後藤和智『おまえが若者を語るな!』角川oneテーマ21

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

 どうも人は30歳を過ぎたあたりから、「部下や、若いヤツ、サービス業の人は叩いていい」と思うようになる(笑)。
(中略)
 若い人が不機嫌な顔をしたり、「俺たち、ダメっすよ」と卑下してたりするのを、上の世代は喜んでいる節さえあります。
 例えば秋葉原の無差別殺傷事件があった時も、上の世代はメディアを含めてはしゃぎすぎです。若い人が事件を起こすたびに喜んでいる自分に気づいてほしいと思いますね。
NBonline:深澤真紀「自分をすり減らさないための人間関係メンテナンス術」より(ログイン要))

ある程度のリテラシーを持っている方なら、「最近の若いもんは・・・」という論旨の可笑しさはご把握されているかと思います。
古代エジプト時代から言われ続けている年長者からの若者への愚痴ですが、居酒屋でオヤジが酒飲みながらクダ巻いてるぶんにはまだ微笑ましいですが、「若者論」という形でマスメディアを介してしまうとちょっと厄介な存在になります。インターネットの発展に伴い、昔に比べマスメディアの影響力というものは弱まった気もしますが、それでもやはり「流れ」を創り出すには最適な手法であり、マスメディアが垂れ流す「若者論」で語られる「若者の姿」はあたかも本当にあるかのように錯覚してしまいます。
本書は、今までありそうでなかった「若者論」論であり、「若者論」で有名な社会学者の宮台真司精神科医香山リカ、『下流社会』の三浦展をはじめ様々な「若者論者」について言及されます。
切り口は単純明快。「ソースはあるの?」
彼らの論説を時系列に系統立てて整理するにつれ、当初はもっともらしいことを言うものの、次第に論者の「思い込み」で論説が変貌していくことに気付かされます。
データを出せデータを出せとデータ原理主義なきらいはありますが、一番有効な戦法であることは事実でしょう。
結局のところ、「若者論」を語る人たちは自身の周囲での出来事をあたかも「若者の全て」であるかのようにとらえ、偉そうに「若者について語っている」ということが詳らかになっただけでもこの本を読んだ価値があったと思います。
つまり、結論としてはこういうことです。

絶望した!主語を大きくする「若者論」を語る人々に絶望した!
おあとがよろしいようで。

小説の映像化についてあれこれ

 よつばとアニメ(あずまきよひこ.com)を読んで、小説の映像化について、古くはどのようなことが言われてきたのか少々興味が沸いてきましたので、青空文庫の中から落穂拾いめいたことを。

 そこで問題は映畫と文藝的内容との關係如何と云ふことになつてくるが、個々の原作などから離れて廣い意味の文藝的内容として考へれば、それは勿論映畫とは密接な關係がある。この頃の映畫の傾向から云へば、何等かの文藝的内容を持たないものは殆ど無いと云つていいくらゐだ。然し、文藝的内容と云つても映畫に向くものと向かないものとある。云ひ換へれば、その如何なるものを捉へるか、それを如何に映畫的に生かすかが根本であらう。その意味で、反映畫的な或は非映畫的な多岐多樣の文藝的内容を持つてゐる文藝作品などよりも、映畫的に作られ、且つ映畫的な文藝的内容を深く豐かに持つ處のシナリオに依ることが映畫の本道であることは云ふまでもない。
南部修太郎『文藝作品の映畫化』(青空文庫)より

 小説(若しくは戯曲)の映画化に際して僕は(ひとは知ら無い。私感とあるから僕の考えを書く)その構成をシナリオの構成にする、と云う事を第一に心掛けねばならないと思う。大へんわかりきった事で恐縮ですが、僕なぞ時々此のわかりきった事を失念してとんだ恥を晒します。僕の盤嶽の一生のシナリオは原作に忠実過ぎた為に――原作の構成をその侭シナリオの構成とした為に失敗しました。そのくせ物語の中の数多くの挿話の一つ一つや、一つの挿話から他の挿話へのツナガリ等には相当注意を払ったつもりでしたが、所詮は小刀細工です。あれは、最初の水道樋の挿話を物語の最後にするか、若しくは以後のいくつかの挿話を最初の挿話の中に織り混ぜるか、するのが本当でした。
 と、気がついたのが、あの写真をツクッて半年も経った後に、しかも先輩に教えられ初めて、それと悟りました。「シナリオは先ず構成」です。わかりきった事がわかる迄に随分苦労します。
山中貞雄『五題』(青空文庫)より

 近頃、大衆小説を読んであまりこころよく思わないことがある。
 それは、往々にしてその作者が、自作の映画化を企図して書いていると思いなされる場合があるからだ。
 文壇の誰だったかが、
「文学は文学、映画は映画と言う風に別々に進んだ方がいいのじゃないか」
 と言う意味のことを書いていたが、一応頷ける言い分ではあるまいか。
 僕等が文芸家側から求めるものは、在来の映画物語ではなく又シナリオ化された小説でもなく、僕等映画作家に映画製作への強い意欲と興奮を与えてくれ、オリジナルな内容を持った文学作品だ。
山中貞雄『気まま者の日記』(青空文庫)より

 文学作品に対する健全で人生的な発展的鑑賞の気風が昨今は低められている。それ故、例えば文芸映画についても、文学作品そのものへの鑑賞が無規準ななりの或る好評に招きよせられて映画化し、その映画化によって、じかに文学作品をよこよりもっとうわすべりな受けいれかたをひろめるという結果も生じ易い。文芸作品が映画化されてゆくことは一見相互的な活況のようであるが、その実微妙な本質の部分で、却って今日の文化の消極の面が働いているかもしれないのである。文芸映画をつくる人々と観る人々とは、その重大な点をどのように考え又感じ、押してゆこうとしているのであろうかと関心がもたれるのである。こういう点について、私たちは単に観せられる人々であってはなるまいと思う。
宮本百合子『観る人・観せられる人 ――観客の問題――』(青空文庫)より



 小説や漫画がアニメや映画などに映像化される場合に必ずといっていいほど出没するのが「原作厨」です。いや、私もどちらかといえば原作厨なので他人のことは言えないのですが(笑)、原作の改変が行なわれている場合にその良し悪しを度外視してそれをあげつらうような輩のことを指します。もっとも、実際にはその改変が面白ければ文句が出ない場合がほとんどで、つまるところ映像化された作品が駄作だったときの原作ファンの恨みつらみの発露として「なぜ原作どおりにしなかったのか?」と言われるのがホントのところじゃないかと思います。では、「原作どおり」とはいったいどういうことなのでしょうか? これがなかなかに厄介な問題です。
 『トスカの接吻』(深水黎一郎/講談社ノベルス)というミステリがあります。その作品ではオペラの舞台上でオペラの演出を利用した殺人が行なわれるため、オペラの筋と演出の関係が問題になってきます。そこでは、オペラでは台本作家の残した台詞と作曲家の残した総譜(スコア)は不可侵のものであり、音符のひとつ・歌詞の一節であっても変更することは許されないと説明されます。そして、そのような制限の下でどうやって自由な発想を表現していくかが演出家の腕の見せ所となります。オペラにおける台本と演出家のこうした関係は、おそらくは私を含めた「原作厨」的人間が、原作が映像化される際に求める理想的なものではないかと思います。
 オペラの演出家が追求するものとしては大別すると二つの方向性が考えられます。ひとつはリアリティの追求です。大道具や小道具や人物の仕草などにどの程度のリアリティを追求していくか。もうひとつが〈読み替え〉です。先に述べたように、台本の台詞や総譜の書き替えは許されません。ですが、〈読み替え〉は許されます。それが現代オペラにおける演出家のあり方だとされています。
 テキストは作者の意図どおりに読まなければならないのか? それとも、テキストには唯一無二の解釈などなく読む人がどのように解釈しても構わないものなのか? こうしたテキストと解釈の対立*1(あるいは乖離)が、『トスカの接吻』では事件の真相に深く関わっています。テキストの〈読み替え〉の具体例に興味がある方には是非本書を読んでいただきたいですが、刺激的で新しい〈読み替え〉には、あくまで原作を元にしたものである一方で、それ自体に”作品”と評価されるだけの面白さと価値があります。野村美月”文学少女”シリーズなども、そうした〈読み替え〉の楽しさを教えてくれる作品ですが、ひと言で「原作どおり」といっても、そこから導き出される解釈が一様とは限らないわけで、原作を偏愛するがあまり解釈の幅を狭めてしまい、結果としてその作品の価値を逆にを見失ってしまうようなことになってはならないと、自戒の意味を込めて思ったりしました(オチなし)。
【参考】電撃 - 原作に忠実ではなく誠実に 「魍魎の匣」京極夏彦氏ら関係者にインタビュー
トスカの接吻 オペラ・ミステリオーザ (講談社ノベルス)

トスカの接吻 オペラ・ミステリオーザ (講談社ノベルス)

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*1:法律学で例えると、立法者意思説(主観説)と法律意思説(客観説)の対立と考えれば、分かる人には分かりやすくなるでしょうか。