リツエアクベバ

satomies’s diary

gooとはてなと

 天竺堂さん、朴念仁さん、コメントありがとうございました。gooをほったらかしではてなにこそこそと引っ込んでいる理由は、gooには姑のことを語った記事がいくつかあり、そこには義母が生きているからです。こんなに簡単に死ぬとは思っていなかった自分がそこにいて、そのことに向かい合うことからこそこそと逃げているからです。gooを開くことを怖がるそんな理由が自分の中に見えてきた程度には、日数がたっていることを感じたりします。
 「姑の入院
 わたしの義母に対しての思い、義母を失った悲しみの源というのは、この記事に凝縮されているような気がします。この時の入院は、たったの一週間だったのだけれどね。

たこぽんからTB

 何度も何度も閲覧しました、ありがとう。
 昨日、娘を隔週土曜の中高生対象障害児余暇支援事業に参加させる。この会場にあたる公的施設、隔週で場所が変わるのだけれど、第一土曜の開催場所は、姑が入院していた病院と目と鼻の先。同じ道沿いに右に入ればこの場所、5メートルばかり行って左に入るとすぐ病院という立地。この場所に向かうために車を走らせてすぐに気づく。この前この道を通ったときは、危篤を聞いて駆けつけた時だった。
 やり場のない悲しみは、勝手にたこぽんに八つ当たり。泣いていいって言ったって今は困るだろ。運転しながら泣いてたら危ないじゃないか。泣いた顔で連れていったら余暇支援事業の人たちはびっくらびっくらで困るだろうよ。八つ当たりのエネルギーで、とりあえず動く気持ちをぐぐっと抑え込む。
 迎えに行ったときに、3月の第一土曜は欠席と伝える。理由を「納骨だから」。言いながら、姑の死を簡単に伝える。自分の気持ちが動かないようにぱたぱたと、その場に居合わせた役所のケースワーカーに伝える、「福祉課に行ったの、介護保険の話を聞きに。とても親切にいろいろ教えてもらったの。資料もたくさんもらったの。でも全ていらなくなってしまったの、死んじゃったから。担当の方によろしく伝えてくださいね。」
 死んじゃったから、などという乱暴な言い方を使い、あははと笑いながら言っているはずなのに、それを聞く人たちは痛々しそうな顔でわたしを見る。そうかわたしは痛々しいのか、なんぞとふと思う。でかめの目ン玉は水が多めになるとすぐにバレるからこういうときに損だと思う。
 でもね、男の子に痛々しそうな顔で見られるというのは、「てへっ」と思うココロというものが生まれるということを、そんな状況でも自分の中に発見などするわけで、生きているということは実に逞しいものよのうなんてことも感じたりしたのでした。
 たこぽん、たこぽん、こんなヤツぁ甘やかしちゃいかんよ。でもね、ありがと。