さんさか ネルドリップ珈琲と本と

〇〇のような本

通ってる美容室とは12、3年のお付き合いになり、店の4代目とも親しくさせてもらっている。
たとえる技術
カラーやパーマでボロボロに傷んだ髪を、本来のいい状態の髪質に戻すことにも力を入れているので
「傷んだ髪にトリートメント」みたいなその場しのぎの対応だけでは済まさない。
足し算よりむしろ引き算が好ましく、良い意味で普通ではない美容室である。
4代目の彼との話で面白かったのが、初めて訪れるお客のパーマやカラーを繰り返し
「よその美容室で傷んでどうしようもない髪質」というのを
「タンスの引き出しに無理矢理に服を押し込んだ状態でやって来る」と例えていた。
面白く話したり、面白い文章を書いている人は、そんな「たとえ」を上手く織り交ぜ
使いこなしているのですよという本。
 
旅先で見たもの、起こったこと、食べたものを時系列そのままに話すような人は
どうしようもなくつまらないと思う。
笑いの世界で大喜利や謎かけがズバリそうだし、テレビのバラエティ番組でも
「○○みたいやないか!」とフットの後藤さんみたいにツッコんでる人が生き残っていくのも当然だろう。
結局のところ、そういう例えや比喩の集合体が小説として本になり
また脚本として俳優がしゃべり映像作品となっていくわけで、どうしたって本を読んだり
映画を観て刺激を受けることで、そういう「たとえ」をストックしておくことが大事になる。
いろんな場所に行ったり、美味しいもの、不味いものを食べたり、自分で体験することは
もちろん大事だけど、時間とお金には限りがあるもの。
 
インスタにあげることが生活の軸になっているというより、完全に縛られてる人は
誰かと会って話すときでさえ、スマホの画像を介してしか話せずにいる気の毒な人を
少し前からよく見るようになった。
行った店、食べたものを画像で見せられたらある程度精確には伝わるかもしれないが
もはや直接会う必要がないくらいで、これほどつまらないコミュニケーションはないと思う。
だからこの先、こういう「たとえる技術」みたいなのは多くの人の場合
衰えていくのだろうと思うわけで、この退化も人類が選択した進化なので仕方がない。
 
小説は読んだことはないけど、直木賞作家、浅田次郎さんが小説家としての
「臨場感の欠如」についてエッセイに書かれていたのが非常に興味深い。
“ストーリーや小説の完成度とは別に、文章の醸し出す臨場感という点で
 新しい時代の作品は古典に見劣る。
 その「臨場感の欠如」の理由として、映像文化の作家に与えた影響を否定することはできまい。
 映画の黄金期に続きテレビの登場。その結果、小説家は頭の中に画面を置き
 そこに映し出される情景を文章に変換し始めた。”
生まれた頃からテレビがある我々ならもっと顕著にそういう傾向があるだろうし
スマホが生まれた瞬間からある現代っ子なんてこれからどうなっていくんだろうと思う。
 
単純に芥川受賞作より直木賞作品のほうが映像化には向いてると感じる。
直木賞は大衆文学を対象としているし、芥川賞は純文学作品なのでもちろん文章表現が最高であるべきで
映像化したものに劣るようでは文字で本にする意味さえ疑われる。
最近だと、宮部みゆき東野圭吾伊坂幸太郎などの著作を原作として映像化され
それなりにヒットもしているといえる。
極端に言ってしまえば、小説というより脚本としてすでに完成度が高いものが
作品となっているのかもしれない。
のぼうの城」は劇場公開時期があの震災と重なり、肝となる水攻めのシーンが津波
そのものであったため、劇場公開が大幅に遅れることとなった不運な映画。
原作は本屋大賞2位で直木賞候補にもなった同名小説だけど、著者、和田竜は小説としてではなく
先に脚本として書き上げていたというのは面白い話である。