やる気の出た日

今日は東葛文化祭の内、午前の部「邦楽三曲の調べ」があった。

最初に流山市の邦楽三曲部、次に柏市三曲協会、そして最後に我孫子市三曲協会でそれぞれ30分の出演枠をもらっている。

会場はちば県民プラザホールで交通の便が悪く、PRも不足気味で観客はまばら、盛り上がりに欠けていた。

でも出演者としては出し物の質を高めることが大事! 私は本曲「磯の松風」(1部)、それに本曲「紅葉」(1部)の独奏部をまかされ、それなりに練習をしてきた。

今日の本番は散々、音はかすれ、とても人に聞かせる音色に程遠かった。こんな不出来は初めてである。終わって仲間の皆さんに「申し訳ない」と謝った。なんということだ。ここ数日、音自体は良く出ているように感じられたが、これがいつも同じように出来ないといけない。現在丁度、音色の革命の緒についたばかりの段階ではないかと感じている。やはり練習が足りない。いつもどこでも納得のいく音色が出せてこそ、「尺八吹き」と言える。それを目指す自分としては、目標がはっきりしたと言っておこう。人生あと16年ある。それはちょっと悠長過ぎるので、あと3年で何とかしよう。

傘寿記念で皆さんに聴かせる音色に仕上げ、個人的な演奏会までもっていきたい。

出し物の曲目はもう考えてある。

〇 「岳陽楼に登りて」(野村裕子作曲)

〇 「高原の賦」(筑紫歌都子作曲)

〇 「胡笳の歌」(野村正峰作曲)

この3曲は外せない。これらを吹きこなして聴く者に感銘をもたらしたい。これが私の現在の夢である。

目標ははっきり出来た。これから日々努力を続けていくぞ!!

今日は本当に大切な日となった。ありがとう!!

明日の尺八講習会「竹吹く」も頑張ろう!             (了)

 

平々凡々

人生、平々凡々でよい。別にこれを推奨するものではないが、日々が平々凡々であっても何の不足もない。日々の生活において特別の事象を待ち望んでいるわけではなく、ごく普通の暮らしが送れることを願っている。しかし毎日をのんべんだらりと過ごしてよいというわけでは決してない。若い人と違って年配者は「トキメキ」が少ないので時間が早く過ぎていく、と言われる。「トキメキ」「感動すること」がどんどん減っていくことは如何ともしがたい。生活も自分の殻に閉じ籠ってしまい、前向き、発展性に乏しくなる。体力、気力の衰えのなせる業か。「老い」と「若さ」の違いを髣髴とさせる。

ではいかにして」「若々しさ」を保つことが出来るか、何事にもあきらめず、あくなき追求、向上心を持つことである。「発明」は素晴らしい。自分で何かを作りだせ!今までやりかけていた事に光を当て、それを発展させる。じぶんの殻に閉じこもっていてはダメ!自分を奮い立たせて、もっと夢を見よ!

「人生これから」「もう一花咲かせる気持」になれ!

これと平々凡々とどうつながるのか。決して高望みをするのでなく足を地につけて、毎日コツコツと前進させていくことである。格段の変化はない。そのコツコツと(いうなれば平々凡々と)毎日を懸命に積み重ねていくことによって先が開けるのである。

今からでも遅くはない。毎日をコツコツと力いっぱい生きていこうと思う。

                          (了)

 

 

 

 

 

西郷どん

大河ドラマ西郷どん」が終わった。西南戦争に巻き込まれた西郷どんは、ついに凄惨な死を遂げる。幕府を倒し、新政府の陸軍大将・参議にまで登りつめた人がなぜ最後にあんな死に様を見せたのか、そこに西郷吉之助という人柄がにじみ出る。「敬天愛人」である。彼は決して人を侮らず、私欲を捨てて人を思い、国を思い、天を敬って自らの道を歩んできた。慈悲の心が根底にある。
新しい国造りのための新政府の度重なる改革に、ついていけない武士達不満分子の心情を汲み、これを捨てきれずに結局その旗頭に祭り上げられて、ついに新政府にたてつくこととなった。人としての度量の大きさをみるようで、自分達が捨て石となり武士の世を本当に終わりにさせようとの悲壮な決意があった。以後、新しい世が誕生する。
一方、その最高の功労者たる大久保利通(一蔵どん)がまもなく刺客に襲われて命を落とすあたり、何とも皮肉なものである。
この二人が同郷で小さい頃からの大の仲良しであったのは全くの奇遇でしかない。西郷どんも一蔵どんというしっかり後を託せる親友がいたからこそ、自分の好きな道を突き進めたのではないかと思う。
性格の違いは歴然としている。
誰からも好かれる西郷さん、一方、理路整然として意志堅固な大久保郷、その対比が物語を作った。
大久保郷も好きこのんでこの憎まれ役を買って出たのではない。世の流れが自然とそうさせたのだ。大久保さんも西郷どんも大切な二人、その他の人達も含めて、もし誰かが欠けていたらあのような世の流れは生まれてこなかったであろう。
素晴らしい人達がキラ星の如く現れ、時代を作り現代へと引き継いでくれた。
西郷どん」の心情は私の心にも深く住みついている。
すばらしい大河ドラマであった。上野に西郷さんの銅像があのように堂々と建っているのがよく分かった。   (了)

演奏会に思う

先日も2年に1度の千葉県支部尺八演奏会が実施された。相変わらずお客さんが少ない。折角の演奏会、出演者は精一杯がんばり、出来栄えも素晴らしかったのに、入場無料なのに観客が少ないのは誠に惜しいというか、もったいない。
いくらパンフレットをばらまいてもたかが知れている。ひとりよがりではだめなのだ。
世の中、シルバー世代が大勢を占め、余暇のある人も多いはずなのに、なぜこうも集まらないのだろうか。
要は足がないので思うところへ出かけられないのだろうと推察している。
どこかの老人ホームにでも光を当てて、バスをチャーターして1日を行楽気分で出向いてもらうのはどうだろうか。もちろん昼食付である。参加費として3,000円位なら喜んで参加して戴けるのではないかと目論んでいる。邦楽を1日、ゆっくり楽しんでもらうのはお年寄りにとっても良い刺激というか、楽しみになること請け合いである。
その他演奏会自体の構成等を考えると、演奏の曲と曲の合間を短くすること、曲目にバラエティーを富ませること、目玉を作ること、あまり長くやらないこと、途中休憩時間を取るように考えること等が挙げられる。
私個人としては、演奏中の奏者でこれと思う人に光を当てて、スナップ写真を撮り、それをもとに是非絵に仕上げてみたいと思っている。
今後、考えていきたい事案である。    (了)

生活の基本パターン

現在の日々の生活の基本パターンを考えてみると、食事、睡眠、運動に気晴らしとなるだろうか。私にとって切っても切れない間柄と自負していた尺八は別に持たなくとも何の影響もない昨今である。これではいけないと思っている。もちろん、1日の内にやるべきことは毎日朝、紙に書きだしている。この「やるべきこと」に充てられる時間は1日に4時間くらいだろうか。これが本来の1日の価値というかやりがいに結び付くことになる。それを除いた1日の基本パターン。このうち「気晴らし」とは何か。精神的なゆとりを取ることで私としては、主にパソコンのゲーム(マージャン)か読書くらいである。カセットテープ、CD、DVDで音楽(主に邦楽)を聴くこともたまにある。先々のために身の回りの整理整頓も心がけてやらなければならない。
1年365日、1日24Hを有効に使って実のある充実した成果を上げていきたい。あと何年生きられるか。人生の締めくくりの大切な時である。この生活の基本パターンが日々、ボデイブロウのように効いてくる。のんべんだらりでなくしっかりと前向きに過ごしていきたいものである。    (了)

蕾の桜

   蕾の桜
 待ち遠しいぞ 蕾の桜
 ここ2,3日は肌寒く
 朝晩めっきり冷え込んで
 ほころびかけた桜の花が
 ちょっぴり様子見の気配

 しかし暖かさが戻る時
 あっという間に咲き揃う
 毎年それを見知ってる
 今年もあと数日で
 満開桜にお目通り

 この待っている大切な時間
 幸せいっぱい楽しい夢を見る
 いずれ四季を通して一番の
 春爛漫がやってくる
 春はいいな 満開の桜

 ランランラン ランランラン


 

滝沢馬琴

群よう子作の「馬琴の嫁」を読んでから、無性に滝沢(曲亭)馬琴作の「南総里見八犬伝」なるものが読みたくなった。
馬琴が82歳で亡くなるまでの間、28年の歳月をかけて完成させた全108巻の長編小説である。
近くの図書館で探したら、栗本薫の「里見八犬伝」という一冊の本が見つかった。これには第1話から第4話まであり、あとは「そののちのあらすじ」として概略紹介されているだけである。
名犬「八房」と「伏姫」、そして「八犬士」の現れるいわれなど、大切なこのお話の出だしが良く分かる。
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八犬士が持つ白い珠。以下巻末の解説から引用する。
「いわゆる「勧善懲悪」の思想を原則としていますが、「八犬伝」で懲らすべき悪とは、世間に横行している個人としての悪人どもだけではなく、管領や室町政権などの体制側の「悪」をも懲らすべき「悪」としていることです。その意味では「八犬伝」は八犬士たちの冒険や活劇をおもしろく展開しながら、時代の全体に対してつよく批判する小説でもあったのです。」
とてもおもしろかった。人がバッタバッタとよく切り殺され、もっと「人命尊重」を訴えたい気がしたが、昔はこんなものだったのかもしれない。                        (了)