ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Tove Jansson の “The True Deceiver” (2)

 きょうは家で仕事始め。しかしまだ、おトソ気分が抜けない。正月休み、酔いのさめた夕方に見た映画が頭にちらついている。『るろうに剣心』、『荒野の決闘』、『赤ひげ』の3本だ。
 「るろ剣」で印象にのこったのは、「憎しみの連鎖は断ち切らねば」(佐藤健)、「青くさいことを言うな」(江口洋介)というセリフ。innocence と experience の対立が読み取れておもしろい。前者のほうが優位の扱いだったが、ぼくとしては互角のほうがよかった。
 『荒野の決闘』を見たのはたぶん7回目くらい。これでも同映画のファンとしては少ないほうだ。ヘンリー・フォンダが初めてキャシー・ダウンズを見かけたときの、あのボーっとした表情。あれこそ innocence というものです。が、彼はもちろん experience の持ち主でもある。ヴィクター・マチュアのほうは experience のカタマリみたいだが、心の根っこに innocence がある。だから決闘に加わり死んでしまう。
 『赤ひげ』は封切りのとき、亡父に連れられ田舎の映画館で見て以来3回目。ぼくが何かイケンことをしたのだろう、映画館の前で叱られ、父は「もう見せん」と言ったものの、しばらくして「見たいか」と尋ねてきた。ぼくはどんな映画か知らなかったが、なぜか「うん」とうなずいた。おそらく父自身、ぜひ見たかったのだろう。
 今回初めて気づいたことがある。山崎努桑野みゆきが橋の上で落ち合うシーンでは、ませガキのころも電気に打たれたような衝撃を受けたものだが、あれ、なんと合成だったのですね。ガクっときたが、それでもあの悲恋物語が innocence の結晶であることには変わりない。
 また、三船敏郎加山雄三の対峙は experience と innocence の衝突であり、その融合が全編のテーマと言えることもよくわかった。じつはその点を前から確かめたかった。
 というわけで、ぼくは最近、この innocence と experience の対立と融合という問題にとても関心がある。"The True Deceiver" にもこんな一節がある。But her innocence left her a very long time ago, and she never noticed. She eats only grass, but she has a meat eater's heart. And she doesn't know it, and no one has told her. Maybe they don't care enough about her to take the chance. .... How many different truths are there, and what justifies them? What a person believes? What a person accomplishes? Self-deception? (pp.195-196)
 ただでさえわかりくい文脈だが、ネタを割りたくない。she が誰かはあえて伏せておこう。とにかく、innocence がいつのまにか experience へと変容したものの、そのことに気づかないのは self-deception ではないか、という解釈も成り立つくだりである。本筋と関係があるような、ないような話とだけ言っておこう。
(写真は、宇和島市立明倫小学校の通学路と古い民家。昔はこんな家ばかりだったと記憶する。それゆえ気にもとめなかったが、いまやホッコリ懐かしい風景だ)