4月26日(金) 2者ともに歪んでいたら真っ直ぐなのがどこにもない

フライデー!

 

昨日やっと風呂に行ったので今日は

もうどうでもいいというか熱い日になることはわかっているが

しょうがない系である

帰りに図書館Aでもいってブルータスでも読みたい気分だが

あれが月2回刊としていつ発売しているのかいまだに

知らない

 

いろいろ「これがあればなんとかやっていける」(精神的な意味で)

というものについて昨日あたりから考えている

人間が「~もういやだなあ~|」と思って

それをやめる/続ける

のところには精神が最終的にそう思う/判断するのだと思うのだが

 

そうなるまでのところに外部)(それをやめる選択肢があることを知っている/それをやめたいといったところで不可能だ)のことがあるので

外部によってそれができないことがわかっている場合には

それをいかにしてなんとか耐え忍ぶしかない(なんとかそれが外部要因の変化によっておわらないものか)と諦念してやりすごす(なるべくなにも感じないようにする)のではないか

 

オレが想定するシチュは

・シベリア抑留

・小学校(’とくに日本の)

というところである

これを並べて比較するのはおかしいという点もあるが

結果としてシベリア等の抑留者はスターリンの死によって

日本への帰国が実現した(生きてるやつだけ)

小学校はとくに日本では抑圧的にはたらいているのでそこに行きたくない

と言ったところでいかされるのがオチであり6年の収監が終わるまでは終われない

どこか好きなところにいきたいと思っても小学生の身ではいけない

中学生でもいけない

高校生の年齢になってやっと少しは労働の可能性があるゆえどこかで生きていける方法を・・・とか知らないままオレは夢想することがよくあった

ここではないどこかで生きていくためには金(食糧)と家(賃貸)が必要だろう

ということは分かっていたからである

具体的にこの親の家を出ていくためには何が実現すればよかったのか?

 

といつも考えていたが結局最終的に「学校なるものが終われば”仕事する”人間というものになりそれを世間は社会人と呼んでおりいいだろそれなら」

ということでオレは就職した会社を半年でやめたのだが

それはオレにやめる「自由」があったからそうしたのであって

そこでなんか「親の親権的な」ものがあると信じていた親は怒りみたいのをぶつけてきたのだが

よく考えたらおかしな話でオレの自由に対して

怒るのはおかしい

まあいま考えればショックが怒りの形でしか出せなかった(表現できなかった)のだろうし

ショックというのはそういう選択があることを想像もできなかったから

でしょうからね

 

株をもってたら下がる前に売るのがオレの考えなので

そのくらいは当たり前だ

 

なんかいまちょっとした株価・投信価格の下落が

おきているのだがさっそく新NISA元年なのにもう積立を解約する人

がいるらしいよという話が大笑いで

手数料貴族だねえ==~という話である

数年もちこたえるのが投信だし長い目でその資金ほっとける余裕もねえなら

やめちまえという話

 

オレはノーポジなので気楽だ

 

あらためてのこの下落ムーブの中にいまいると

思うが

ポジションをもっているのことはろくなもんじゃないね

 

まさに

 

「資産」がオレ以外の要素で勝手にあがったりさがったりするなんてね

 

バカみたい

 

オレのもっている真の資産はこの脳と手と足とつまり身体

であって仮にいまこれを「占有して使用している」のが真の資産であって

これを活用して脳をうごかして筋肉を使用して50代であろうとなんだろと

筋力はつかえば増加することを身をもってオレがしってることをまさに体験で

証明している感がある

 

つまりもってるのも増加させてるのもそれを体感(’変化をかんじる)のもすべてオレなのである

 

資産はもし外部要因によって金の額面がふえたとしてもそれを利確して

使用する(使用するために増やしてるんだろ?)ところまでをやり終えてはじめて「運用と活用」したことになるのだが

それこそオレの親的に「額面が増えた!」だけで嬉しくなっているのは

なにもやり終わっていないということで

いつまた減るのかわかんないし

増えた分を「活用」して自分のため(あるいは自分につながっていると

信じている部分のため)に金の効用を実現するところまでやってはじめて

運用だといえるのではないか

 

オレはそれが「旅行」とか「本を買う」だと信じているのでそれをしている

すべての旅行と読書はオレにとってかけがえない一回性の体験であり

記憶はのこり

残った中でまたさらに強いものがオレの脳になんかいも訪れるので

それをかみしめながら生きていくことができる

何度でも

それは金を使った費用として交換したその実際に手元からそれがなくなって

なくなったからはじめてそれにかわる「効用」を得ることができた

できたから記憶満足感もここにある(脳にある)のである

 

おそらくオレの親の思考の心情は

信条は

これとはぜんぜん違う回路なのであるオレには信じがたいものばかりだ

人は全員がそれぞれ違うのであると思えばそれもまた実在なのだが

・永遠に生きる(かのように)

・永遠に生きるし健康も保つ(管理 コントロール

・永遠に生きるがために所属する組織にこだわりをもちそこで指導的立場を確保したら手からはなさない

・永遠に生きるのために資産を永遠に額面でふやしつづける

・永遠に生きるために証券会社と関係をよくする/若い女性が担当について高齢者男性にサービスしてくれる内容を十全に受け入れる

金融商品について吟味するのではなく担当者女性がカイシャで有効にやっていけるようにその商品を唯々諾々

 

列記していてなんかこう戯画的というか

オレのほうの認識の歪みというか

歪みがあるのはあるが

(感情)

じゃああっちに歪みがないかといえばあっちにもあるわけで

 

では両方とも歪んでいたらいっそ「基準」などどこにもないわけではないか

なあ

 

そういう話を書こう

 

 

いろいろ

音楽って

うた

を含むので

「どんな人間でもそれを聴いたことがなく歌ったこともないまま

死んでいく人は まず 存在しない」という仮説をたてました

 

本は1冊たりとも読まないで死んでいく人もいるだろう

 

あとやっぱPast Livesをみなくては

なぜならアトロクのウォッチメンと尼は泣き坂の

ダブル取り上げだからね

2週連続(偶然ですけど)

 

オレが見聞きしてる範囲でさあ

そのことがよく登場する感じの

 

あれもそうだよ

「他人にも心があるのか」仮説とか

 

それこそ高橋源一郎のラジオはときどききいてるが

ほとんどまじめに聴いていないのに

今朝きいてた分には「小説家はそれだけでは生業経済なりたたず

バイトする人もいるし意地になって小説だけでやっててついに生活保護

になる人もいる」

だってさ

DJヒロヒトは面白そうだね

6年間かけて執筆できたのは高橋はラジオとかその他人生相談

とかその他いろいろやっておるからです

 

「機械が人間を殺して(抹殺して)それを見たあるいはまた聞きした

人が「そういうことはよくある」と言う

そういう国」を書くとしたらいったいなぜそういうことになっているのか

を考えますよ

ええ

 

 

東京の宿は高い YJ感想(イリオス)

YJかんそう

イリオス

休載が多いのでなかなかすすまないイメージだが

やはりジャンケットバンクと同じでなんかいも読み直したい

こっちはコミックスも買いたい

今週はイネさん’(パリスの妻)が

やはりイネさんはただものではなかった(その情念)ということが

よくわかってとてもいい

しかしキャシーもまた本当にただものではないことを

もっと証明してほしい

そしてエレネは今後に「任務」がくわわった

とてもよい

 

ますますよい

 

ジャンケットバンクは2対2たいけつが

そろそろ終わりそうだが

来週終わるかどうかだねーーー

来週は合併号のやすみでYJありません!

はあ

 

しかし週刊文春ホウ・シャオシェンの映画の情報が

のっていたので

ゴールデンウィーク後半は大阪と東京とそれぞれいくことになりそうだ

東京は日帰りだけどね

だって高いもんね=宿

 

大阪はそこまででもないぞ

なあ

初夏

3日連続でスタバにいきかけたが

顔がほこり(土ほこり)だらけなのでついに直で

フロいって帰宅した

大変すっきりした

木曜

明日は金曜である

やれやれ

長期戦というのはつかれるのう

まあしょうがないか

 

夕焼け写真散歩にいってくるか

ついでに図書館のぞいてもいいし

ああ

もう初夏なんだよ(気温的には)

そうだよね

そうだよ

そーなんす

 

ツナ缶かいわし缶をくって卵をくってタンパク質でなんとかしよう

 

へへいへいへい

 

椎名林檎のBD「エレクトリック・モール」が

とどいた

90’sの熱狂の証拠

がそこにあるという

関係者そのもんがそういうんだからたしかだろう

そうだろう

 

馬産や野菜栽培系農業や牛豚系畜産などの

テーマを漫画で扱うのは

その「大変さ」と「楽しさ」(ものすごい簡略化した要素分解すぎて恥ずかしい)

を表してマンガのなかの人間の姿に「奥行を与える」=「人間の姿の多様なありさまであるとか運命に翻弄されたりトラブルに接したり肉体的に苦しみ疲労があったり金銭的な苦しみその少なさみじめさ・・・」

書いていてそういう奥行ってもとめられてるのか?と思えてきた

もちろんマンガにおいては「そこまでかかんでいい」というものも

あるでしょうねえ

 

少年マンガとしてサンデーで連載してた銀の匙とじゃじゃ馬は

(背景としての経済のおそろしさもかくけれど)基本的に

少年が女子とその他が好きという少年の欲望と

あとは馬や豚など育てたり愛が芽生える(馬や豚に)とかそういう

北海道における彼らのなんか青春が展開するのであるが

そのような青春の展開は「しらんけどなんかロマンぽい」というかんじ

をもって読者から圧倒的な支持をうけた

ポイントは「しらんけど」ではないか

どのくらいその肉体が疲労などでつかれ苦しむのかは具体的には

読者は知らんのだ

 

オレは肉体をつかうバイトをやって思うのだが

いつそれが終わるか(コントロールできるか)を知らんと

無限感があり

人間が苦しむその根本は肉体の疲れそのものではなく「いつ

おわるのかわからんというアンコントロール感」が人間を

苦しめるのである

それに慣れるのは大変だよ

 

しかしポイントとして農系のお仕事は「最終到達点」があり

作物は肥えておおきくなり収穫され

豚も肥えて食べられるようになり

馬は育ってレースに出られるようになる(ならんやつもいる)

 

結果が出るのはいいことだ

どんな結果でも

 

まあつづけるこったいな(自分に向けて)