とか社会奉仕が必要」とする議論は、ここを補完しようとしている。


 一方、不安ベースの社会では死刑はどのように現れるか。それは誰も信頼できないからこそコストをかけて組み立てられる、セキュリティのための社会システムの一部(抑止というより排除)。監視カメラと同じ。ただし、「吊るせ」と叫ぶ側も吊るされる側も「動物」であり、「吊るせ」と叫ぶ自分も吊るされる側にまわる可能性が当然ある。<社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いする>以上、吊るされる側も吊るす側もは平等。したがって、重要なのは裁判制度と明確な基準。裁判が真実探求の場として常に機能することのみが「平等」を担保する。
 というわけで、不安ベースの社会を志向し死刑制度を存置する場合は、裁判というシステムの透明性、平等性が重要。被告人とその代理人にはあらゆる手段をとることが保障され、それを社会が了解することが前提。だが現状では中々望めない。


 最後に、不安ベースの社会では死刑廃止論はどのように現れるか。<社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いする>以上、権力を行使する主体も「動物」であり、「動物」に付与する「死なせる権力」はできるだけ限定的であるほうが望ましい、となる。従って公権力に死刑という暴力を許可しないという論理。
 また、不安ベースの社会を志向し死刑制度を廃止する場合、そもそも犯罪が起こりにくいセキュリティのための強固な社会システムの構築が必要。極度の監視社会化。SFチックな話だが、東が言及している「性犯罪者へのGPS常時着用」や、あるいはネット規制児童ポルノ規制なんかもこの流れか。 


 信頼ベースの社会から、信頼が音を立てて崩れているという現状。このまま不安ベースの社会へと雪崩をうち、一方で裁判制度に対するごく当たり前の理解さえ一般に共有できないのなら、死刑は廃止し、監視社会化を受け入れるべきなのかもしれない。あるいは信頼の再構築(例えば愛国教育などを通じて)が実現可能なのかどうか。宮台に依れば、日本的な伝統的な共同体的な価値観では刑事罰は軽く、「許す」社会だったという。「日本化」が進めば、西欧の人権思想とは別の価値観の下、死刑廃止に進む可能性もある。



 自分自身は、どれがいいとかどうすべきというのも、中々決められない。元々、社会から排除されるという表層だけ見れば死刑も終身刑措置入院も一緒だと思うような人間だ。是が非でも死刑にすべしとも思わないし、死刑非道とも思わないし、終身刑や隔離病棟でも同じことだと思うし、メヒコかどっかのように塀の中は別世界でもいいと思う。が、そういうことを言うと、死刑存置派からも廃止派からもヒトデナシの虚無主義者と罵られる(実話)ので、なるべく言わないようにしているわけだけど。
 ただし東の議論にはやや共感できる。信頼ベースの社会って、端的に気持ち悪い。それだったら、全員の頭にチップを埋め込むとか、DNA情報で未来の犯罪者特定とか、そんなウィリアム・ギブスン的な未来の方が多少はマシかとも思う。そして、不安ベースの社会に生きるのなら死刑は廃止すべきだろうな。


※<>内はすべて引用。