from上海to東京

子育ての日々の断片を書き綴る

父の日のプレゼントがあった

samso2005-06-20

今日もいつものように「ほいくえんある?」と言うので「ある」と答えると、「いきたくない」と言って泣き出した。いい加減に諦めたらと思うが、自分も幼稚園時代はそうだったので、つき合ってあげるしか仕方ない。
保育園に着いて、子どものロッカーをみると、バッグに洗濯物と箱が入っていた。どうしてなのか保育士さんに聞いてみたら、持って帰るものをぶら下げるフックに掛けてあったはずだと言われた。金曜日に見逃していたようだ。いつもリュックに一杯詰め込んであるに変だとは思ったのだったが。箱の中身は、父の日のプレゼントだった。
保育園から帰ってきて、自転車に乗りたいと言うので、広場に連れて行った。遊ばせておいて本を読んでいると、「おれんじのものがある。みて」と言ってきた。手を引っ張られて付いていって、指差す先を見ると、夕日があった。

すぐれた人間

期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉』に、

いまの若い人は余裕がなくて、アグレッシブな人が多いでしょう。それは基本的に善良な私、というものがあって、それを最終的な自分の根拠にしているから。そこから出発してくるから、それを守るために、やわらかくて、やさしくて、美しい自分を守るためだったら、いくらでも針をだしていく。

とあった。そういう人が多い気がする。針をだしている人に針をだしちゃダメよと注意をすると、こちらに向かって針を投げてくる。こちらは針だしを非難している訳だから、針をだせずに逃げるのみ。気をつけないといけないのはこちらが針をだしていないつもりでも相手にとっては針をだしているように受け取られ、強烈に針が飛んでくることがある。こういうときは、どうすればいいのか。解決策なし。合気道のように、相手の力を使って投げばいいってか。かなり修行を積まないとできそうもないね。
内田さんは、別のところで、

「すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対して、なみの人間は自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ。(・・・・・・)一般に信じられているのとは逆に、基本的に奉仕の生活を生きる者は選ばれた人間であって、大衆ではない。(・・・・・)高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。高貴な身分は義務をともなう」
オルテガ的「貴族」にとっての「ノブレス・オブリージュ」とは、さしあたり「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性」を遵守することである。それは言い換えれば、「共同生活への意思」を持つということ、自分と異質な他者と対話を維持できる能力を持つということ、「敵と、それどころか弱い敵と共存する決意を宣言する」ことである。つまり、オルテガのいう「選ばれたもの」とは、その語のもっとも正しい意味における「市民」(ラテン語のCiViS)のことなのである。

と。「すぐれた人間」になるのは大変だ。大変だから、大衆と区別して「すぐれた人間」といわれるだろけど。
養老孟司さんは、

私の大学の恩師は、かつて「人の心が分かる心を、教養という」と言いました。ホームレスの心が分かる、年寄りの気持ちが分かる、若い者の気持ちが分かる。個性を伸ばす、伸ばさないと言わなくても、教育はこの一言で十分だと思います。

と。養老がいうところの教養がある人が大人だということ。

不毛の議論

単に議論好きなだけの評論家もどきブロガー(自分もその気がある)が増殖してきているようにみえる。ブログのコメントやトラックバックの機能は、コミュニケーションする、コミットメントするためのものだと思うが、そうしていないコメントやトラックバックをよくみかける。どうしてそういうものがあるのかと思っていたが、なんとなく分かってきた。
1つは単に分析しているだけのもの。試験問題を解くが如くだ。もう1つは、相手の考え方や意見に打ち勝とうとしているだけのもの。両方とも手段が目的化している。本来コメントやトラックバックは、自分も対象のトピックスに関心があり、相手に自分の意見を伝えるためのツールである。トピックスの中身に大して関心がある訳でないので、議論しようとしても噛み合わないのは当然の帰結。