著作権について

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著作権は私に存する。

とかいうことをここで言いたいのではない。
その逆である。
なぜそうなるのか。
著作権とはなんぞやということについて考えてみた。

まず著作権とは、書いたものが書いた本人に帰属する権利のことであろうが
これは、当たり前のことだから、権利として定めたられたのではない。
恐らく、「書いたものは書いた本人に帰属する」ということが自明ではないから著作権というものができたのである。
これは恐らく書くということが資本主義システムの中で稼ぐ手段として確立してきたからだろう。昔は、自分の主張を不特定多数の人に伝えたい場合は、自費出版であっただろうし、有名なお話とか、詩などは、恐らく海賊版というか、民衆が書き継ぎ語り継いできたものだっただろう。例えば、司馬遷史記がある。ここで「司馬遷史記」という言い方をしたことに注意していただきたいが、これは、史記というものが司馬遷という人に帰属することだ。しかし、そもそも司馬遷という人は、中国の支配王朝が行う歴史編纂事業の編集長かなんかのポストであって、当時は史記はその王朝に帰属したのである。現代で考えれば、一官僚の仕事にすぎないだろう。それが、「司馬遷史記」と言われるようになったのは、恐らく著作権という概念の誕生によって、著作者が重視されるようになった結果の現代からの捉えなおしにすぎない。

さて、ここまでは歴史的背景から著作権の自明性を疑ったが、哲学的にも考えてみたい。

そもそも、私達は、なぜ明日の自分が、今の自分と同じと考えているのか。心情の変化や、やせたり太ったり、筋肉がついたりとかいう話ではない。そのような変化を感じれる自分というものは、明日も同じ自分であるという感覚である。体細胞が毎日更新される中、私達の自己意識に関してはなぜ同一性が保証されているのか。それは、恐らく様々な社会的しがらみみたいなものである。私は、その一つとして著作権があるのではないかとここでは言いたいのだが、例えば多重人格の人を思い浮かべてみよう。
多重人格の人は、全く違う自己が同じ身体の中に複数存在する。この場合、同じ身体から繰り出された著作物はどうなるのか。誰に帰属するのか。その身体に帰属するとしても、別の人格が現れたときには、もはやその人には自分の著作物だと考えることができないだろう。
多くの人が、一つの自己で完結しているのは、様々な社会的しがらみによって、いい意味でも悪い意味でも縛られているからだろう。それが極端に悪い意味だけに縛られる時、別の人格になるのかもしれない。

さて、ここまで歴史的、哲学的というか心理学的、身体論的、精神分析的な視点から見てきたが、どれもかじった程度の知識で書いてるため、間違いも多いかもしれない。専門的には、「著作権」の誕生とかいうタイトルの本があるかもしれないし、研究されているだろう。多重人格のことと著作物の関係についても、研究されていないわけはない。だから、詳しい人は教えて欲しいが、ここでは私の推論ということでお許しいただきたい。


ということで、著作権というものは、かなりの歴史的、心理的な限定条件の中で存在するものだということだ。
だから、ここまでこうして書いてきたものそのものの著作権も、一般的に周りの人が認めるから認められるだけであって、私自身は、一つも自分の著作権というものについて固執する自信がない。なんてことを書いちゃったら、
今こうして書いて増えていっている文字すらも、そもそも私が書いたものなのかどうか分からない。誰が判断できるというのだ。

と、ここまでが、どっかからのコピー&ペーストに過ぎないかもしれない。
それに、今この時点までのものを誰かがコピー&ペーストしたら、それは著作権違反になるのだろうか。どっちがオリジナルかなんて、判断できない。仮に日付などで判断したとしても、この私の主張の特性上、この主張そのものが誰かのコピーだろうと言われれば言い返せない。


そう、だから「著作権」が誕生したのである。
この無限のコピー文化となった今、ますます「著作権」問題は深刻になってきている。だから、より「著作権」という概念は普及するだろう。僕が生きている間には、この概念は消えそうもないし、資本主義も終りそうにない。
だから、一応このブログ記事は、社会的に認められる限りにおいて著作権は私にあると言っておく。
しかしここまでの内容を誰かがコピー&ペースト・・・と言い始めたら永遠にループする。
ここで止めておこう。