[教えて8ミリ!]プロデューサー越川氏インタビュー

sabaku_m2008-01-14


プロデューサーである越川道夫さんに、『砂の影』を8ミリで撮影することになった経緯を、越川さんの映画との出会いを伺いつつインタビューします。
ある作品との再会がなければ8ミリでなかったかもしれない、越川さんにとっての浜松での学生時代の飢餓感がなければここにいなかったかもしれない。
そんなお話から、『砂の影』の甲斐田監督やたむらさんとのお話まで、幅広くお伺いすることができました。


―まずは、越川さんと映画との出会いからお伺いさせて下さい。

生まれ育った浜松に単館の映画館ができたのは大学の頃だったので、テレビや本の知識でしか映画の情報を手に入れられなかった。もともとテレビっ子でドラマというものが好きだったから、演出や脚本に対しての興味が強かったんです。ラジオドラマみたいなものを中学の時に作っていましたね。何か作りたいという衝動を、手軽にできるカッセトデッキなどで作品を作って昇華していました。

−8ミリカメラが家にあったそうですが。

親父がカメラ好きでNikon R10が家にあったんです。このカメラは、今回の撮影でも使ったカメラです。高校くらいになると自主映画シーンも顕在化していたので、「イメージフォーラム」なんかを読んでそういう作家の情報や8ミリについての知識も入ってきていた。浜松にも自主映画グループがあって、僕は入っていなかったけれども、鈴木卓爾監督はそこにいたと思います。長崎俊一監督作品の上映会もありました。当時、自宅の前にあった西武デパートの中のスペースで、ジョナス・メカス監督の作品上映や、今関あきよし監督の『アイコ16歳』のトークショー井筒和幸監督もトークでいらしてました。でも、レンタルビデオもまだありませんから、石井聰亙監督や大島渚監督のATG作品をはじめ、いろいろな映画を観たくても浜松では観れなかった。『翔んだカップル』とか、『セーラー服と機関銃』が浜松の映画館で公開されて観にいくと、これは誰だ!って思って、相米慎二監督を認識していくっていうような感じだったんです。映画やアングラ演劇を観たくて、当時は、飢餓感の固まりでした。

―ラジオドラマだけでなく映像も撮りたかったのでは?

高校時代に家にあった8ミリカメラや、VHSのビデオカメラで撮影もしていました。8ミリは普通のカメラ屋さんで現像できるんです。高価なものだったのでお金を溜めて。高校時代までは、なかなか映画も見れなかったから、見るよりも作る方が近しかった。将来映画の仕事をしたいと言ったら、親戚だった編集の浦岡敬一さんと、親父の高校時代の後輩である澤井信一郎監督が目の前に登場するんです。

―いよいよ大学で東京に出てくるわけですね。

実際に東京にきてから、文芸坐にもすごく通って、一年の時は400本以上観ていました。学校よりも映画を観る方が忙しかった。浦岡さんと澤井監督のお二人からは映画に対する考え方や脚本の書き方などについてたくさん教えていただきました。特に、澤井さんは、本当に怖かった(笑)。脚本をみてもらうとまっ赤になって返ってきたり(笑)。その一方で、どうしようもなく自主映画的なもの、石井聰亙監督の『シャッフル』などにひかれていく自分っていうのもありました。それから、当時、ユーロスペースやシネヴィヴァン六本木などで単館系の映画がたくさん上映されはじめて、そいういう作品にものすごく傾倒するんです。そこで上映された映画が、映画の自由と可能性の広さを教えてくれたわけです。田舎でそういう作品に触れることができなかったから、止まんなくなっちゃったんですね(笑)。

―その後越川さんは舞台の演出や映画の助監督などを経て、映画の配給宣伝に関わるようになりますね。話はぐっと飛びますが、『路地へ 中上健次の残したフィルム』(青山真治監督)でたむらまさきさんとは初めて御会いになったんですか?

どこが最初なのかよく憶えていないけれど、アメリカに留学する前の豊島圭介監督が『明るい場所』を撮ったんです。撮影がたむらさんで整音が菊池信之さんだった。たむらまさきさんのことはものすごく尊敬しているから、これまでも多くの作品を観ていました。『2/デュオ』や、『Helpless』の公開のときにはビターズエンドにいたので、なんだかんだでたむらさんの凄さを身近で感じていたんです。なんとも魅力的な、エロい画を撮る人だなあと(笑)。

奥原浩志監督の『青い車』で越川さんははじめて企画プロデュースをされますね。

『blue』(安藤尋監督)を配給した時に、とてもいい映画だったけれど、こんなにいい作品を配給することは今後あんまりないだろうなっていう予感もあったんです。自分の仕事は自分で作らないと、というふうに考えるほうなので(笑)。

―甲斐田監督の『すべては夜から生まれる』を配給宣伝された時には次回作を一緒にやろうと考えられていたのですか?

甲斐田監督とは、その後も何か一緒にできたらとは思っていた。甲斐田監督は、『すべては』の後にも映画を撮りたがっていたんです。『すべては〜』は、ある達成度がある作品だとは思うんだけど、甲斐田自身も次を模索をしていたと思うんです。何本かホンを一緒に作ったりしました。『砂の影』の前にひとつ揉んでいたホンがあって、やりたいと言ってくれた人もいたんだけど、実現化しなかった。でも撮らせたいなって思っていた頃、ちょうど配給していた作品に長崎俊一監督の『闇打つ心臓 Heart,beating in the dark』があった。大好きだった『8ミリ版 闇打つ心臓』に23年ぶりに再会して、個人的に打ちのめされたんです。俺はこれが好きだったはずだ、23年間、自分は何やってきたのかって。8ミリの手触りだったり、内容の真摯さを強く感じた。『闇打つ心臓 Heart,beating in the dark』を配給しながら8ミリへの思いが強くなっていったんです。その時に、甲斐田監督に、“8ミリでやる?”って言っちゃったんですね(笑)。登場人物が少なくて、ほぼワンセットで、しかも何か犯罪が絡んでいるという。犯罪ものは好きなんです。実際に起きた犯罪をテーマに山崎哲さんが転位21でやっていた演劇の「犯罪フィールドノート」のシリーズも好きだったし。それで、甲斐田監督には、こういうのがあるんだけどと、。「練馬OLラストダンス殺人事件」の概要を伝えたのが最初だったと思う。

―甲斐田監督は何とおっしゃったんですか。

全然やりますよ、って(笑)。甲斐田監督の作品の中に、美学的ではない、いい意味の曖昧さを内包させることができるかっていうのはひとつのテーマだったと思います。それから、『すべては夜から生まれる』でもそうですが、甲斐田監督の脚本自体はあるエロさを要求するんだけれど、映画ではそれがまだ十分に開花してないという認識もありました。いろいろ考えた時に、8ミリはそのようなテーマに合うんじゃないか、と。もともとデジタルよりもフィルムにこだわりたい監督ではあるんです。公開はされていないけれど、『ロト』で、彼は撮影を、山下敦弘監督作品や小林聖太郎監督『かぞくのひけつ』の近藤龍人さんに頼んでいるんです。その時に、すでに甲斐田監督は変わり始めていて、今までとは別のスタッフを組んでやっていく意志があったんだと思う。今回の撮影に関して甲斐田監督は、“ひとりで来いってことですよね”って言われたけれど、むしろ彼自身にそんな意志があったんだと思います。

―撮影をたむらさんに依頼をされたのは?

8ミリで劇映画をやるならカメラマンはポイントだと思ってたんです。まずプロのカメラマンにお願いして、いかに遊ぶか、どこまで遊べるかってやってみないと8ミリの可能性の追求にはならないんじゃないかと。スタッフはどうしようかなと思っていて、最初から絶対たむらさんと考えていたわけではなかったんです。そこに、たむらさんからお電話をいただいて…たむらさんから電話をいただかなかったら、お願いすることはなかったかもしれない。でも、電話の後、たむらさんが8ミリで撮影するっていうことを考えれば考えるほど、確信してしまったんですね(笑)。それで、思い切って監督にどうかと相談したわけです。でも、たむらさんが8ミリが初めてだとは思ってもみませんでした(笑)。


次回は、甲斐田監督の『砂の影』の現場で、8ミリだからこそ気付かされた点、確信できたことなどを伺いたいと思います!お楽しみに。