軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

拉致問題解決の正念場

 波乱含みの平成19年も4日を迎えいよいよ始動、比較的天候に恵まれた4日間だったが、これからは“風雨が強く”なるのだろう。
 初詣客に若者たちが目立ったし、箱根駅伝での選手たちの健闘もすばらしかった。若者たちの笑顔が実にすばらしい!
 産経新聞によると、安倍首相は皇室典範改正問題で、大きな問題になっていた女系天皇を白紙に戻すという。メンバーも再検討するらしい。これにも大いに期待したい。
 
 二日ほど余裕が出来たので、「諸君」「正論」という“右翼雑誌”に目を通した。
なかなか充実していたが、中でも目に留まったのは、「正論」の「何故『拉致』を解決できないのか」という、元内閣情報調査室長・大森義夫氏の論文だった。
「拉致――それはすべての国民にとって重い課題であり、日本という国家とは何か、を考えさせるテーマである。併せて、拉致について記すとき、私は痛切な反省の念をを禁じえない」という書き出しで始まる論文は、如何に我が国が『危機管理』に疎かったかを明白に示している。危機を担当する部署の殆どが、一部の政治家たちに翻弄され、「万一に備える意識」が欠如していたのである。
「自省の思いをこめて、その背景を考えれば、やはり戦後の私たち日本人に国民と国家に対する基本的な認識が欠けていたと言わざるを得まい。13歳の少女を含めた、何の罪もない庶民が無理やり北朝鮮に連れ去られ、30年がたつのである。国家主権と人権に対する、この明白な侵害に私たちは怒りを共有し、持続させることがあまりに乏しかったのである。国家を構成する一人ひとりの国民に対する国家の思いやりが行き届いていない」と大森氏は書いたが、ではこれからどうするか、が重要になろう。火の粉が自分に降りかかって始めて人間は真剣になるものである。降りかかるまでは『所詮他人事』に過ぎない。上に行けばいくほど、言うこととやることには差が大きくなる。そして偽善が横行する。
 大森氏は、「全政府レベルで情報を集約せよ」「グローバルな規模で情報収集体制を確立せよ」「北朝鮮の国家としてのメンタリティを研究せよ」と提案しているが、別にそれを否定はしないが、決定的に欠けているものがありはしないか?つまり我が国独自で実行できる「実力」である。箱根駅伝でも「実力」がものを言った。格闘技だって実力がなければ勝てはしない。
「補佐した官僚たちにも責任がある。最悪の展開に備えるのが参謀の任務ではないか」というのは全く正しい。
 最悪の事態を想定し、それに全力を挙げて立ち向かう訓練に明け暮れた私の目から見れば、危機管理の基本はそこにあることは自明だが、では予測どおりそれが「最悪の事態」であった場合にどうするのか?排除できる手段が無ければどうにも出来まい。官僚たちの一部には、万一それが「裏目に出た場合の責任とマスコミに叩かれること」を恐れて“様子を見る”と称して動きはしなかった。外務省も警察もそうであった。我々は「万一に備えて行動」し、それが外れても結果が「大山鳴動ねずみ一匹でよかったのだ!」と自覚して行動してきた。しかし、一般的に官僚組織では、問題が現実だった場合には、まさか「排除したつもり」で書類を書くわけにも行くまいから責任をたらいまわしにして逃避することが多かった。しかし、優秀な官僚たちは良く分かっているのである。仮に“最悪の場合”が想定されてもこの国に「実力」がない以上(いや、使う意思がない以上というべきか)如何にそれを穏便に解決するか、に徹せざるを得ないからである。
 大森氏が元情報担当のプロとして「日本人の英知を結集してインテリジェンスを結集せよ」と説くのは理解できるが、その先の展開は一体どうするつもりであろうか?仮に北朝鮮で「内乱」が起きて金体制が混乱するとの情報が確実だと判断された場合、では我が国は拉致被害者をどう「救助」する?
 元日に近在の高幡不動に参拝に行ったとき、駅のそばで拉致被害者救出のための署名運動が行われていた。事務局長の増元氏始め、都会議員たちなど有志が、元日からボランティアで拉致被害者救出を訴えている。国家的犯罪の被害者たちが、手弁当で戦う姿・・・。大森氏が言うように「国家を構成する一人ひとりの国民に対する国家の思いやりが“全く”行き届いていない」のである。これがこの国の現実なのである。
 自分に降りかからないことには「われ関せず」とする気風こそ、敵の思う壺だと思う。今年こそ国家総力を挙げてこの問題に対処することを切望したい。