チルダイした


「大城(立裕=引用者)の文学的業績は沖縄の現代思想である反復帰論の思想とセットになったときにこそ、21世紀に入る文学的・思想的条件を獲得することができるのである
(比屋根薫「2011 年末回顧 3 小説」、沖縄タイムス、2011年12月22日)


「沖縄の現代思想」??? そんなものあるのか。


「沖縄の現代思想である反復帰論の思想」??? ご冗談でしょう。自分が信奉しているからといって、それを「沖縄の現代思想」などと一般化しないでください。「反復帰論」を唱えているのは、ごくごく一握りの島嶼左翼だけです。つまり知的閉鎖集団のムラの思想ってこと。


大城立裕の文学的業績は「反復帰論」とセットになったとき、「21世紀に入る文学的・思想的条件を獲得することができる」だって??? おそろしいことをおっしゃいますね。それに何という上から目線。大城立裕の文学も批評文もラディカリストからすると愚鈍に見えるかも知れないが、ラディカリストの空中の言説とちがって、それなりに現実や歴史と噛みあっています。それに大城立裕の真骨頂は、「反復帰論」といったトンデモ言説など歯牙にもかけず、匍匐前進しているところにあります。


「反復帰論」は、21世紀どころか、時代そのものに手をかけることすらできないのは先験的です。

消費資本主義社会はつらいよ(番外編) 09:56

● 時間の個人化 −−ジャン・ボードリヤール


 消費者が主体に躍り出ることによって、せり上がってきたのは、時間の個人化という事態である。ジャン・ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』(今村仁司塚原史 訳、紀伊国屋書店)で、このように述べている。


「未開社会には時間が存在しないので、人びとが時間をもっているかどうかを問うことは意味がない。そこでは、時間は、反復される集団活動(労働や祭りの祭礼)のリズム以外の何ものでもない。時間をこれらの活動から切り離して未来に投影し、予測と操作を行うことは不可能である。時間は個人的なものではなく、祭りの行事において頂点に達する交換のリズムそのものなのだ。未開社会では、時間はわざわざ「時間」と呼ばれる必要がないので、交換に関する動詞や人間および自然の周期と一体になっている。時間は「繋がれている」が拘束されておらず、しかも「繋がれていること{Gebundenheit}さえもが、どんな自由とも対立しない。この時間は純粋に象徴的な時間であって、時間だけを切り離して抽象的概念とすることはできない。『時間は象徴的である』ということ自体が無意味だといってもよい。要するに、未開社会には貨幣が存在しないのとまったく同じように、時間も存在しないのである」。
「分割可能で抽象的でクロノメーターで測られるような時間は、したがって交換価値のシステムのなかで均質化し、他のあらゆるモノと同じ資格でこのシステムに組みこまれる。」
 


  ボードリヤールの指摘からうかがえるのは、時間の新たな様相である。ボードリヤールの言葉を、ぼくなりに咀嚼してみる。
 「時間をこれらの活動から切り離して未来に投影し、予測と操作を行うことは不可能である。」とはどういう意味か。ボードリヤールはべつのカ所で、「未開社会の特徴である集団全体としての『将来への気づかいの欠如』と『浪費性』は真の豊かさのしるしなのである。われわれの方には豊かさの記号しかない」と記している。納得できる指摘である。現代人の「将来への気づかい」つまり自分の生のすべてを「未来に投影」するることのわかりやすい例をあげると、生命保険をはじめとする諸種の保険や貯金などがある。あるいは「教育」、「福祉」。これらは「後々のため」あるいは「不測の事態」への備えである。しかし「未開社会」では今現在の「集団活動」のリズムこそが最上のもので、未来のために現在を犠牲にするようなことなかった。
 未開社会の時間は、人間および自然の周期と一体になっていて、ことさら時間とよぶ必要はなかった。対照的に、現代社会の時間は「予測と操作」が可能な交換価値として、個人的なものとなった。
 レジ前の無言劇が象徴するのは、時間が個人化したことの露骨なあらわれということができる。言葉をかえていえば、現在の強迫神経症的とでもいうべき意識や感性ありようは、時間の個人化がもたらしたものである。社会が高度化すればするほど時間の価値は高まり、価値が高まれば高まるほど、時間は個人的なものになる。つまり否応なしに個人が析出されるのである。
 未開社会といわずとも、沖縄でもほんの数十年前(スーパーやコンビニ以前、つまりマチヤが一般的であった時代)までは、「時間は『繋がれている』が拘束されて」はいなかった。「時間は、反復される集団活動(労働や祭りの祭礼)のリズム以外の何ものでもない」というのは、過去の理想化のし過ぎだが、場所や空間と不可分の関係にあったとは言える。マチヤにはあったが、コンビニやスーパーにないのは、場所性や空間性である。マチヤは地域のなかにあり、近隣とは地続きであった(「買い物難民」などというのは考えられなかった)。地域や近隣の消滅が時間が「拘束」と感受される理由である。
 時間が個人化したということは、個人のさまざまな属性(男性・女性・大人・子ども・職業・健康状態・地域等々)が消去され、人々が顔をもたない「消費者」として均質化したこと、言葉かえれば、自然な差異が価値化された差異に転化したことを意味する。しかしそれは人々が求めたものである。生の息苦しさ、恣意的な生、個人化、これらはぼくたちが求めてきたものの帰結なのである。

すべての職場が全面禁煙か分煙に

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20111019-OYT1T01004.htm?from=top


. 厚生労働省は19日、すべての事業所と工場に「全面禁煙」か、喫煙室以外での喫煙を禁止する「空間分煙」を義務づけることなどを盛り込んだ労働安全衛生法改正案をまとめた。
 20日召集の臨時国会に提出する。
 同省は2010年2月、飲食店も含む公共の場所を原則禁煙とする通知を出していたが、浸透しきれていない。同省の調査では、全面禁煙、空間分煙のいずれかを実施している事業所は全体の64%にとどまり、半数近くの労働者が喫煙対策の改善を求めているとのデータも得たため、同省は法律で義務化する必要があると判断した。
 飲食店については、一定の濃度を超えない煙の量にするか、十分な換気を行うことを義務づける。
 改正案では喫煙問題以外にも、事業所での健康診断の方法の改善策も盛り込んだ。従業員の健康診断で「ひどく疲れた」「不安だ」などのストレスチェックの項目を設けて、医師や保健師に検査してもらうことを義務づける。
(2011年10月20日07時53分 読売新聞)


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